第9話 帰り道

 時刻も十七時となり、空にある太陽も西に傾いている。これで斎理の人生の転機になり得る校外学習も終わり、また普通の学校生活が再開していく。


「これで校外学習を終わります。これからは寄り道などせずに真っ直ぐ帰宅してください。では、解散」


 先生のその号令とともに、クラスメイト達は散らばっていき、それぞれ帰宅していく。いや、帰宅するのは少数派か。


「おーい、これから他の友達と打ち上げに行くけど斎理も来る?」


 何故なら、このバカのような先生の言ったことを一ミリたりとも聞くつもりがない奴がいるからだ。まぁ、そんなことは先生もわかっているだろうし、いくら言っても言うことを聞かないから放置しているだけなのだろうが。

 しかし、鷹田先生なら生徒の気持ちを尊重しているだけなのかもしれない。普通の高校生なら校外学習などのいつもと違う行事の後には、このようにして遊びたくなるものだろうから。でも、僕は……。


「行かない……理由は分かるでしょ」

「そっか……それならまた明日!」

「うん、また明日」


 僕が打ち上げのような無数の色が絡み合う場所に行くわけがない。そんな所に行ってしまったら、眩暈などを引き起こすに決まっているから。

 そのことは紡も理解していて、すぐに打ち上げに行かせることを諦めていた。もしかしたら、この校外学習で多少、他人と関わることが出来ているのを見て、打ち上げのような場所にも行けるようになったと思っていたのかもしれないが、悪いけどまだそこまで耐性がついていない。


 そうして、斎理はこのまま一人で帰ろうとすると、今一番聞きたくない声が後ろから投げ掛けられる。その声は今日の、そしてこれからの日々を思い出させてしまうからだ。


「斎理くん、一人で帰るのなら一緒に帰ろう?」


 虚凛さんが一緒に帰ろうと誘って来る。それは、普段と同じような話し方でもありながら、何処か淡河斎理の面影も残していた。それは、まだ僕の全てを模倣できていないと言うことであり、これからも関わっていくとますます模倣の精度が上がっていくと言うことでもあった。

 もし、これ以上模倣させたくないのなら虚凛さんと関わらなければいいだけだ。しかし、僕の感情がそれを赦してくれない。


「いいよ、虚凛さんの家って何処にあるの?」

「えーっと、この学校をでて右に真っ直ぐ行った所にあるコンビニの近く」

「それなら途中まで一緒だよ。僕はそのコンビニがあるところを左に曲がって真っ直ぐ行ったところに家があるから」


 そうして、二人は横に並んで家へ帰って行く。その間はずっと不安などを押し殺していたから、会話は穏やかで、まるで何もなかったかのように進んでいった。


「今日の校外学習、どうだった?」

「疲れたけど、今までで一番楽しかったよ。来年の受験のせいで、こういう行事は今年までしかないから、残り数少ない行事を楽しめてよかった」


 実際、僕はこの校外学習を楽しむことは出来ていたのだ。いつもの学校行事では、紡意外と関わることは無く、無数の色に圧倒されるだけであり、今回のように複数人と関わったり、落ち着いて楽しむことが出来たことが無いからだ。しかし、文句が無いと言うわけではなく、これからの虚凛さんの関係という特大の爆弾が出来てしまったことが悔いとして残ってしまっている。


 でも、そんなことをわざわざ虚凛さんに伝えるわけにもいかず、ぐっとこらえて不安が顔に出ないようにしていた。そんな斎理の態度を見て、虚凛さんは少しの疑問を抱いているようにも見えたが、それでも踏み込んで来ることは無くてほっとしてしまっている自分がいた。


「それじゃあ、わたしの家はこっちだからここで別れるよ。また明日ね」

「うん、また明日」

 そうして、斎理は虚凛さんと別れて帰路につく。今の斎理は一日中一緒にいた虚凛さんと離れたことに対する寂しさと安堵の板挟みの状態になってしまっていて、その相反する感情に苦しんでいた。どっちか片方の感情にこの身をゆだねることが出来たら、ずっとずーっと楽になることが出来るはずなのに、それすら今の自分には出来やしない。本当に――生きるのがへたくそだ。


 そんな時だった。

 背後から聞いたことのない女性の声が投げかけられ、斎理は慌てて振り返る。

「ねぇ、アンタあの糞女と知り合いなの?」

 その女性は、髪は柔らかい栗色のセミロング、それに冷たい印象を与える青い目をしていて、柔らかい雰囲気の残滓と、この世全てを憎んでいるような冷たさを感じさせてくる。実際に、彼女の色は黒や濃い青であり、橘さんが僕に対して失望した時に見た色と比べても、かなり暗く痛々しい。


「君……は……?」

「私?私は水城澪。あの糞女、白峰虚凛の中学時代の同級生よ」


 その言葉を聞いて、斎理は一歩後ろに下がってしまう。何故なら、中学時代の同級生という言葉と、冷たくて暗い色、ただそれだけで、水城澪が虚凛さんのことを糞女と呼ぶ理由、そして虚凛さんが中学時代に何をやって暮らしていたのか理解してしまったからだ。出来るものなら、そんなことを理解したくなかった。いや、まだこれは予想に過ぎない。この考えが間違っている可能性も、まだ存在している。


 しかし、そんな幻想も次の言葉で打ち砕かれた。


「あーあ、君もあの糞女の異常性について理解してしまったんだ。じゃあさ、私が奢ってあげるから、そこにある飲食店で話でもしない?――あの糞女が中学で何をしていたか教えてあげるよ」


 その誘いに拒否権など存在していなかった。そう思ってしまうほど、彼女の黒は根深く、怒りや憎しみが渦巻いていて、それに飲み込まれそうになってしまう。そして、斎理は彼女についていく。その足取りは重く、ここから先は暗闇になっているように感じさせられる。だが、逃げることは出来そうにもなかったから、ついていくしか選択肢が残されていない。


 その飲食店は普通のチェーン店であり、学生や家族連れでにぎわっていたが、それでも明るい色が斎理の視界を染めていくことはなかった。何故なら、目の前にいる水城澪の憎しみや怒りなどの負の感情の色が、その鮮やかな色が近づいてくることを拒んでいて、まるでこの世で幸せに生きている人全てを憎んでいるように思わせてくる。


「さっさと注文して本題に入ろう。金のことなんて気にしないでいいからさ」


 そう言って、水城澪が席に座ってすぐに注文用のタブレットを渡してくる。斎理はそのタブレットを受け取ると、気付かないうちに水城澪がカレーを注文した形跡があり、彼女はすぐに本題――白峰虚凛について話したいと思っていることを察せられる。だから、斎理も悩まずに指に近いところにあった唐揚げ定食を注文して本題に入ろうとした。


「はい、選び終えたから本題に入っていいよ」

「唐揚げ定食ねぇ、まぁいいか。そんなことより、君はあの糞女のことをどのくらい理解しているの?」


 水城澪が冷たい目つきで睨みつけながら尋ねてくる。もし、ここで少しでも虚凛さんのことを庇おうとしてしまったら、彼女は今すぐこの店を出ていってしまうのだろう。そうなってしまったら、僕の食事代はまだ払えるが彼女の分までは払えないため、無銭飲食になってしまう。だからこそ、これから言うことには一切の嘘を交えるわけにはいかず、すべて本音を――僕が目を逸らしていることでさえ正直に話さなければならない。


 その眼差しのせいで、背中が汗でびっしょりと濡れてしまい、シャツが張り付いてしまっていて、その感覚が気色悪い。それに、今の状態は斎理にとって今までに経験したことがないほどの緊張と恐怖が与えられていることを示している。


「まだ話せるようになってから一週間くらいしかたっていないけど……今日、虚凛さんが僕自身のように見えてしまったんだ」

「へぇー。で、そんなことに気付いてもまだ『虚凛さん』って呼ぶんだ?それがどういうことか理解しているはずだよね、あれを見たんなら」


 斎理は言葉を返すことが出来なかった。彼女――水城澪の糾弾、つまり模倣をしているところを見ても、まだ虚凛さんと呼んでいて、距離をとるつもりがないことに対する怒りを、目の前にして。斎理は、心臓が掴まれたような錯覚を覚えてしまう。それほどまでに、水城澪は白峰虚凛のことを憎んでいて――同じ人間とすら認めようとしていない。


「何で……何で貴方は、そこまで憎んで……」

「は?まだ理解していないの?アレはね、最終的に私達の席を奪うんだよ。私がオリジナルなはずのなのに、みんなみーんな私に対して糞女のまねをするなと言ってくる。生まれてからずっと築き上げてきたものが全て奪われる、それがどんなに苦しいことか分かるでしょ」

「――ッ」


 ソレは斎理が無意識に頭の外へ追いやっていた予感だった。虚凛さんの模倣を見ると、最終的にどうなるのか誰だって理解できる。虚凛さんの優秀さなら、本人以上に本人らしくなることが出来るから、最後には僕自身のアイデンティティが全て奪われてしまう。


 実際に、水城澪は虚凛さんにアイデンティティを全て奪われてしまった過去があるのだろう。だから、彼女にはかつての水城澪のやさしさの残滓と、冷たい怒りの象徴のような雰囲気を持ち合わせているのだろう。まだ、彼女の過去にどんなことがあったのかは詳しく聞いていない。だけど、その雰囲気だけでどんなことがあったのかは感覚的に理解できてしまう。


「はい、ご注文のカレーと唐揚げ定食です。これで注文の品は全てですか?」

「はい、ありがとうございます」


 斎理が言葉を失ってしばらく沈黙の時間が続いた時、店員が注文した品を持ってきて、その沈黙を打ち破った。その手には、まだ湯気が立っている二つの定食があり、静かにテーブルの上に置かれる。


 普段の僕ならば、迷わず橋を手に持ってそれを食べ始めていたことだろう。だけど、今はそんなことすら出来ない。つい先ほどまで感じていた水城澪の怒りが、斎理の手を蝕んでいて動かすことが出来ず、定食のことをじっと見つめることしか出来なかった。


「何してんの?さっさと食べたら」


 そんなことをしていると、先に食べ始めていた水城澪が怪訝な目でこちらを見てくる。彼女は、とっくに先ほどまでの怒りを消しており、少し前まで怒りを見せていた人物だとは信じられなかった。しかし、彼女のカレーを食べる様子は、味わっているようには少しも見えず、ただのエネルギーを補給しているだけのように見えた。


 そして、斎理はその目つきに耐えることは出来ず、まだ熱い唐揚げを口に入れる。しかし、この緊張感がある話をしている途中では味なんてものは少しも感じることが出来ず、感じるのは熱さによる痛みだけだった。

 そうして、二人は会話などせずに黙々と食べ続け、その状態のまま食べ終えてしまった。


「はぁ、言うべきことは言ったし、後は好きにすれば。はい、お金。おつりは気にしないでいいから」


 先に食べ終わった水城澪は、三枚の千円札をテーブルの上に置いて、この店から出ようとしていた。その紙幣は、澪の言葉と同じように、重くて冷たい決別の証のように感じられる。


「……あ、ありがとう」


 斎理が感謝の言葉を伝えようとした時には、もう水城澪は声が聞こえない距離まで離れてしまっており、もう二度と振り返ることはないように思えた。おそらく、彼女とはもう二度と関わることは無く、これが一生の別れとなるだろう。


 この出来事は、斎理がまだ虚凛さんと関わるつもりなら、決して忘れることは出来ず、永遠と心の片隅に残るのだろう。それほど、断片的ではあったものの水城澪が語った虚凛さんの過去の話は、衝撃的で鮮明に思い浮かべることが出来るほど恨みがこもっていた。


 ――しかし、それでもまだ離れることは出来ない。


 そうして斎理は唐揚げ定食を食べ終わり、渡された三千円を手に取ってレジへ歩き出した。まるで、死刑台に向かう囚人のように。

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