第16話 嵐の前の静けさ
八時三十分になり、いつも通り鷹田先生が教室の中に入ってくる。その姿は、相変わらず暖かい色を纏っていたが、生まれてからずっと他人の色を見続けていた斎理には、その色がどこか暗くなっているように感じられた。しかし、それは誤差程度であり、もしかしたらただの勘違いかもしれない。
「それでは、今から朝礼を始めます」
鷹田先生が教壇に立って、クラスメイト全員に話しかける。その口調はいつも通り穏やかで、疲れなんて感じない。なのに、何でこんなにも心がざわつくのだろうか。
ちらっと横目でクラスメイトたちの姿を見る。しっかりと先生の話を聞いている者、眠そうにしている者、堂々と本を読んでいる者、クラスメイト達は多種多様な色を纏っていたが、先生に違和感を持った者は僕以外にいないようだった。それならば、この違和感は気のせいなのだろうか。
「今日は四時間に道徳の授業があります。その授業では、グループワークをしますので、それまでに自分がどのグループなのか、白板に張り付けてあるプリントを見て確認しておいてください」
違和感について考えていると、鷹田先生が道徳の授業について言っていた。もしかして、先生が前に言っていた道徳の授業というのはこれのことなのかもしれない。もしそうだとするならば、この苦しみ続けている毎日が、いい方向に変化するかもしれない。
そう考えでもしないと、この毎日をやっていくことができない。
*
朝礼が終わると、教室はいつものざわめきに包まれた。椅子を引く音、机に教科書を広げる音、誰かが笑う声。それらが混ざり合い、空気は橙と黄緑に染まっていく。
斎理は席を立って白板に向かって行く。そこには一枚のプリントが張り付けられており、そこには班分けについて書かれていた。
四班
淡河 斎理
白峰 虚凛
橘 叶望
三枝 紡
……おそらく、鷹田先生は僕たちの相談を受けて、虚凛さんと紡を僕と同じ班にしたのだろう。その点にはとても感謝している死、ありがたいんだけど、まさか最後の一人に橘さんをいれるとは……。いや、むしろそれでいいのかな?彼女も虚凛さんの問題点を知っているし、しかもそれにきがついたのは誰よりも早い。
それならば、きっと協力してくれ……るわけないよね。本当に虚凛さんのことを嫌っているようだったし。
「おっ、鷹田先生に感謝しないとな」
後ろから紡が声を掛けてくる。紡もこのプリントを見て、班のメンバーを確認していた。しかし、その表情は斎理とは違って、不安のようなものは何一つ存在しておらず、むしろ喜びに満ち溢れていた。もしかして……。
「俺に斎理に虚凛さん、このメンバーなら問題ないでしょ。それに、橘さんとは話したことがあるから、うまくいきそうだし」
「その橘さんが問題なんだよね。というか、アレはもう地雷って言うべきだよ」
「え?」
紡はその言葉に驚いて目を丸くしていた。確かに、橘さんは一見すると他人と関わることを嫌う少し不思議な人としか思わないかもしれないけど、虚凛さんが関わると見たことの無いくらいの憎悪を見せるから、正直関りたいとは思わない。ああ、これからどうなってしまうのだろうか。
「あのね、橘さんって僕よりも早く虚凛さんの異常性について気付いていたんだよ。だけど、そのせいで虚凛さんのことを心の底から嫌っていて、あれほどのどす黒い色は滅多に見ないよ」
紡は言葉を失ったかのように、しばらく沈黙していた。彼の色が少し揺れる。それは、驚きと戸惑いを意味しており、今まで橘さんの虚凛さんに対する態度に少しも違和感を感じたことが無いことを意味していた。
「……結構、やばい人なのか?」
「うん、本当に怖い」
その時、視界の端で赤く、暗い色が見えた。
「さっきから、何を話してるの?」
背筋が僅かに震えた。その声は、静かで冷たい。だけど、直視できないほどの怒りをはらんでいた。
恐る恐る振り返る。そこには、先ほどまで話題に上げていた橘さんがいて、まっすぐにこちらを見据えている。
その姿が、本当に……恐ろしい。
「……」
「「……」」
「……」
何かしゃべってよ!僕の目のせいで、橘さんの内心が怒り狂っているのは分かっているのだけど、それが表面上にはほんの少ししか現れていない。なんで、その怒りを表面に出さないことが出来るの。
そうして、三人は互いに見つめ合っていた。誰も、何も話そうとしない。斎理には、この沈黙が永遠に続くように思えてしまう。
しかし、その沈黙を最初に破ったのは紡だった。
「や、やぁ、橘さん。そんな目をしてどうしたの?」
紡が心の底から怯えながらも、勇気を出して話しかけた。第三者から見ると、紡は完全に腰が引けていて、とてもダサく見えるのかもしれないが、僕にとっては英雄そのものだ。
だけど、橘さんはその態度に苛ついたらしい。
「いたっ!」
橘さんが紡の足を思いっきり踏む。普段は本を読んでいて、おとなしそうな印象を与えるのに、実際はこんなにも狂暴だとは聞いて無い。
「私の何処がやばい?私の何処が怖い?」
そういう所ですとは言えない。
このクラスには恐れるべき人物が二人いる。一人は他人の模倣をして生きている虚凛さん、もう一人はこの凶暴さをもっている橘さんだ。
紡は痛みに顔をしかめながら、何とか笑顔を作ろうとした。けれど、その笑顔は引きつっていて、いつもの軽さはどこにもなかった。
ここは、僕が何とかするしかない。
「あ、あのっ……って、聞いて無い!」
何とか言い訳しようとしたが、そのときには橘さんは僕たちに対して興味を失っているようで、白板に張り付けられているプリントをじっと見ていた。
「へー、そういうこと」
そのときも、橘さんの表情は何一つ変わらない。だけど、色はどんどん黒く、汚れていく。やはり、橘さんと虚凛さんを生み合わせるのは危険だ。
僕と紡はその光景を黙って見ていた。下手に刺激するとどうなるのか分からない。だから、何もすることが出来なかった。
「なるほど。だから、君たちは私のことを怖がっていたのか。チッ、あの狂人のせいで私まで怖がられているじゃんか。責任を取ってくれないかな」
いやいや、怖がっているのは貴方の性格です。しかし、何度も、何度も言うけど、それだけは口に出すことが出来ない。
そして、橘さんは二人を、いや、僕を見た。その目は鋭く、僕の全てを見透かしているようで、虚凛さんの目とはまた違う印象を与えられる。アレがカメラのレンズというべきものならば、コレは顕微鏡のレンズとでも表すべきものなのだろう。
それほどまでに、僕の些細な行動からすべてを読み取っているように思わされた。
「で、君は……いや、君たちはあの女を変えようとしている訳か」
ほら、この一瞬で僕たちが何をしようとしているのか気付かれた。やっぱり、僕と……この場合は僕ではなく紡の方が例として最適か。紡と橘さんとでは見えている物が違うのだろう。しかも、それは僕の力のような異能ではなく、虚凛さんのような観察眼のおかげなのだろう。そう思えば、僕の感情の色を見る力なんて、少しも異常じゃない。
とは言え、そんなことはどうでもいい。今重要なのは僕たちがやろうとしていることを知って、橘さんがどの様な行動をするのかだ。橘さんが持っている虚凛さんに対する嫌悪感のせいで、鷹田先生がせっかく作ってくれたチャンスを無駄にするなんてあってはならないことだから。
だからこそ、僕はこのようなことを口にする。
「橘さんも分かっているならさ、僕たちに協力してくれない?」
その言葉は、橘さんにとって予想外だったようで、目を丸くして驚いていた。それも無理はない。橘さんほどの人物でも、虚凛さんへの嫌悪を知っている者が、こんなことを口にするなんて、想像もできなかったのだろう。
すぐそばで紡が、信じられないものを見たような目で僕を見てくる。だよね、僕も紡がこんなことをいったら、同じような目で紡のことを見ると思う。だけどね、虚凛さんのことを考えたら、手段を選んでいるような暇は無いんだよ。
そう言って、橘さんは僕の方に一歩近づいて、下から僕の目を見上げた。
「まさか、私にそんなことを言うなんて……覚悟あるね」
その視線は鋭く、冷たく、まるで僕の内側を覗き込むようだった。僕は、その目に圧倒されて、思わず後ずさりしそうになる。だけど、ここで引いてしまえば、すべてが崩れてしまう気がした。
だから、僕はその場に踏みとどまった。
「ふーん、まぁ、いいよ。残り少ししかない時間くらい、ちょっとは良い幻想を見させてあげる」
また意味深な言葉を残して、橘さんは僕のそばを離れていく。その背中は、どこか達観していて、そして少しだけ寂しげだった。
残り少ししかない時間――その言葉の意味は分からない。何かを知っているのか、それとも何かを予感しているのか。橘さんの目には、僕たちには見えない何かが映っている。
でも、結果的に協力してくれるのなら、それは間違いなくいいことだ。この先になにがあろうと、僕たちは進み続けることしか出来ないのだから。
「凄いな!斎理。あの橘さんにそんなことを言うことが出来るなんて」
背後から紡が勢いよく飛びついてくる。その声は驚きと称賛に満ちていて、少しだけくすぐったい。
……まったく、あれは本当に怖かったんだから。次は紡が橘さんと向き合ってほしいくらいだ。
でも、思えばこれは、少し前の僕には絶対にできなかったことだ。あの目を見て、言葉を返すなんて、考えるだけで足がすくんでいたはず。それでも今、こうして踏み出せたのは――ほんの少しだけど、僕が変わった証なのかもしれない。
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