第17話 急転直下

 そうして、いくつかの授業が過ぎていった。教科書をめくる音、先生の声、窓の外の風の気配。いつも通りの時間が流れているはずなのに、僕の中では何かが静かに揺れていた。

 それは、高揚なのか、それとも恐怖なのか。どんどん近づいてくる四時間目の道徳の授業に、僕の心は翻弄されていた。

 そして、四時間目のチャイムが鳴る。


 僕の胸の奥で、何かが小さく跳ねた。期待か、不安か――それはまだ、はっきりとは分からない。

 鷹田先生が教室に入ってくる。その姿はいつも通り、柔らかな色を纏っていた。だけど、やっぱり僕の目には、その色がほんの少しだけ濁って見える。


「それでは、四時間目の道徳の授業を始めます」


 先生の声は穏やかで、だけど、その言葉には芯があった。教室の空気が、ゆっくりと張り詰めていく。誰もが、この言葉に多大な覚悟が含まれていることを感じ取っている。


「今日、班ごとに話し合ってもらうのは“演じる自分は偽物か?”です。誰だっていつも自分ではない誰かを演じています。私だって、先生としての私として皆さんに接していますし、……家ではまた違う“私”として過ごしています。それは、嘘をついているわけではありません。ただ、場面によって役割が変わるだけです。では、その演じている自分は、本当の自分ではないのでしょうか?それとも、それもまた自分の一部なのでしょうか?この時間で意見を交わし合ってください」


 そうして、先生がメモ用紙を配っていく。教室の空気が、静かに揺れた。配られたメモ用紙の何色にも染まってしまいそうな白さが、問いの重さを際立たせる。

 斎理は、そのメモ用紙を受け取りながら、隣にいた虚凛さんの方を見た。彼女は、何も言わず、ただ紙を見つめていた。その瞳には、感情がない。誰かを演じて生きている虚凛さんにとっては、この問いは致命的なものになりえるだろう。


 斎理は、虚凛の沈黙に言葉をかけるべきか迷った。だけど、彼女の瞳の奥に、ほんの微かな揺らぎを見た気がして、話しかけることをしなかった。


「三十分になったら、班の代表者がみんなの前で発表しますので、真剣に議論してください。それでは、議論を始めます」


 机を寄せる音が、教室のあちこちで響き始める。椅子の脚が床を擦る音、筆記具を手に取る音、誰かの小さなため息。それらが混ざり合い、空気はゆっくりと議論の場へと変わっていく。

 斎理は、班のメンバーの顔を順に見渡した。紡は、いつも通りの柔らかい笑顔を浮かべている。橘は興味なさげに本を読んでいて、虚凛は、まだメモ用紙を見つめたまま、まるでそこに答えが書かれているかのように動かない。


「……それじゃあ、始めようか」


 斎理がそう言うと、紡が軽く頷いた。


「そうだな、斎理はどう思う?」

 演じている自分は、自分なのか――。この問いは、僕にとって簡単には答えられない。感情の色が見えるせいで、他人の嘘に敏感な僕には、演じている自分を素直に受け入れることが難しい。演技の裏にある不誠実さや、意図的な偽りが透けて見えてしまうからだ。


 虚凛さんのように、自己の輪郭すら曖昧になっている例外を除けば、多くの場合、演じる自分の中には、少なからず自分自身の意志が含まれている。場に応じて振る舞いを選び、役割を担うことは、社会の中で生きるための知恵でもある。そう考えると、演じている自分は、完全な偽物ではなく、自分の一部として認めるべきなのかもしれない。


 どれが正解なのだろうか――いや、この問いに正解なんて存在しないはずだ。それなら、自分が思ったことを話そう。


「僕は、自分だと言えないかな。演じていると、自分の意志が分からなくなってしまいそうだし、そこに自分の感情が無いのなら、それは同じ顔をした自分とは全く違う人間だと思うんだ」


 これあが、僕の意見だった。僕には、嘘を見破ることが出来た。それが、生きていくのに必要なことだってことは、ずっと前から分かっていたけど、それでも感情と表面の解離は僕にとって耐えがたいものだった。

 演じることは、時に自分を守る盾になる。けれど、盾の裏に隠れているうちに、本当の自分がどこにいるのか、分からなくなってしまう。遠目から、そんな人を何度も見たことがある。そして、そうした人に限って、本当の自分を見られることを嫌がるのだ。


「なるほどな、斎理はそう思うんだ」


 紡が返事をしてくれる。しかし、他の二人はちゃんと聞いてくれているのか分からなかった。橘さんは、この議論が始まってから一度も本から目を離したことが無く、虚凛さんにおいては、何かを考えこんでいるようで、僕の方を一回も見てくれていない。


 この状況は、いったい何なのだろうか?男二人が何とか議論を成り立たそうとしていて、女二人がそれを無視している、まだ虚凛さんの方が議題について考えているからマシなのだろうが、それでもおかしいだろう。

 すると、本から目を離さなかったものの、橘さんが口を開いた。


「それなら、本当の自分って存在するの?他人と関わっていくのならば、自分の気持ちに嘘を吐かなければならない。そんなことは、一般常識なんだから」


 斎理は、その言葉に一瞬、言葉を失った。そう、それこそが、今まで自分が苦しんできた理由だった。他人と接する中で、自分の気持ちに嘘をついていない人なんて、僕の力を知っている紡と親くらいしかいない。

 それ以外の人間は、皆、何かしらの嘘を纏っていた。だからこそ、橘さんの意見は心の底から理解できる。彼女の言葉は、現実の冷たさをそのまま突きつけてくる。

 だが、斎理は、静かに言葉を紡いだ。


「人と関わる時に、嘘を吐かなければならないことがあるのは分かるよ。でも、それで本当の自分が存在しないって言うのは違うと思う。本当の自分は、ただ隠れているだけで、消えてしまったわけじゃない。誰にも見せられない場所に、ちゃんと息を潜めて存在しているから、それを無いって言い切るのは、あまりにも乱暴だよ」


 橘さんは斎理の言葉に、ほんの少しだけ眉を動かした。それは、彼女の中で何かが揺れた証だった。だが、すぐにその表情は元に戻り、彼女は静かに本を閉じた。


「隠れているだけ……ね。でも、それを誰にも見せられないなら、存在しないのと同じじゃない?」


「そうでもないよ、親でも、親友でも……恋人でも、誰かひとりは嘘を吐かなくてもいい人がいるなら、しっかりと本来の自分が存在できるのだから」


 その言葉に、橘さんは納得したようで、静かに頷いていた。どうやら、僕の言葉はしっかりと橘さんに伝わっていたらしい。

 しかし、次の瞬間――それが間違いだと理解させられた。


「そうなんだ……なら、君は素の自分を見せる相手はいるのかな――白峰虚凛さん?」


 それは、全身から冷汗が出てしまうほどの悪意がこもっている言葉だった。その一言で、場の空気が一瞬で凍りつき、誰もが言葉を失った。

 この橘さんの問いは、ただの疑問ではない。それは、虚凛の模倣の奥に踏み込む、意図的な挑発だった。


 誰かの模倣をして生きている虚凛さんには、素の自分を見せる相手など存在しない。むしろ、自分自身でさえ、本来の自分というものを理解していないはずだ。

 そんな問いを投げかけることは、荒療治どころか、彼女の存在そのものを否定する行為に等しい。僕は、そんなことをしてほしいと思っていなかった。


 だが、橘さんは違った。彼女は、虚凛さんの仮面を剥がすために、あえてその言葉を選んだ。それは、優しさではなく、必要な残酷さだった。


「えっ?ごめん、聞いて無かった」


 虚凛さんが驚いて、顔を上げる。どうやら、考えことに集中していたようで、僕たちの話を何も聞いて無かったようだ。

 でも、聞いて無かったという理由で、追及をやめるほど橘さんは甘くない。

 橘さんは、静かに目を細めた。その視線は、虚凛さんの瞳の奥を見透かすように鋭かった。


「……そう。じゃあ、今からでも聞いてくれる?君は素の自分を見せる相手はいるのかな」


 その質問に、虚凛さんは黙り込んだ。まるで時間が止まったかのように動かない。しかし、それは思考を巡らしているから沈黙しているわけではない。その沈黙は、質問の意味が分かっていないから起きた、混乱のような物だった。その混乱は、どうして起きたのだろうか。


「……その自分を見せる?わたしはずっと素だよ?」


 その言葉に、橘さんは、わずかに眉を動かした。だが、すぐにその表情を静かに整え、虚凛さんを見つめ続ける。おそらく、彼女はこれからどんな言葉を上げかけるか考えているのだろう。

 しかし、橘さんのことだから、それにはきっと悪意が含まれていて、碌なものでは無いはずだ。だから、それを防ぐためにはこのタイミングで話題を変えるしかない。


 僕は、橘さんの口元に浮かびかけた言葉の気配を察して、慌てて声を上げた。


「虚凛さんは、家でもそんな感じなの?」

「うん、そうだよ。何かおかしいところがあるの?」


 虚凛さんは、首を傾げながら僕を見た。その表情には、疑念も怒りもない。ただ、純粋に理解できないという表情に見えた。


「……別におかしいってわけじゃないけど……」


 僕は言葉を濁した。これ以上踏むこむべきではない。

 ただ――その判断は間違っていた。


「はっ、どんな風に他人から見られているのか考えたらいいのに」


 橘さんが、嘲笑しながら、そんな言葉を虚凛さんに投げかけた。そのせいで、場の空気が一瞬で凍り付き、僕は思わず息を呑んだ。その言葉は、それほどまでに鋭く、容赦がなかった。

 虚凛さんは、わずかに瞬きをして、視線を落とす。それは、橘さんに言われた通り、他人から自分がどう見られているのか考えているのだろう。でも、現に僕と橘さん以外は、虚凛さんの異常性に自力で気づくことが出来なかったため、大して効果は期待できないだろう。


 いや、そんなことはどうでもいい。それよりは……。


「なぁ、橘さん。それは言いすぎだろ」


 紡が橘さんに注意する。ああ、そうだ。先ほどの虚凛さんへの言葉は、明らかに言い過ぎであり、僕と紡には看過できなかったのだ。橘さんが虚凛さんのことを嫌っているのは分かるけど、それでも言っていいことと悪いことがある。


「うん、僕もそう思う。これは、議論の場なんだから、相手を傷つけるための言葉じゃなくて、考えを深めるための言葉を使うべきだよ」


 そう言いながらも、僕の視線は虚凛さんに向いていた。彼女は、机の上の白い紙を見つめたまま、微動だにしない。それが、少し怖かった。僕はてっきり、この言葉でも虚凛さんは何も変わらないと思っていたため、こう黙りこんでしまうとは、予想していなかった。

 その時、あり得ない物を見た。

 虚凛さんの無色が、一瞬だけ恐怖の黒色になったような気がしたのだ。

 










 何故だ?この質問で、どうしてそんな感情が生まれる?何が、虚凛さんを変えたんだ?

 斎理は、虚凛さんの心に何が起きたのか、よく目を凝らして見ようとした。しかし、その黒色は一瞬だけ現れた物であり、その時にはもう跡形も無く消えてしまっていた。


 そのせいで、あの瞬間に何が起きたのか分からない。いや、見えたとしても、それが分からないことには変わらない。この目は、感情の色を見るのが限界であり、他人の思考を読み取ることなんて出来ないからだ。肝心な時には、絶対に役に立たない。


「あれ?白峰さん、そんな怯えた顔をして、どうしたの?」


 だが、それに気付いていたのは、斎理だけでは無かった。この問いを投げかけた橘さんも、今の虚凛さんの感情を見逃さなかった。

 いや、見逃さなかったと表現するのは違うかもしれない。彼女は、この問いを投げかけると、虚凛さんがどんな感情を抱くのか分かっていたのだ。おそらく、彼女は僕以上に虚凛さんのことを理解している。そして、理解しているからこそ、あれほどの嫌悪を見せているのだ。


 だが、僕はそれがどういう物なのか分からない。僕の目には限界があるし、橘さんに聞いたところで、教えてくれることは無いだろう。これは、僕自身が時間をかけてでも見つけなければならない物であり、絶対に避けることが出来ない物だ。


「えっと、どうしたの?わたしはそんな顔をしていたかな?」


 ただ、虚凛さんは、先ほどの感情を自覚していないようだった。それは、仕方がない。虚凛さんは、自身が模倣をして生きていることを自覚していないのだ。だから、自分自身の感情が芽生えたとしても、それが何なのか気付かない、気付くことが出来ない。


 実際に、今の虚凛さんはいつもの虚凛さんと大差がない。むしろ、あの一瞬の怯えに気付くことが出来た僕と橘さんの方が異常なのだ。普通の人は、あの怯えに気付くことが出来ず、その証拠に紡は今の状況に頭が追い付かず混乱している。

 だけど、ごめん。話についていけていない状況で放置しているのには少し悪いと思っているけれど、今はそれどころじゃないんだ。後でコンビニのアイスを奢るから、どうか許してほしい。


「うん、一瞬だけ怯えたように、僕も見えたよ。何かあったの?」


  斎理は、虚凛さんの目をまっすぐに見つめ、ゆっくりと、しかしはっきりと告げた。

 彼女の無色の瞳は、斎理の言葉をただ受け止めているように見える。感情の揺れを示す色は何も現れない。しかし、その内側で何かが深く渦巻いていることを、斎理は確信していた。


「わたしが……怯える?そんなことありえないよ。わたしがそんなことをするわけない」


 帰って来たのは否定の言葉だった。

 そうだろう。虚凛さんが、怯えていたという事実を肯定することは無いはずだ。何故なら、僕は「どんな風に他人から見られているのか考えたらいいのに」という言葉に怯えるはずが無いからだ。彼女にとって、怯えたという事実を認めることは、自身の模倣が不完全なものだと認めるようなことであり、それをすることは絶対にないだろう。


 ここからすることは賭けだ。僕が虚凛さんに自身の感情を手に入れて貰おうと行動しても、虚凛さんが現状に自覚が無いと無駄に終わるだけだ。多少荒くなってでも、橘さんが作ったこの好機を逃したくない。


「なんでそこまで否定出来るの?まるで、わたしは怯えないというマニュアルがあるように聞こえるのだけど」


 胸が痛い。もしかしたら、この言葉で虚凛さんが傷ついてしまうかもしれないという懸念が頭を横切り、僕のことを苦しめていく。ああ、好きな人を傷つけてしまうかもしれないという状況は、これほどまでに苦しいことなのか。でも、ここが最後のチャンスかもしれないのだ。何とかして……。


「ち、違う……わたしは……わたしはっ」


 虚凛さんの言葉にならない叫びは、まるで魂の奥底から絞り出されたかのようだった。その無色の瞳は大きく見開かれ、戸惑いの色さえ映さないはずのその目には、確かに微かな震えが宿っていた。

 斎理の視界に、再び、しかし今度は長く、深く沈んだ黒色が虚凛さんの周囲に薄く滲んでいくのが見えた。ただ、それは今までとはケタが違う。僕の人生で見た恐怖の色を、一か所に濃縮したとしても、届くことが出来ない黒色が、虚凛さんの周りを覆い始めた。

 ガタッ

 その色に驚き、椅子を後ろに倒しながら立ち上がる。クラスメイトからの注目を浴びてしまうけど、そんな些細なことは関係ない、今大事なのは、虚凛さんのことだ。


「虚凛さん!落ち着いて!」

「……わたしはっ……化け物なんかじゃないよ……お母さん」


 虚凛さんの身体が後ろに倒れていく。斎理は反射的に手を伸ばしたが、机が邪魔で間に合わない。彼女の体は床に崩れ落ち、周囲の黒色はますますその濃度を増していく。

 クラスメイトの悲鳴の声

 先生が駆け寄ってくる足音

 そこからの教室内の変化は劇的なものだった。急に倒れた虚凛さんのことを心配して駆け寄ってくる物、驚愕して動けない者、先生の指示にしたがって保健室に向かう者。斎理の視界は、パニックの濃い灰色、不安の薄い青、そして恐怖が混じり合った濁った黒色で埋め尽くされていく。


 だが、そんなことは些事に等しいものだった。斎理の目に映っているのは、虚凛さんが纏っている、留まることなく黒くなる色だけだった。それは、この世の黒全てを凌駕する、その言葉がふさわしいほどの色。何があったら、こんなことになるのだろうか。

 そして、これを引き出してしまった僕に、今後彼女と関わっていく権利があるのだろうか。


 思考が巡る。しかし、答えを出すことは一度も無い。頭では、虚凛さんのことを助けるべきだと分かっているはずなのに、体が頭からの信号を受け取らない。

 この時、斎理は常に変動している教室の中で、唯一動くことが出来なかった。先生や紡が声を掛けてくれた気がするが、それは斎理に届くことは無かった。

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