第20話 過去
白峰虚凛は保健室から出た後、すぐに教室に戻り、荷物を持って下校していた。
その間は、運よく誰にも会うことは無く、まだ模倣の被害者は出ていない。でも、誰かから話しかけられた瞬間、白峰虚凛はその人物の模倣を始めてしまうのだろう。それは、避けられようもない事実であり、そのことを認識していないのは白峰虚凛だけだった。
事実、保健室の中で、鷹田先生、淡河斎理、三枝紡の模倣をしていた時でさえ、彼女は自身が模倣していることを自覚していなかった。あの時――いや、あの時からずっと、彼女の頭の中にあるのは、一つの意志だけ。
(わたしは……わたしは化け物なんかじゃない)
その言葉は、虚凛の胸の奥で何度も反響し、やがて遠い記憶の扉を叩き始めた。
あの時も、同じことを思った。いや、あの時からずっとそう思っている。でも、どうして、そんなことを言われたのだろうか。
この問いは、淡河斎理と関わるまで、答えを見つかることは無かった。でも、今は――橘叶望の一言のせいで、その理由を理解してしまった。
『どんな風に他人から見られているのか考えたらいいのに』
あの一言で、白峰虚凛は淡河斎理から、どのように見られているのか考えてしまったのだ。
あの日――淡河斎理と初めて出会った新学年の初日から、今日この日のまでの関りで、彼が感情を色で見ることが出来る能力があることは理解している。むしろ、それが無ければ説明がつかない行動が多々ある。
だからこそ、淡河斎理の目から、自身を見た場合、どのように見えるのか完全に再現できてしまった。
虚無
淡河斎理の目で見る世界は、他人の感情の色で満ち溢れている。ソレは、常人では気が狂ってしまうほど。彼が今日まで耐えることが出来た理由は、三枝紡のような温かい色を持っている人物が、ずっと側にいてくれたからだろう。
でも、わたしは違った。彼の目から見た自分は、何もない無色だったのだ。
そんな人物なんて、わたし以外に一人も見たことが無い。わたしと同類になり得た可能性があった、橘叶望でさえも、ちゃんとした色があった。つまり、それが示すことは、わたしが普通とは違う――化け物だったということなのだ。
これが、橘叶望の相性が最悪だという言葉の意味なのだろう。虚凛が斎理の模倣をしている以上、こうなってしまうのは避けられないことであり、今日の出来事が無くても、いずれ訪れることだった。
(違う……違う……わたしは、化け物なんかじゃない)
どうして、わたしはこんな自分になったのだろうか。でも、自分の脳は、その答えを見つけ出してしまう。決して認めたくはない答えであっても。
――全部、全部、最初から
記憶の奥底に沈んでいた光景が、ゆっくりと浮かび上がってくる。それは、もう止めることができない。
*
「おかあさん、みて!できたよ!」
六歳ほどの少女が、机から勢いよく立ち上がり、小さな手でノートを高く掲げた。そのノートには、普通の六歳の少女では解けないはずの、二桁の割り算が、正確な筆順で書かれた。
母親は洗い物の手を止め、振り返り、少女の差し出すノートを受け取った。そこに書かれていた計算式の答えは、どれも正しい答えであり、母親は思わず息をのんだ。
「……これ、本当に自分でやったの?」
問いかけながらも、信じきれない気持ちが声に滲む。教えたのは一桁の割り算まで。それ以上は、誰も教えていない。それなのに、この子は、まだ小学一年生にもならない年齢で、二桁の割り算を、迷いなく解いている。
私たちは特別な家系でもなければ、学者でもない。学力は平均的で、天才と呼ばれるような血筋もない。なのに、どうして……。
しかし、少女は母親の動揺に気づく様子もなく、こくりと頷いて笑った。
「うん! わたしがやったの! すごいでしょ!」
その顔は、ただ純粋に褒められたいだけの子供の顔だった。頭脳は天才であっても、精神は年齢と同じであり、年相応の純粋さを持っている。
母親は、そんな少女の頭を撫でて、褒めることにした。
「すごいねぇ、虚凛。お父さんもきっと、褒めてくれるよ」
母親の手が、少女の髪を優しく撫でる。虚凛は目を細めて、くすぐったそうに笑った。その笑顔は、どこまでも無垢で、計算式の正確さとは対照的だった。
「ねえ、おかあさん。わたし、もっとむずかしいのもできるかも。だから、新しい問題を教えて」
今思えば、この家族がうまく回っていたのは、この時だけだったのかもしれない。この時は、虚凛の才能が、ただのちょっとすごい子として微笑ましく受け止められていた頃。母親も、娘の異質さに気づきながらも、それを誇りとして胸に抱けていた。
この時の虚凛は他の子供とあまり関りが無く、自分がどれだけ優れているかを自覚できていなかった。だからこそ、他の子供たちも自身と同じくらい優秀だと思っていたし、この時の能力では大人の方がずっと上だったため、大人は自分より優秀なんだと思っていた。
もし、この時に自分の才能に気付けていれば、あんなことが起きなかったのかもしれない。
*
それからは、小学三年生になるまでは、順調に――いや、表面上は順調に進んでいた。虚凛も何人かの友達を作ることが出来て、放課後に遊ぶこともあった。
その時の虚凛の学力は、中学生の域にまで届いており、担任の先生を悩ます種にもなってしまっていた。――本当に注目すべきは別のところに会ったのにも関わらず。
まぁ、それが判明するのはもう少し後の話であるから、置いておこう。
「虚凛ちゃん、この問題を教えて!」
休み時間の時、クラスメイトの一人が、算数のプリントを手に虚凛の机へ駆け寄ってきた。
虚凛は、少し驚いたように顔を上げたが、すぐににこりと笑ってプリントを受け取った。
「うん、いいよ。えっと……ここはね、こうやって考えるとわかりやすいよ」
虚凛は、鉛筆を手に取り、問題の構造を簡潔に説明し始めた。その説明は、同じ年齢だからなのか担任の先生よりも分かりやすいと評判であり、たまに別のクラスから人が来ることもあった。
そのおかげで……いや、そのせいで、この時の虚凛は、他人に解き方を教えたりすることが、良いことだと思っていた。だから、虚凛は困っている人を見つけるたびに、他人に教えて続けていた。
その結果……。
「ねぇ、最近のアイツ、うざくない?」
他人に教えて続けているその態度が、自分の優秀さを見せつけているように感じるクラスメイトも出て来たのだ。しかも、その生徒は、クラスの中でもクラスの中でも中心的な存在だった。
明るくて、話題の中心にいて、周囲の空気を操るのが上手な子。その子が「虚凛って、なんか偉そうじゃない?」と口にした瞬間、空気は一気に傾いた。
虚凛は、何も変わっていないはずだった。ただ、困っている人に手を差し伸べていただけ。でも、周囲の目は変わっていた。
「なんであんなに知ってるの?」
「先生みたいに話すの、ちょっと気持ち悪い」
「自分が一番って思ってるんじゃない?」
そこには、嫉妬や妬みと言った物もあったのかもしれない。それもそうだろう。同じ学年のはずなのに、学力が比べ物にならないほど上なのだ。中には、親から口うるさく「あの子みたいになりなさい」と言われている子もいた。
その言葉は、子供たちの心に静かに棘を刺し、虚凛に対する敵意を育てていった。
虚凛は、ただできるだけなのに、それが誰かの劣等感を刺激し、誰かの家庭の空気を重くしていた。
その事実に虚凛が気付くことは無い。むしろ、そのような感情を虚凛は理解していなかった。何故なら、同年代に虚凛より優れていた人物はおらず、親のような大人には「わたしが知らないことを知っている凄い人」と尊敬の念を抱いていたからだ。
負の感情を抱くことも、負の感情を向けられることも、虚凛にとっては理解できないこと。だから、より悪い方向へ行ってしまった。
それから、虚凛は孤立してしまう。あまり話さない子も、今まで仲良くしていた友達も、全員が話しかけても、虚凛のこととを、いない人ように扱う。今まで仲良くしていた友達も、内心では虚凛に対する嫉妬のような物があったのかもしれない。それが、クラスの中心的な位置にいる子の一言によって、表に現れてしまう。
だけど、虚凛にはそれが何なのか分からない。何故無視されているのか、何故嫌われているのか。
そう考えた結果、虚凛の頭は間違った答えを導きだしてしまった。
「わたしが良い子じゃないから無視されるんだ。それなら、もっと良い子にならないと」
その結論は、虚凛にとって唯一の正解だった。彼女は、誰かを傷つけるつもりなど一切なかった。だからこそ、無視される理由が自分の至らなさだと信じるしかなかった。
それからは、他人の間違いを指摘して、正しい答えに導くことこそが良い子の証だと信じるようになった。
誰かが計算を間違えれば、すぐに気づいて声をかけた。誰かが漢字を間違えれば、そっとノートを覗いて訂正した。
でも、それが、さらに虚凛を孤立させていく。最初の内は、無関心だったものが、次第に敵意に変わっていく。
そして、虚凛はさらに、良い子になろうとしていく。
この悪循環は、何度も何度も巡って行く。最初のうちは、虚凛の両親も虚凛側に立っていたが、周囲の苦情を受けて、次第に虚凛のことを責めるようになってしまう。
何故、周囲の苦情なんてものが出来上がったのか。それは、次のような虚凛の言動が原因である。
「おばさん、今日は燃えるゴミの日じゃないよ」
「おじさん、ここは喫煙禁止だよ。タバコを吸いたいのなら、別のところで吸わないと」
「お兄さん、このマンションはペットが禁止されているんだよ」
虚凛は何も間違っていることは言っていない。ただ、他人の間違いを指摘していただけだ。でも、それが周囲の反感を買うのは当然のことだろう。
人間は、否定されると反発したくなるものだから。
その結果、虚凛の両親は、近所の人全員から苦情浴びることになり、どんどん疲労して行く。上手くいっていた家庭も、今や跡形も残っていない。
そして、最後の引き金となったのは、やはり虚凛の一言だった。
「お父さん、知らない女の人と会っているの、隠したいならもっと上手くしたほうがいいよ」
それが、終わりの始まりだった。虚凛には、父親が不倫をしていることに気づいていた。しかし、いくら天才だと言っても、まだ子供。不倫という行為のことを何一つ知らない。
さらに悪いことに、虚凛にとって大人とは、自分が知らないことを知っている優秀な人。その考えは変わっていなかった。
だから、虚凛は母親もそのことについて知っていると思っていたのだ。実際には、微塵も気づいていなかったのにも関わらず。
「は?」
母親の驚く声が部屋に響く。当然だろう、一緒に虚凛と向き合っていると思っていれば、こんな裏切りをされたのだから。
虚凛は、何がいけなかったのか分からなかった。ただ、事実を伝えただけ。間違いを正すことが、良い子のすることだと思っていた。
でも、母親の顔は、今まで見たことのない表情をしていた。目は見開かれ、唇は震え、手は洗いかけの皿の上で止まっていた。
「……虚凛、それ、どういうこと?」
母親の声は低く、震えていた。
虚凛は、少し首をかしげて答えた。
「お父さん、昨日の夜、駅の近くで女の人と一緒にいたよ。手、つないでた。あと、前にも何回か見たことあるよ。お母さんも知ってると思ってた」
虚凛は言葉を続けていく。それが、どんな結果をもたらすかは分かっていない。
「あなた、この話は本当?」
母親は、声を震わしながら父親に尋ねていた。
父親は、一瞬だけ目を伏せる。その沈黙は、答えを告げるよりも雄弁だった。
母親の手が、皿を握りしめたまま小さく震える。
「……答えて」
母親の声は、低く、押し殺した怒りと悲しみが混じっていた。
父親は、ゆっくりと息を吐き、虚凛を一瞥した。その視線には、責める色も、庇う色もなかった。ただ、何かを諦めたような影があった。
「……ああ、本当だ」
そこからは、早かった。気付けば両親は離婚していて、虚凛は母親に引き取られていた。父親からは、毎月養育費を払われていたのだが、それでも、母娘の二人で生活するには、働かなければならない。
母親は、毎日パートに行って、少しでも多く金を稼ごうとする。しかし、今まで専業主婦だった虚凛の母親には、その慣れない毎日が大変であり、今までしたことが無いようなミスを何回もしてしまう。
「お母さん。これ、違うよ」
そして、虚凛はその間違いを絶対に指摘する。虚凛にとって不運だったのは、間違いを指摘するという方法を、止めてくれる大人がいなかったところだろう。母親は、その指摘に対して、どんどんストレスを貯めていく。
そして、小学六年生になった時だった。その時の虚凛は、学校では完全に孤立して、近所の人全員から嫌われた。それに、母親も味方であるとは言い難い。
「お母さん、ここ……」
虚凛が何かを指摘しようとした、その瞬間だった。
その日は特別な出来事があったわけではない。母親に何か大きな不幸があったわけでもない。ただ、数年間積み重なった小さな苛立ちと疲労が、今日という日に限界点を迎えただけだった。
バチン――
乾いた音が、台所に響いた。虚凛の頬に、熱が走る。何が起きたのか、一瞬理解できなかった。
母親は、手を振り下ろした姿勢のまま、固まっていた。その表情は、怒りとも悲しみともつかない、ぐしゃぐしゃに混ざったものだった。唇が震え、目は潤んでいるのに、涙は落ちない。
「……うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさい!何で……何で、お前はそうなの?何で、他人の気持ちが分からないの?何で、お前の様な化け物が私から生まれたの⁉」
その言葉は、音ではなく刃のように虚凛の胸に突き刺さった。化け物という響きが、頭の中で何度も反響する。意味は分からない。だけど、それが決して褒め言葉ではないことだけは、直感で理解できた。
「お母さん、わたしはっ――」
「うるさい!もう、その口を開かないで!」
それから、虚凛は口を開くことが無くなった。家でも、学校でも、通学路でも。だけど、そのことを心配する人なんて一人もいない。その事実が、虚凛の心を締め付ける。
一度だけ、母親に話しかけたことがある。ほんの短い言葉だった。だけど、その瞬間、頬に平手が飛び、足が脇腹を蹴り抜けた。最近では、何も言わなくても同じことが起きる。理由は分からない。
虚凛は、何度も何度も考えていた。でも、答えは出ないし、相談できる人物などいない。
そんな状態で、日々は過ぎていき、小学校を卒業してしまう。だけど、別れを悲しむ人も、卒業を祝ってくれる人もいない。虚凛は、卒業式が終わるとすぐに、荷物を持って家に帰っていた。
――化け物
何度も母親から言われた言葉が頭に思い浮かぶ。わたしは化け物だから、こんな孤独を味わっているのだろうか。もし、今からでも、普通になることが出来たのなら、全部戻ってくるのかな?
だけど、普通とは何なのかが分からない。笑えばいいのか、黙ればいいのか、間違っていても指摘しないことなのか。それとも、誰かの嘘に気づいても、知らないふりをすることなのか。
そんな時、とある考えが頭に思い浮かんだ。わたしは普通という物が分からない、ならば、周りの人になれば、普通になれると。 それなら、最初はお母さんになろう。お母さんになったら、お母さんの普通になることが出来るはずだし、何より接している時間が長いから、真似をするのは簡単だ。
そう決心すれば、後の行動は早かった。
虚凛は、その日から母親の一挙手一投足を観察し始めた。朝の起き方、顔の洗い方、髪を整える手つき、食器を持つ角度、歩くときの足音の大きさ、ため息をつくときの呼吸の深さ、母親が話すときの声の高さ、言葉の間の取り方、語尾の伸ばし方、殴る時の腕の動かし方から、蹴る時の体重移動まで。 虚凛は、それらをまるで数式のように分解し、頭の中で組み立て直した。
この時、天才ともいえる虚凛の頭脳は大きく役に立った。普通の人では出来ないような、計算も一瞬で終わらせてくれる。その代わり、他人の感情の機微は少しも分からなかったのだが。
そうして、虚凛は母親の普通を完璧に模倣することに成功した。起きる時間、歩くテンポ、話すリズム、ため息の深さ。それらは、まるで母親の影のように、虚凛の身体に染み込んでいった。
「ねぇ……何なの……ソレ」
その時の虚凛を見て、母親は心底怯えたような表情をして呟いていた。それまで、一度も会話をしていない。なのに、母親は虚凛の動きだけで、自分が模倣されていることに気付いたようだった。
でも、もう手遅れだった。こうなってしまったら、虚凛の心は母親のベールで覆われて、表に現れることは無い。
「ソレって何?そんなことより、うるさいって言っているでしょ」
この怒りは、母親の模倣によって出て来た物であり、虚凛自身の心には少しも怒りが湧いていなかった。だけど、この言葉は母親を怯えさせるには十分な物であった。
そもそも、今まで虚凛を育てていたのだ。その天才性は理解している。だからこそ、虚凛に敵意を向けられることを恐れていたようだった。
実際には、母親に対して何も用意しておらず、その心配は杞憂だったのだが、それ以来暴力を振るわれることは無くなった。でも、昔のような、仲がいい母娘に戻ったわけではない。むしろ、より距離が離れただけだ。
どうして昔のように戻らないのだろう。これはお母さんの普通ではないのかな?
そう思って、中学でも、同じクラスメイトの模倣を始めていた。まず最初に……。
「あたしは水城澪。虚凛ちゃん、これからよろしくね」
それから虚凛は、ずっと他人の模倣を続けて生きていた。最初は意識していたはずの模倣も、いつしか習慣となり、やがて無意識の領域へと沈んでいった。気づけば、誰かの動作をなぞりながら、誰かの言葉を話し、誰かの感情をなぞっており、模倣先の思考が、自分の思考のように感じられ、模倣先の感情が、自分の感情のように錯覚されていったのだ。
その頃には、模倣をしているという自覚は無くなってしまったし、最初の思い――普通になりたいという目標など忘れてしまっていた。でも、そのことに疑問を持ったことは無い。淡河斎理と会うまでは。
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