投稿することなかれ…ただ、紙を置き、鳩を愛でる

音羽 光夫

第1話 キャプテン・エイドリアンは「異なる宇宙」にいた

「みつおさん、気をつけて、お行きなさい」


 教師の激励を受けて、光夫さんは頷いた。―― 人生最大の冒険が始まった。


 列車は、教師を置いて、光夫さん…を大都会の摩天楼へと運んで行った。


 光夫さんは、小説家を目指して上京した。彼が持ち込む先は、小さな出版会社だった。編集は一人で、編集長が一人。月間で一冊刊行。正にギリギリのブラック体制だった。しかし、その紙片は美しく、純文学を目指す、光夫さんの憧れだった。彼は、そのわずかな刊行物を、友人に見せては、文芸の頂点である、と語った。彼の高校の国語教師も、光夫さんの熱意に打たれていた。


「分かった。よぉく分かった。先生が取り次ぐから、そんな毎日、職員室に来るのは、辞めなさい」


 結果、高校教師の伝手を辿ることになり、編集への持ち込みが許可された。光夫さんは、書き溜めた小品の中から、厳選した小編を抱え、いま正に…東京の駅へと降り立った。


 季節は夏、時は昼下がり、快晴の蒼天が、人々を焼き尽くしていた。


「すげえ。東京って、噂に聞いてたけど、こんなに人が多いんだ!」


 彼の実家は千葉だった。千葉は度重なる熱波が原因で、人口が減り、いまは人が殆ど住んでいない。彼の住む千葉市でも、総人口が1,000人に満たず、そのほとんどが、お年寄りだった。彼の実家も、両親が出稼ぎに出ており、光夫さんは祖父母と暮らしていた。


「千葉県民は、熱に弱い。宇宙一だ!」


 子供の頃から、祖父が言っていた。彼が言うには、宇宙には人類しかおらず、世界でも日本人が最も熱に弱いらしい。日本でも、千葉民は特に弱く、宇宙で一番熱に弱い、知的生命体なのだそうだ。


そんな祖父は、光夫さんが小説家になるのに反対だった。


「あんなの! くってけねえだ」


祖父の千葉弁は、きつい。光夫さんは、何時も、ほぼ聞き取れていなかった。ただ、心配されていると感じて、怖くはなかった。


「大丈夫だよ…爺さん。俺、いつまでも、ここで、世話になるから」


光夫さんがそう言うと、祖父は顔をしかめて、何も言わなくなるのだった――いつかは来るのだろうけど。


人込みの中から、こちらに向って来る人物がいた。光夫の前でその人物が言った。


「あ…いたいた、君が光夫かな? 編集の……ちょっとまって」


と言って、編集は名刺を見せた。


「……こーいうものね。あ、それ、見たら返してね」


「あ、はい。待ってください。いま、撮りますんで!」


光夫は、編集の名刺を受け取った。彼がスマホを出して、名刺を撮影していると、編集は煙草に火をつけた。


「立ち話もなんだから。そこのコンビニでジュースでも飲みながら、話さない? 編集費用で、奢るからさ」


「いいんですか? 予算、苦しくなりませんか?」


と光夫が言うと、子供が気にする事じゃないと、編集は笑った。タバコを足元に落とし、踵で消す。顎をクィっと捻って、ついてこいと言う……。光夫は頷いた。しばらく連れ立って歩くと、近くのコンビニが見つかった。そこには、すでに先客がいた。別の編集者と作家志望のようだった。作家志望の少年は、原稿を地面に並べていた。編集者の方が、こちらに気づいて、頭を下げた。


「すみません。散らかしちゃって。すぐ終わらせますんで……」


編集者がそう言うと、少年が涙を浮かべて、編集者を見上げた。


「いや、いいですよ。飲み物、買ってきますんで。それまでに……終わらせてください」


編集はそう言って、編集者に丁寧に挨拶を返した。編集は、光夫に顔を寄せて、囁いた。


「側にいると辛いからな。離れるぞ」


光夫は、驚いて彼を見た。少年がこちらを見ていた。何かを眼で訴えていた。二人の大人が…彼を見降ろしていた。光男は、理解した。この場が修羅場なのだと。光夫は、プロが集う雰囲気に飲まれつつあった。


「これが業界か……なんて厳しい世界なんだろう」


光夫はそう言うと、リュックを降ろした。リュックを覗き込んで、大切な原稿を取り出した。震える手で枚数を数えた。


「1枚、2枚…よし、全部ある、大丈夫だ。でも、風で飛ぶかもしれないな。何か抑える物はないかな……」


 光夫は視線を感じた。ふと右を見ると、鳩がこちらを見ていた。鳩は光夫の瞳を見つめ、小さく頷いた。彼は、何度も頷きながら、歩いていた。そして、少年の原稿を足で抑えた。――光夫の頭に何かが閃いた。


 少年から叫び声が上がった。鳩が一斉に飛び立った。鳩が去ると、涙で濡れた少年が、自分の原稿を見ていた。少年の原稿の一部が鳩の犠牲になっていた。


「鳩は、ダメかもしれない」


 光夫は結論を出して…鳩を見送った。後ろから声がして振り返ると、編集が戻って来ていた。光夫は慌てて彼を追った―― 冷気が光夫に押し寄せた。コンビニは別世界だった……。


 光夫は、コンビニの中でコーヒー牛乳を飲みながら、持ち込み少年を見ていた。彼は俯いて泣いていた。編集者は、何か言って少年の肩を叩き、一緒に原稿を拾っていた。


「あいつ。いい奴だよな」


と、編集が言った。


「いや、僕は、少年の方に、感情移入してたんで。編集者さんの方は、読み取れませんでした」


「そうか? 普通、他人の原稿なんて、拾ってやらんだろ?」


「そうなんですね……物書きの世界って、厳しいんですね」


「ああ、編集者ってのは、連載してる作家の原稿しか興味ねぇよ」


光夫は、編集の言葉を聞いて、文芸の世界に携わる人々の憂いを感じ取った。作家にも哲学が無いとだめだな……光夫は、原稿を握りしめて、震えた。


「あの、僕……先に行って、並べてきますね!」


「ぶほっ。おい。拾うのくらい、待ってやれよ」


と編集は言ったが、光夫はもう走り出していた―― 一生は短いんだ。何だってやってやるさ!


 光夫は鳩を追い散らして、原稿を並べた。光夫の原稿は13枚だった。やっと、鳩が諦めた頃には、編集の周りには、吸い殻が溢れ、美しいタペストリーを描いていた。


 二人がうんこ座りをして、体制を整えた時、編集がおもむろに口を開いた。


「で、どんな話なの?」


「はい。SF小説です」


「え? なんで? うち文芸じゃん? ファンじゃないの?」


「その何ていうか。担当の方に読ませるところを想像したら、筆が進んでしまって。そうなったんです」


「……」


光夫がそう言うと、編集は黙りこんで、冒頭の一枚を拾い上げ、読み始めた。


「ええっと、何々? ヴェラリス星間連邦 宇宙軍 第三艦隊旗艦 セレノス……」


「うわっ。良い声ですね!」


編集は、にやりと笑うと言った。


「まあ、原稿を読んだ数は、他の奴に負けねぇからな。いい編集ってのは、声も良くなるんだよ。声、鍛えられっからな!」


編集はそういうと、正座に組みなおした。光夫も釣られて正座になる。そして、行くぞ?と言って光夫を見た。


 静寂の中に朗々とした声が響いた。木々が騒めく。鳩が集まって、編集の頭にとまった。沢山の鳩が頷きながら近づいてきた。風が吹いた。紙が揺れる音がしたが、鳩の体重にびくともしなかった。鳩がこちらを見て頷いた。




【――


 ヴェラリス星間連邦 宇宙軍 第三艦隊旗艦 セレノスの作戦室は、喧騒に満ちていた。キャプテン・エイドリアンは「異なる宇宙」にいた。彼は、船外モニタを見つめていた。ニヴァリスの真空は、白かった……。


 エイドリアンは、ホログラフに触れた。すると、作戦室が宇宙に溶け込んでいった。クルーの囁きが広がった。床面には、ニヴァリスが映し出された。群青の大海…黄土の砂漠…褐色の山脈。クリーム色の渦が、森を隠していく……。


静かな溜息が、作戦室に満ちた。


「惑星のように見えるね」


誰かの声が聞こえた。


「境界も見えない……永遠の大地……ニヴァリス」


静謐な音楽が流れていた。ビバルディの四季だった。テーブルは、菓子と酒に彩られ、華やかな香りが漂っていた。


 エイドリアンは作戦室を見渡した。ドームの中心にパーティ・テーブルがあった。分析官のリタとタイチ中尉が見えた。副官のアリサ中佐が、シャンパングラスを持って床を見ていた。床はホログラフで、ニヴァリスの景観を映し出していた。クルー席は、ホログラフを囲う様に、扇状に並んでいる。エイドリアンは、テーブルの側でクルーを見ていた。彼は、シャーベットのカップを取ると、蓋を開けた。鮮烈なライムの香りが漂った。スプーンを見つけて、グリーンの凍土に突き刺す。すくって口に運ぶ。冷えたライムが、舌を焼いた……。


「冷たい」


彼は、眉を寄せて、頬に手をやった。


「100億光年も、続いているの?」


リタの声が聞こえた。エイドリアンが顔をあげると、リタとタイチが話をしていた。タイチは天井を指さし、数人が上を向いていた。


「ドームの天蓋がみえるかな。あれをハイプルプレーン・システムだとするよ」


タイチの声にクルーが頷いた。


「そして、あそこにスポットライトがあるでしょ。天蓋から釣られてる。そこから、天蓋を斜めに照らしてるよね?」


オレンジの光跡がドームへ伸びていた……。


「あのスポットライトを恒星だと見立ててみよう。ほら。光が当たっている場所が、楕円になっているでしょ。見えるかな?」


タイチの声を聞いて、ああ…みえる、とクルーの声が広がる。


「あの楕円がね、ニヴァリスの民の昼なんだ。生物が住める場所さ。大きさを想像してよ! あのエリアだけで、何光年あるんだろう? いったい地球が幾つ入るんだろうね?」


タイチの説明に「おおぅ」と歓声が沸いた。


エイドリアンは目を細めて頷いた。


「異世界の宇宙に広がる、神話の世界……か」


彼はそう言って、アイスを口に含んだ。爽やかな酸味と甘みが広がった。


 エイドリアンは、アイスの容器をテーブルに戻した。すると、左の手首に赤い点滅が見えた。エイドリアンは、後ろを振り返った。彼のデスクに、小さな光の板が浮いていた。


「……とうとう……来たか……」


彼はそう言うと、デスクに向かって歩き出した。


クルーの声が小さくなり、呼び出し音が聞こえてきた。エイドリアンは、小走りで駆け寄り、ホログラフに触れて警告を消した。


デスクについて椅子に座り、ホログラフに触れて、ディスプレイを見つめた。―― 彼の瞳に赤いメッセージが映り込んだ。




『緊急:作戦司令 速やかに遂行せよ』


エイドリアンは、軽く息を吐きだした。


ふと脇見ると、飲みかけのコーヒーカップがあった。手に取って口に運ぶ…温い液体が彼の舌に絡みついた。酸味と苦みが同時に押し寄せる。―― 遠くで、誰かが笑う声が聞こえた。




彼はカップを持ったまま、ディスプレイにそっと触れた。


「最重要機密事項」


彼は呟くと、周囲を見渡した。そっと、ディスプレイに顔を寄せた。彼の瞳が、上から下へと激しく動き、目を見開いて止まった。


撥ねる様に、腰が浮いた。両手をついて顔をあげて、口を開く。


「あ、アリサ……」


声は小さく、誰にも届かなかった。


彼はゆっくりとデスクの前まで歩いた。足の裏が痺れて、床が分からなかった。手で膝を抑えると、震えていた。


エイドリアンは、大きく息を吸い込み、尻に力入れて……緩めた。少しづつ息を吐いて行った。顔に手をやり、こすり付け、頬を抓った。最後に、両手で瞼を抑えて揉み解してから、手を降ろした。胸を張って、テーブルの方に歩き出した。


テーブルに近づくと、酒の匂いがした。どこかで音楽が鳴っていた。


「諸君…ちょっと失礼するよ。皆は…引き続き、楽しんでくれ。……あ、アリサ、君は、来てくれないか?」


 アリサが彼を見返していた。エイドリアンは頷いて、展望ラウンジにへ向かった。振り返ると、アリサが静かにテーブルを離れた。


エイドリアンは景色を見つめて物思いに沈んだ。ジャスミンの香りがした。


「作戦…指令ですか……?」


右を向くと、アリサが立っていた。エイドリアンは頷き、テーブルの方を見た。静かな音楽と笑い声。彼は、彼女に顔を近づけた。アリサは左耳を彼に寄せた。


「ニヴァリスの民が、反乱を起こした。この船で鎮圧する。武装を……見てくれ!」


 エイドリアンがそう言うと、彼女は彼を見返し、頷いた。彼女は、右手を小さく振って、ホログラフを出した。彼女は、光る板に向けて、何度か指を近づけた。じっと板を見つめ……そっと指を降ろした。……ゆっくりとエイドリアンを見た。彼女の瞳は濡れていた。エイドリアンは顔を歪め、鼻をすすった。彼は、展望スクリーンに体を向けて俯いた。


「まだ、使うと決まったわけじゃない。後で、話そう……」


エイドリアンの言葉に、アリサ中佐は目を閉じ……首を垂れた……。


エイドリアンは、ドームをしばらく見つめていた。


「トッカータとフーガニ短調。バッハか」


エイドリアンの虚ろな声が響いた……。


 エイドリアンは、アリサの背に手をあてて、歩いた。テーブルの近くで、手をそっと離した。彼は、彼女の背を見て……見送り、自分のデスクへ向かった。一度、振り返ると、彼女がこちらを見ていた。―― 目が合った。彼女は、小走りで去り、ディスプレイの陰に消えた。


「もう、立っていられない」


 彼は呟くと、デスクに倒れ込んだ。椅子の背に沈み、腹を出して、天井を見上げる。手で顔を隠し、浅く息をつく――何かが鳴っていた。


「ああ。G線上のアリアか」


 彼は、言葉を飲み込むと、一呼吸考えて、机をそっと叩いた。ディスプレイが白に変わり、罫線のホログラフィを描きだした。右下に、時刻のデジタル表示が見えた。エイドリアンは、人差し指を唇に当て、そっと呟いた。ホログラフィは音声に反応し、『指令書』と表示した。彼はじっとそれを見つめ、そっと指を降ろした――時刻が刻まれる。


「ブリーフィングまで7時間ある。やれることは、やる!」


 エイドリアンは、椅子に沈み込み、上を向いた。ドームの天蓋が見えた。柔らかな光が作戦室を照らしていた。音楽に耳を傾け、薄く目を開き、ディスプレイを眺める。そして、指を唇に戻した。


「共有、戦艦セレノス アリサ・ケレン中佐」


画面の右上に、アリサの顔とプロフィールが表示された。


「アクセプト」


エイドリアンが呟くと、アリサの顔が消えて、小さなアイコンマークに変わった。彼は頷くと、顔をあげて述懐を続けた。


「職員には、事前に覚悟をして頂く」


ホログラフが、言葉を文字に変えていった。


エイドリアンは、呟き……囁き……息を継いだ……。


目を瞑っては、天を仰ぎ……画面を睨みつけた。――流れる様に、文字の流砂が形を整えていった……。


彼は、コーヒーカップを飲み干すと、目をあげてアリサを探した。


彼女の黒髪が、ディスプレイから、見え隠れしていた。ポンと言う音がすると、彼女が顔を出した。彼がホログラフに目を落とすと、吹き出しが見えた。


<< 経緯についての話は、必要ですよ >>


 エイドリアンは、ホログラフに頷いて、「了解」と短く呟いた。目をあげると、黒髪だけが見えた。


 彼は、指に向かって「経緯」と囁いた。ディスプレイが切り替わり、映像が映し出された。―― なんだこれは? 彼は息を飲み、目を見開き、そして、両の手で顔を覆った……。帯びたたしい数の民族衣装が見えた。折り重なって、積みあがっていた。血が見えた。焦げていた。倒れていた。子供や女性、お年寄りばかりだった。


彼は、掠れた声を出しながら、コンピューターに耳を傾けていた。


「これを……俺に…話せと言うのか……」


エイドリアンは吐き捨てる様に言って、嗚咽を漏らした。


しばらくすると、 照明が落ちた。オレンジ色の闇が広がり、テーブルには誰もいなくなった。彼が見渡すと、アリサの席に灯が残っていた。


「バイザーをくれ」


エイドリアンが言うと、黒い眼鏡がデスクから出てきた。彼はバイザーをかけ、ディスプレイを消した。椅子に沈みこんで、上を向いた、目を閉じて、耳を澄ました。


パッヘルベルのカノンが響いていた。音楽は静かに夜を支えていった。


戦艦セレノスの作戦室は、眼下にニヴァリスを映しだしながら、静寂に満ちていった――】




編集は読み終わると、余韻を楽しむように、目を閉じた。煙草を一本取り出して、火をつける。


 光夫は、我に返って拍手をした。鳩が一斉に飛び立った。光夫は編集を見つめて、彼の言葉を待った。―― 太陽が悲鳴をあげながら、沈もうとしていた。残光を怨嗟のようにまき散らし、光夫の目を焼いた。


「なんだか……よくわからねぇ話……文章は読みやすかったかなぁ……。アイス食いたくなった……以上」


編集の言葉を聞いて、光夫は弾ける様に立ち上がった。彼は、走りながら問う。


「ライム味~ですよね~」


光夫が戻ってきたとき、編集は煙草をふかしながら、光夫の原稿を撮影していた。


「これさ。一応、うちの親父に見てもらうわ。なにか気になるわ……」


光夫は驚いて言った。


「お父さんにですか?」


編集は、じっと光夫を見た後、タバコを地面に押し付けた。立ち上がってお尻を叩く。


「光夫は、そろそろ帰りな。なんかあったら電話するわ」


光夫は丁寧にお辞儀をした。


編集は、ズボンに手を入れると…吸い過ぎ、気持ち悪い…と呟きながら、颯爽と去って行った。


「本当に…拾ってくれないんだなぁ」


光夫は、原稿を拾い集めた……。


鳩たちに、縫い留められた光夫の原稿は、大部分が被害を受けていた。


ふと光夫は思った。


「まさか……ここに何かあったのか?」


光夫は、被害を受けた原稿を手に取った。流れを追う。しかし、鳩が示した場所には、構文破綻は無く…ただ破壊の跡があるだけだった。


彼は空を見上げた。東京は日に焼けて、赤くなり、皮がむけ始めていた。剥けたところに…星が見えてきた。


「星、すくね!」


と光夫は言うと、リュックを掛けなおし、駅の改札に向かって、歩き始めた―― ポケットから小銭を出して、数えた。


 光夫の駅は、もう夜だった。千葉の駅は灯りが少ない。殆どの家は遠く、帰り道で人生を問う。祖父の家も、2時間かかる。


「少年はともかく、鳩には悪かったな。原稿、抑えてくれてたのに」


 そして、玄関の灯りを見て、息を継いだ。戸を掴んで右に開く。ガラガラと音を立てた隙間に、体を押し込んだ。すると、祖父が待っていた。光夫を見降ろして……言う。


「んで、どうだったんさー」


祖父のキツイ千葉弁を聞いて、光夫の目が焦点を取り戻した。


そして光夫は、祖父の言葉が沁みるのを待った……。


「あれ? 今日は、どう…だったんだろう……?」


祖父は、顔を歪めて肩を落とすと、奥に消えた。祖母は、祖父を見送りながら、入れ替わり、光夫の前に立った。


「お風呂、沸いてるだにぃ。早く、はいたんさい」


光夫は頷いて、靴を脱いだ……なにがあったのか……よく思い出せなかった。服を脱いで風呂に入った―― 夕食はトンカツだった。涙が出た。


「なんだかよくわからねぇ」


――編集の言葉がリフレインしていた。


何日かして、光夫に電話があった。


光夫が二階から降りると、祖母が立って待っていた。祖母は「編集さん」とだけ言って、受話器を渡した。


「光夫です……」


すると、編集の声がした。


「おまえさ。携帯の番号ぐらい…置いて行けよ。学校の先生に電話してさ、根掘り葉掘りと聞かれてさ、トラウマが蘇ったぜ。先生ってのは、作家も教師も俺の天敵だと、思うのよ……」


「す、すいません。あのときは、勢いを止められなくて、気がづきませんでした」


光夫が謝ると、編集は咳ばらいをした。


「ああ…うん。んでな。うちの親父が…おまえに、もっと書かせろって言うんだよ」


「え? 本当にお父さんに見せたんですか?」


光夫が言うと、編集は黙り込んでから、編集長について説明をした。


「でなあ…親父が言うに、お前、原稿の地の文に、説明記述をいれてないだろ? 匂わせもしない。俺は、全く気付かなかったぜ」


編集の言葉に、光夫は答えた。


「はい! 没入感を増すための、文体の工夫なんです!」


編集は、続けて光夫に質問をした。―― 意識して制御できるのか?


光夫は、編集と文体談議に花を咲かせた。編集は、編集長にあってほしいと言う。光夫は喜んで応じた。


「そうか……。それでだな。あの形式で何か書けるか? ホラーとか、良いんじゃねぇか? と俺は思ったんだけどよぉ」


「えっと。いいんですか? 読んだ人、PTSDになるかもしれませんよ」


編集は、しばらく黙っていたが、光夫に言った。


「………。そうだな。ホラーは禁止だ。それで、SFにしたのか。納得したぜ。こりゃ難儀だなぁ」


「あの……。何でも書きます!」


「俺が、最初の被害者になるのは、なしだ」


「はい」


最後に彼は、


「わかった。まずは、その課題からだな。よく切れる刃物みてぇなもんだ。切るもんを選ばねぇとな。で、……次は、いつ会える?」


と聞いた。光夫は、次の日曜日が良いと告げた。そして、互いのスマホの番号を交換した。


 光夫が受話器を置いて、2階に戻ろうとすると、廊下に、祖父が立っていた。後ろに祖母もいた。二人がこちらを見ていた。光夫は、大きく頷いて…Vサインをした。祖父は首を振ると、居間に消えた。祖母は夕飯の支度をすると言って、台所に消えた。光夫は階段を昇ろうとした。しかし、階段に抱き着いて、動けなくなった―― 冷んやりと、木の香りがした。


「足が……カチカチ……だ」


光夫が顔を伏せた先に、誰かが刻んだ傷があった。よく見ると、彼の名前だった。――光夫は、幼い時に見た景色を思い出した。


 夕飯は、久しぶりに…トンカツだった。食卓につくと、祖母が…今日のお肉の話や…明日の魚の話を始めた…。祖父は何も言わなかった。光の加減なのか…祖父母の瞳が光って見えた。光夫はご飯に目を落として、唾を飲み込んだ。トンカツに箸をつける。


一口、かみしめた時、涙が溢れた……。


祖母は立って、タオルを取りに行った。戻ってきたとき、彼女の目も赤かった。祖父は立ち上がってトイレに消えた。光夫は、タオルを受け取って涙を拭いた。


「塩辛い……」


トンカツは旨かった。白米は甘かった。味噌汁は体に沁みた。祖父の嗽が遠くで鳴った。




―― 千葉を熱波が襲っていた。


深夜になっても、大気はゆるかった。


光夫は、草の香を嗅ぎながら、そっとキーボードを撫でた。


彼の想像の世界は、広がり続けていた……。




――(了)――

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