第21話 決心

「ああ、そうだったんだ。だから、わたしは……」


 淡河斎理の目のせいで――目のおかげで、自身の原点を思いだす。確かに、こんなことをしていたのならば、他人から化け物だと言われてもおかしくない。だって、この虚無は明らかに他人とは違う異質な物だったから。

 でも、この模倣をやめることは出来ない。何故なら、この模倣のおかげで、ある程度は普通になることが出来ているのだ。模倣されている対象は、その異質さに気付くが、それ以外の人物は気付かないことが多い。斎理から相談された三枝紡や鷹田先生を除けば、橘叶望しか模倣に気付くことが出来なかったのが証拠になるだろう。


 ……いや、それは表向きの理由だ。わたしは、わたしのことが怖いんだ。本来の自分に戻れば、また孤立してしまうかもしれないし、そもそも元の自分がどんな人物だったのか、ほとんど覚えていない。今のわたしにとっては、本来の自分に戻るより、他人の、模倣をすることの方が、楽で簡単なのだ。

 でも、もう今までのようには戻らない。自分の異常性を自覚してしまったから。

 わたしは、元の白峰虚凛になるべきなのかな。それとも、他人の模倣をしている白峰虚凛になるべきなのか。誰か、教えて。

 そんな時、背後から懐かしく、そして敵意が含まれている声がした。


「何苦しそうな顔をしてんの?糞女」


 その言葉が耳に触れた瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。心臓が一拍遅れて脈打ち、指先がじわりと冷えていく。振り返る前から、誰の声なのか分かってしまった。


「澪ちゃん……」

「昔の私のまねをしないで、気持ち悪い。それに、よく親しげに私のことを呼べるね?」


 澪の声は、刃物のように鋭く、そして冷たい。でも、何も言い返すことが出来ない。彼女の怒りは正当なもので、言い訳することすら許されないからだ。

 でも、何で彼女はわたしに話しかけてきたのだろうか。もう二度と関わりたくないと思っているはずなのに。


「……どうして、わたしに話しかけてきたの?いつもは、こんなことしてこないのに」


 お互いに、中学の時から引っ越していないのだ。生活圏が同じだから街中で見かけたことが何度かある。そのたびに、二人とも気付いていないふりをしていて、中学の時以来話したことなど無かった。

「チッ、やっぱり気付いていたのか」

 澪は舌打ちをしながら、わずかに顔を背けた。その仕草は、苛立ちと戸惑いが混ざったような、複雑なものだった。

 虚凛は、彼女の表情を読み取ろうとしたが、澪の顔は、まるで仮面のように感情を隠していた。

 怒っているのか、困っているのか、それとも——傷ついているのか。今までの虚凛なら分からなかっただろう。でも。今の虚凛には……。


「……気付いてたよ。澪ちゃん、ずっとわたしのこと、避けてた」


 虚凛の声は、震えていた。それは模倣ではない、自分の喉から絞り出した本当の声だった。

 澪は、虚凛を睨みつけたまま、しばらく黙っていた。その沈黙は、言葉よりも重く、鋭かった。


「……アンタが私の真似をしてた頃、どれだけ気持ち悪かったか分かる?アレはね、ただの真似じゃなくて、私の場所を奪っていくんだよ。時間が経てば経つほど、私が奪われていく感覚、アンタは自分の罪を自覚してるの?」


 澪の言葉は、鋭く、重く、そして容赦がなかった。一語一語が、虚凛の胸の奥に沈んでいく。それは、責める言葉というより、澪自身の痛みの告白のようにも聞こえた。

 そのおかげで、虚凛は自分の模倣がどんなものであったのか自覚することが出来た。ただの真似ではなく、他者を奪っていく行為、それはとても褒められたものでは無く、澪の憎しみは当然の感情だった。

 でも、それならば、今の澪の色は何でこんな色なんだろうか。


「それは……ごめん」


 虚凛は、絞り出すように言った。

 だけど、その言葉は澪の前で、あまりにも軽く、脆く響いた。


「ごめんですむと思ってんの?」


 澪は一歩踏み出し、虚凛の額に指先を押し当てる。ぐりぐりと、強く、痛みを伴うほどに。


「それに、本当に悪いって思ってるなら、もう私の真似なんかしないはずでしょ」


 虚凛は、何も言えずに立ち尽くす。頭では分かっている。もう、他人の模倣をしてはいけない。でも——模倣をやめて、本来の自分に戻るということは、また孤独になるということだ。

 それだけは、怖かった。

 澪は、指を離しながら、吐き捨てるように言った。


 「……他人のこと、ちゃんと見たら?どれだけ苦しめてるか、アンタの頭なら分かるでしょ。それに、今のアンタには、あの馬鹿がいるんだからさ」


 あの馬鹿?何のことを言っているのだろうか。わたしの頭脳でも答えが分からない。


「何を言って……」


 問いかけた瞬間には、もう遅かった。澪は虚凛から距離を取り、背を向けて歩き出していた。その背中は、はっきりと、もう関わらないという意思を示していた。

 だけど、虚凛はどうしても気になってしまった。澪に話しかけられた時からずっと思っていた疑問、その答えは仮説することすら出来ない。


「待って! 最後の質問……」


 虚凛は、思わず声を上げた。

「何で澪は、暖かい色をしているの?」


 その言葉に、澪の足が一瞬だけ止まった。振り返らない。


「何それ、気持ち悪い」


 その言葉だけを残して、澪は虚凛から離れていく。もう振り向くことは無く、声を出すことも無い。

 だけど、彼女はその間もずっと、暖かい色を身に纏っていた。



「それが、虚凛さんの過去……」


 斎理は、この三人以外、誰もいない廊下で、橘さんの仮説を聞いていた。橘さんが予測した虚凛さんの過去は、とても冷たく、孤独なものだった。

 彼女の生き方は、致命的な間違いをしていた。だけど、それを正してくれる人はおらず、その状態のまま高校生にまでなってしまっていた。


「白峰虚凛は、へたくそだったんだ」

「へたくそ……?」


 斎理は、その言葉を繰り返した。橘の口から出たその一言は、侮蔑でも嘲笑でも無い。むしろ、深い理解と痛みを含んだ、静かな評価だった。


「そう。白峰虚凛は、感情の扱い方も、人との距離の取り方も、全部へたくそだった。自他の違いも理解してないし、他人の感情なんて、一ミリたりとも理解していなかったから、こんなことになる。それさえ理解していれば、もっとマシな生き方をしていたはずなのに」

 斎理は、黙ってその言葉を受け止めていた。廊下の静けさが、橘の語る虚凛の過去をより鮮明に浮かび上がらせる。


「……ねぇ、どうしたら、彼女を救うことが出来る?」

「さぁ?自分で考えて。私がするのはここまでって言ったはずでしょ」


 橘さんは教えてくれない。でも、ここまで手伝ってくれただけで十分だ。この話を聞けただけで、虚凛さんがどういう人物なのか理解できた。

 冷たく、孤独で、誰にも気づかれずに間違いを積み重ねてきて、感情の扱い方も、人との距離の取り方も、全部が不器用で、誰かの模倣でしか生きられなかった人。

 もしかしたら、彼女の心は家族の中が良かった時のまま、時間が止まっているのかもしれない。

 そうだとするならば、僕がすべきことは、見つかった。


「さっさと行けば?今なら、まだ間に合うかもしれないよ」


 その言葉は、冷たくも優しかった。

 斎理はその言葉を受けて、迷いなく歩き出す。


「ありがとう、橘さん。また明日」


 *


 「なぁ、どうしてアドバイスをしたんだ? 橘さんは、白峰さんのことを嫌ってるだろ」


 斎理が虚凛さんのところへ向かった後、人気のない廊下で、紡は橘さんに問いかけた。橘さんは、その質問を受けて少しだけ目を伏せる。

 それは、自分の思い出したくも無い過去を思い出しているように見えた。


「……そうだよ。私はアレのことは大っ嫌い。私側の人間の癖に、そのことに自覚しておらず、他人のことを傷つけながら生きている。そんなの、許せるわけないでしょ。私は、他人と関わらないって決めたってのに」


 橘さんはそこで言葉を切り、わずかに唇を噛んだ。廊下の静けさが、彼女の吐息をやけに大きく響かせる。


「……でも、アレには理解者が出来るかもしれないんだ。私と違って、他人と関わってきた。だからこそ、そういう人物と出会える可能性がある。そのチャンスを、自分の手で潰させるわけにはいかない」


 冷たく突き放すような言葉の奥に、確かに温度があった。紡はそれを感じ取り、何も言わずに橘さんの横顔を見つめた。

 もしかしたら、橘さんは白峰さんの過去と同じようなことを、経験したことがあるのかもしれない。だから、他人とは関わらないようにしているし、白峰さんを嫌っているのは同族嫌悪なのかもしれない。

 だけど、そのおかげで白峰さんの気持ちを理解できるのも、また橘さんなのだろう。斎理という人物が、白峰さんにとって、どれほどの救いとなるのか、それを一番理解しているからこそ、ここまで動いてくれている。

 めんどくさいけど、優しい人なんだ。


「橘さんって、めんどくさいね」

「急になに?喧嘩を売ってるの?」


 橘さんが眉をひそめてこちらを睨む。


「いや、そういうつもりは無いよ。それに、どういう意図で言ったのかは、分かっているだろ」

「……うるさい」


 吐き捨てるような声だったが、その響きはどこか弱々しく、完全な拒絶には聞こえなかった。

 橘さんは視線を逸らし、無言のまま斎理のことを待ち続けている。これ以上手伝わないとは言っても、結果までは見届けるつもりらしい。まったく、そういう所だよ。

 そうして、二人は無言のまま待ち続ける。窓際にあった影が、じわじわと床を這い、二人の足元を飲み込んでいく。時計の針が一つ進む音が、やけに大きく響き、そのたびに、橘さんの横顔がわずかに赤みを帯びて、やがてまた影に沈んでいく。


「なぁ」


 沈黙を破った自分の声が、やけに廊下に響いた。


「斎理は成功するかな?」

「私より、君の方が理解しているはずだけど」

「ははっ、確かにそうだ。だって、俺の親友なんだから、失敗するはずがねぇ」


 口にした瞬間、自分でも驚くほど自然に笑みがこぼれていた。その笑いは強がり半分、信じたい気持ち半分――だけど、胸の奥にある不安消えてしまっていた。

 橘さんは何も言わず、ただ視線を前に向けたまま。その横顔は、夕陽の赤と影の境界にあり、表情の半分が光に、もう半分が闇に沈んでいる。窓の外では、風が木々を揺らし、葉擦れの音がかすかに届き、影はさらに伸びて、二人の足元を完全に覆い尽くしていた。

 ――時間は確実に進んでいる。そして、その先に待つ瞬間もまた、着実に近づいてきている

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