第19話 廊下にて
斎理と紡は、保健室を出た後、鞄を取りに行くために教室へ向かっていた。ただ、その間に口を開くことは無く、歩いている廊下は、沈黙が支配している。
あの時の虚凛さんのことを思い出す。アレは、もはや模倣という言葉で表せるものでは無い。今の虚凛さんは、他人になっており、あの色を見た瞬間、斎理の脳裏には橘さんの「化け物」という言葉が鮮明に蘇ってしまった。
おそらく、虚凛さんは他人になることによって、自身の傷ついている心を覆い隠しているのだろう。過去に何があったのかは分からないが、倒れる瞬間のことを思い出すと、そうした答えが思い浮かぶ。
でも、僕には何ができるのだろうか。僕が出来ることは、虚凛さんの心の色を見る程度で、その心をいやすことなんて出来やしない。むしろ、道徳の授業の時の様に、傷つけてしまうのだろう。
そう思うと、これからは虚凛さんと関わらないのが正解なのかな?
そんな時、後ろから紡が声を掛けて来た。
「……斎理」
その声は、とても弱弱しく、今すぐにでも消えてしまいそうな声だった。
「なぁ、もう諦めないか?アレは、もう俺たちに何とか出来る品物じゃない。鷹田先生とかの、大人じゃないと、どうしようもならないよ」
紡の声には、斎理がこれまで見たことがないほどの、不安と疲弊の色が滲んでいた。
その言葉を受けて、斎理は屋上で虚凛さんを変えると宣言した時、紡が迷いなく協力を約束してくれたこと、そして「俺はどんなことであっても協力する」と言ってくれたことを思い出していた。
でも、その紡が、諦めを口にしている。あの紡にこんなことを言わせるほど、アレは衝撃だったのだろう。紡を責める気なんて、微塵も思い浮かばなかった。
確かに、これ以上虚凛さんと関わってしまうと、本格的に僕たちが壊されてしまうかもしれない。いや、そうなることは避けられないだろう。そう思ってしまうほど、アレは異質過ぎた。
「まだ、斎理は白峰さんと関わっていくつもりなのか?俺も、あの屋上で約束を交わした時から、何度も白峰さんと関わってきた。そのたびに、白峰さんが斎理のように見える錯覚をしてしまっていたけど、何とか今日まで関わっていくことが出来たんだ。だけど、その結果がこれだぞ」
紡はそこで言葉を切り、深く息を吐いた。その吐息は、まるで長い坂を登りきった後のように重く、熱を失っていた。背中はわずかに丸まり、握りしめた拳は力なく震えている。その姿は、これまで何度も隣で見てきた頼もしさとは、まるで別人のようだった。
「……もう、これ以上は無理だ」
かすれた声が、廊下の静けさに溶けていく。その響きは、諦めというよりも、限界を超えてしまった人間の、最後の告白のように聞こえた。
斎理は、胸の奥がじわりと痛むのを感じた。紡を責める気持ちは一切なかった。むしろ、ここまで一緒に歩いてきてくれたことが奇跡のように思えた。けれど、その奇跡は、もう終わりを告げようとしている。
夕焼けの光が窓枠の影を作り、二人の間に壁を生み出す。その影の壁は、目に見えないはずなのに、確かにそこにあった。
斎理は、ほんの数歩の距離が、今は手を伸ばしても届かないほど遠く感じられることに気づく。もう、紡は虚凛さんと関わることは無いのだ。
「……ごめん」
紡は視線を落としたまま、小さく呟いた。その声は、謝罪というよりも、自分自身を許せない人間の吐息に近かった。
斎理は何も言えなかった。言葉を探そうとすればするほど、喉の奥が詰まり、胸の痛みだけが広がっていく。
窓の外では、夕陽がゆっくりと沈み、廊下の影がさらに濃くなっていった。その影は、まるで二人の間に横たわる深い溝のように、静かに広がっていく。
そんな時、背後から声がした。
「二人とも、まだいたんだ」
その声は、静まり返った空間に不意に差し込む風のようで、斎理の肩がわずかに跳ねた。
振り返ると、そこに橘さんが立っていた。夕焼けの残光が窓から差し込み、橘さんの輪郭を淡く縁取っている。逆光のせいで表情ははっきりとは見えないが、その視線だけは真っ直ぐこちらに向けられていた。
「橘さん……何の用?」
斎理は、自然と声を低くしていた。胸の奥に、わずかな緊張が走る。
虚凛さんがああなってしまった原因には、橘さんも含まれている。一番の原因は僕だったとしても、橘さんの対応に悪かったところがあったという事実は変わらない。
むしろ、橘さんの虚凛さんに対する対応には、悪意が含まれているため、同じことをする可能性が高い。
でも、橘さんの返事は予想外の言葉だった。
「ちょっとね……アレがああなってしまったのは、私のミスだし」
その一言は、廊下の冷えた空気に沈んでいくのではなく、むしろそこに新たな波紋を広げた。
斎理は瞬きを忘れ、橘さんの輪郭を見つめた。
逆光の中で、その表情は依然として読み取れない。だが、声の調子には、後悔とも諦めともつかない、複雑な色が混じっていた。
「ミス……?」
「そうだよ、アレは私のミス。私はアレのことをかなり侮っていたから、多少の荒療治だけで終わる話だと思っていたんだよ」
橘さんは、ゆっくりと廊下の壁にもたれかかった。
その仕草は一見すると気怠げだが、わずかに握られた拳が、彼女の内心のざわめきを物語っているようだった。
「でもね――」と、橘さんは視線を窓の外に向ける。夕陽はほとんど沈みかけ、空は赤と群青の境界を曖昧に混ぜ合わせていた。
「荒療治じゃ、アレには通じなかった。むしろ、余計に深く潜らせただけだった」
その声は淡々としているのに、どこか自分を責める響きがあった。斎理は、胸の奥で何かがざわつくのを感じた。――橘さんが、自分の非を認めるなんて。
「橘さんが自分の非を認めるなんて……明日は雪でも降るの?」
「ねぇ、君は私のことを何だと思っているの?まぁ、その認識であってるけど。そんなことより、君はこれからどうするの?アレとまだ関わっていくつもり?」
その問いは、まるで鋭い針のように斎理の胸に突き刺さった。橘さんの声音は穏やかだったが、その奥には確かに試すような響きがあった。
夕陽はほとんど沈み、廊下の影は夜の色を帯びている。その中で、橘さんの瞳だけがわずかに光を宿し、斎理の返答を待っていた。
紡は視線を落としたまま、何も言わない。その沈黙が、斎理の背中を押すのか、引き止めるのか、自分でも分からなかった。
――関わらない方がいい。そう思う自分がいる。
――それでも、あの色を見てしまった以上、放っておけない自分もいる。
喉の奥が乾き、言葉が出てこない。
そもそも、虚凛さんをより悪い方に変えてしまった僕には、これからも虚凛さんと関わっていく権利があるのか?胸の奥で、答えのない問いが渦を巻く。
――僕が関わることで、またあの色を濁らせてしまうかもしれない。
――それでも、あの色を見てしまった以上、目を逸らすことは裏切りになる。
「一応言っておくけど……」
橘さんの声が、この静かな廊下に響く。
「権利とか、責任とか、そんなクソつまらないことで答えを出さないで。私が聞いているのは、君の感情がアレと関わりたいかどうか――それだけ」
橘さんの言葉は、刃物のように余計な理屈を削ぎ落とし、斎理の胸の奥にある生の感情だけをむき出しにさせようとする。
その言葉は、僕の人生の中で一番冷たく、冷酷な言葉だった。でも、きっとこれが彼女なりの優しさなのだろう。おかげで、決心がついた。
「僕は……まだ諦めたくない。これからも、ずっと虚凛さんと関わっていく」
橘さんは、わずかに口角を上げた。それは笑みというにはあまりにも淡く、けれど嘲りとも違う――まるで、斎理の中の何かを確かめて安堵したような表情だった。
「……そう。なら、最後に一つ、私が気付いたことを言うよ。私が君に関わるのはこれで終わり。後は一人で頑張って」
「気づいたこと?」
橘さんが気付いたこととは、いったい何なのだろうか。少しも予想できない。
「前もって言っとくけど、コレはあくまで私の予想。細部には多少違うことがあると思う。だけど、コレと似たようなことが起きたってことは保証できる」
「待って、何を言っているの?」
振り返ってみれば、この時に言われた言葉のおかげで、僕は虚凛さんと向き合うことが出来たのかもしれない。それほどまでに、今から言われる言葉は、僕が必要としている物だった。
「それは……アレ――いや、白峰虚凛の過去だよ」
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