【兵頭外伝】第4話 折れぬ牙、砕かれた誇り

――バキッ! ドカッ!


 廃倉庫の空気を震わせる、骨を叩き割るような衝撃音。

 木刀が肉を打ち据える乾いた響きが、残酷なリズムで繰り返される。


 そのたびに、兵頭の体が大きく揺れた。

 膝が折れそうになっても、踏ん張る。


 ペッ、と血を吐き捨てる。

 視界は霞み、世界は赤黒く揺らいでいた。


 さすがの兵頭も、四方八方からの袋叩きには抗えず、

 全身は悲鳴を上げていた。

 だが――その瞳だけは、まだ死んでいない。


 隣では赤井が顔を腫らし、血まみれでなお必死に呼吸を続けている。

 それでも、かろうじて意識だけは手放していなかった。


 ――そして。


 金髪のリボンを揺らす少女――桃蔭学園の令嬢、神楽坂リリー。

 両腕を押さえ込まれ、ただ無残な光景を見せつけられる。


 その青ざめた頬に、一筋の涙が伝った。


「どうしたァ? アニ高の兵頭さんよォ」

「いつもの威勢はどうした? 大口はもう叩けねえのか?」


「この女を助けたきゃ、地べたに這いつくばれや」


 下卑た笑い声が、淀んだ倉庫の空気を腐らせる。


 兵頭は、荒い呼吸を繰り返しながらも――睨みを逸らさなかった。

 ギラリとした眼光だけが、まだ戦い続けていた。


「……やるなら……俺をやれ」


 満身創痍でも、折れない意地。

 その言葉に、赤井が震える唇で笑みを浮かべ、リリーも息を呑んだ。


「オラァッ!」


 木刀が肩に叩き込まれる。

 骨が軋み、視界が白く弾け飛ぶ。

 意識が途切れかけても、兵頭は倒れない。


 ――その瞬間。


 脳裏をよぎったのは、高校に入ってからの日々。

 喧嘩、笑い、仲間。

 そして――守れなかったもの。


 兵頭は、血に濡れた歯を剥き出し、嗤った。


「……誰が屈するかよ。

 俺は――俺のケツは、俺で拭く」


◇◇◇


 入学直前――父親の裏切り。

 兵頭建設の古株、関口さんが現場のミスで解雇された。

 子どもの頃から家族のように接してくれた人だった。


 そんな関口さんを、父親が「使い捨ての駒」のように切り捨てるなんて――思ってもみなかった。

 昔から「男は筋を通して生きろ」と言い続け、実際にそうしてきたはずの父だったのに。


 怒鳴り込んだ兵頭に、父はただ冷たく言い放った。


「悪いが、和真……今は説明できない」


 ――その言葉が、兵頭の心を折った。


(なんでだよ、親父。筋を通すんじゃなかったのかよ。信じてきたものは、全部嘘だったのか……?)


 その瞬間、世界の色が変わった。

 胸の奥に渦巻いたのは、裏切られた悔しさと、どうしようもない虚しさ。


 建設現場へ足を運ぶことはなくなった。

 父を睨みつけるたび、怒りと失望が胸を焦がす。

 代わりに、反発心を燃料に、不良の道を選んだ。


 安田と赤井を引き連れ、喧嘩と迷惑行為を繰り返す。

 次第に周辺の不良たちの中でも名を知られる存在になっていった。


 だが――兵頭の胸は一度も晴れたことがなかった。

 満たされるどころか、空虚さが広がっていく。


 そして、その鬱屈を晴らすかのように、クラスでのいじめにまで手を染めた。

 「こんなことしても意味はない」――わかっていても止まれない。

 暴走する自分を、誰も止めてはくれなかった。


 ――そんなある日。


「もう、その辺にしておけ」


 冷たく鋭い声が、背を射抜いた。

 振り返れば、制服姿の黒髪の男。


 ――九条零司。


 安田が嘲り笑い、赤井が肩を鳴らす。


「こいつ、やっちまいましょう、兵頭さん!」

「ああ、調子に乗りやがって」


 三人で一斉に殴りかかる――


「ぐえっ!」


 先頭の安田が、カウンターの蹴りで吹き飛ぶ。

 その体が赤井に激突し、二人まとめて地面に転がった。


 残された兵頭は、零司と正面から対峙する。


「ちったあやるじゃねえか……だが俺は一味違うぜ」


「……どうだかな」


 零司が、わずかに目を細めた。

 次の瞬間――姿が消えた。


「なっ――」


 気づけば懐に潜り込まれ、顔面に炸裂する回し蹴り。

 骨が軋む鈍い衝撃。

 兵頭の視界が白く弾け、世界が闇に沈んでいく。


 最後に見たのは、冷ややかに二人を見下ろす零司の眼差しだった。


「兵頭さんが……ワンパン……?」

「バケモンだろ……」


 震える声を残し、零司はポケットに手を突っ込んだまま、闇の中へと去っていった。


 意識を取り戻した兵頭が、最初に目にしたのは、腫れた顔の赤井と安田だった。

 荒く息を吐きながら、ぼそりと呟く。


「……俺は、あの野郎にやられたのか」


「兵頭さん……アイツ、ヤバすぎですよ……」


 赤井は青ざめ、声を震わせる。


「たぶん……あれ、最近噂の“影の制裁者”、九条零司っすよ」


 安田の言葉に、兵頭の奥歯がギリ、と鳴った。


「九条……絶対に忘れねぇ。あの目も、あの蹴りも」


 胸の奥で燻る怒りは、敗北の痛みよりも熱かった。

 ――――その執念こそが、のちに兵頭和真を“変える力”となることを、このときの彼はまだ知らない。


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