第8話 校外学習5

「先生、クラスの全員が揃いました」

「ありがとうございます。これからは合同で環境調査をするで貴方たちは列の後方へ並んでおいてください」

「はい、わかりました」


 二人はトラブルに巻き込まれることなく巡回を終えることができ、集合場所にクラス全員が揃っていることを確認していた。斎理はその巡回の間で心の中にある不安を何とか隠すことが出来て、朝と同じように虚凛さんと接することだが出来るようになっていた。

 それでも――不安を隠しているだけで、問題は何も解決はしていない。


「よっ、そっちはどうだった?」

「チッ」


 二人が列の後ろの方に回った時、目の前にいる班から声と舌打ちが聞こえた。声を掛けて来たのは、親友の紡であり、舌打ちをしたのは、やっぱり橘さんだった。その二人、いや橘さんを見て、斎理は思わず歩みを緩めてしまった。橘さんの目が忠告したのにも関わらず、何も行動を変えなかったことに失望しているように見えてしまったからだ。


 そのせいで、顔を少し逸らしてしまう。あれだけ忠告してくれたのにも関わらず、僕は肝心なところで間違えてしまったのかもしれないのだ。もしかしたら、橘さんに聞けばこの不安がいったい何なのか分かるのだろうか?いや、あの目はもう関わるつもりなど無いとでも言いたげだった。これ以上関わろうとしても、一切話してくれないのだろう。


「ん?どうかしたのか?」

「……いや、何でもない。慣れない仕事に疲れているだけ」

「大丈夫なのか?確かに斎理は人と関わってこなかったから、副委員長の仕事は大変かもな。辛くなったら先生に言うんだぞ」

「さすがにそこまでならないと思うけど、その時は頼んだ」

「ああ、任しとけって」


 斎理は、紡の言葉に少しだけ安堵しながらも、胸の奥に広がるざらついた感情を押し込めた。紡にはこの不安を明かすわけにはいかない。紡のことだから、この不安のことを聞くと、僕を副委員長にさせたことをずっと後悔するだろうから。


 それだけは絶対にあってはならないんだ。紡はずっと僕のことを考えてくれているから、これ以上の重みを背負わせたくない。これからは僕自身の力だけで生きていかないといけないんだ。


「え?そうだったの?気付かなかった。しんどくなったらわたしのことも頼ってよ」


 紡との話を聞いていた虚凛さんも、僕のことを心配して話しかけてきた。その様子は本気で心配しているように見え、その言葉に嘘偽りなど少しも入っていないように思えた。


「僕は大丈夫だから心配しないで、そんなことより先生たちが進んでいるから急いで行こう」


 三人がそんな会話をしている内に、他の人たちは前に進み続けていて少し距離が出来ていた。そのことに気が付いた紡たちは慌てて走っていく。走っていく間は頭の中から今後の不安は消え去って、これからも今のような時間が続いてほしいと思っていたが、それでも頭の何処かではそんなことはあり得ないと思っていた。


「はい、これからは自然調査をします。今までの自由時間でもここにいる生物を観察していたかもしれませんが、今からするのは気温、天気、湿度だけではなく、水質や土壌もしっかりと検査していきます。まずは、水質検査キットを一人一人に配布しますのが、人によって何を検査するのかは異なっていますので責任を持って検査してください」


 そうして、先生は検査キットを一人一人配っていく。斎理が受け取ったのは、COD検査キットであり、それは虚凛さんや紡と同じものだった。斎理はそのことに気付いて安心し、相談しながら検査をしようとしたが、虚凛さんが何一つ躊躇いような様子で検査を始めていたので、目を白黒させる。


「え?白峰さんって躊躇いってものが無いの?」


 同じく紡も虚凛さんのことを見ていたようで、何一つ躊躇いの無いその姿に驚嘆して声を上げていた。その言葉を受けた虚凛さんは、何を言っているのか理解できないような様子で目を細めながら、ゆっくりと首をかしげていた。


「だって、これは誰でも扱えるくらい簡単なんだから躊躇うわけないよ」


 そう言って虚凛さんは手を池の水の中に差し込み、チューブの中に水を入れていく。そして、充分水が入ったことを確認すると、それを水の中から引き上げて、二人の方に向けて「これだけでいいんだよ」と言った。

 二人はそれに従い、それそれ虚凛さんと同じようにチューブの中に水を入れていく。そして、二人とも水をチューブの中に入れ終わり、色が変わるまで待っていると、紡が申し訳なさそうに口を開いた。


「そういえばさ、CODって何なの?」

「……授業で言ってたでしょ」

「寝てたから」

「……」


 授業中に寝るなって中学の時から何回も言っているはずなのに、いつになったらそれを改善するのだろうか。もう高校二年生になったのだから、テスト前に泣きついてきてもこれからは無視しようかな。


「COD、Chemical Oxygen Demandの定義は水中に存在する還元性物質が酸化される際に必要とする酸素量のことを言っていて、BODとは違い生物の働きを使わず、化学的な酸化剤を用いて酸化するから、より短時間で測定可能で、生物が分解しづらい物質も含められるのが利点なんだよ……まぁ、分かりやすく言うと、どのくらい汚れを分解するための酸素が必要かを数値で表したもので、数値が高いほど汚いってことだね」


 そうして、斎理が何も言わずに呆れていると、虚凛さんがCODについて説明し始めた。その説明の後半は授業よりも分かりやすく、虚凛さんがかなり頭が良いことを証明していた。前半の呪文のような説明は何を言っているのかさっぱりだったけれど。


「……なぁ、もしかして虚凛さんってとんでもなく頭がいいんじゃないか?」

「……うん、僕も今そう思ってる」

「えっ、そうなの?そんなことないと思うけど……」


 二人から頭が良いと言われた虚凛さんは、あまり実感していないような様子で頭を搔いていた。うん、これは普通の人がしていたら、謙遜だと思ったけど、この虚凛さんの様子は本当に自分の頭が良いと思っていないようだ。もしかしたら、他人が離れて言った理由は、自身の優秀さを理解していなかったせいなのかもしれない。


 そうしてしばらく会話をしていると、検査キットがピンク色に変わっていた。ピンク色は水の中に有機物があまり存在していないということであり、この慈善公演の池の水はきれいであるということだった。


「これでいいのかな?」

「うん、それであってるよ。検査も終わったことだしプリントにしっかり記録しようか」

「へー、ピンク色になると水が綺麗ってことなのか。でも何でピンク色になるんだ?」

「それは、酸化還元反応に伴うマンガンの酸化数変化と錯体形成の可視化によって生じていて、酸化剤としての過マンガン酸カリウムは酸性条件下で「「ストップ!」」……?」


 虚凛さんが何故説明を中断させられたのか理解できない様子で首を傾げているが、僕と紡の思いは呪文のような説明を止められたことによる安堵だけだった。酸化還元反応に伴うマンガンの酸化数変化と錯体形成の可視化?酸化剤としての過マンガン酸カリウム?なんだそれ? 


 そうして、斎理たちが虚凛さんの呪文のような説明を受けていると、少し離れたところに騒ぎが起きているようだった。そのことに気付いた斎理と虚凛さんは、顔を見合わせて三人は騒ぎが起きている場所に近づいて行く。そこには、いくつかの検査キットが池に浮かんでいて、そこまで手を伸ばしても回収できそうにも無かった。


「ねぇ、どうしたの?」


 そこでもめ合っているクラスメイト達に、虚凛さんが優しく声を掛けた。虚凛さんに話しかけられたことに気が付いたクラスメイト達は、いったん言い争っているのをやめて、事情を決して冷静だとは言えない状態で説明し始めた。


「どうしたって?それはコイツのせいで検査キットが全部池に落ちたんだよ」

「コイツのせいって!あれはおまえが一方的に押し付けたものだろ!だからおまえのキットまで俺の責任にするな!」


 斎理は、咄嗟に騒ぎを収めようと口を開こうとしたが、先に他のクラスメイトが声を荒げた。


「あ?いやならその時に断ったらいいだけだろ!自分の行動に責任を持てよ!」

「は?あの時は断れるような雰囲気じゃなかっただろ!そんなんだからおまえたちは!」

「ストップストップ、落ち着いて。そんなに興奮してたら何も話が進まないよ」


 これ以上興奮すると、どうしようもないところまで行ってしまうと判断した紡が間に入り、何とか数人のクラスメイトを落ち着かせようとしていた。しかし、騒いでいた二人の怒りはまだ行き場を見つけられず、言い返す寸前で飲み込んだ言葉だけが空気に濁っていた。そのクラスメイト達からは怒りや自分のことを正当化したいという気持ちが色となって表れており、それを見るだけで気分が悪くなってしまう。


「ねぇ、何本かなくなったとしても、他にも検査している人がいるんだから、そこまで言い争いをしなくていいんじゃないの?」


 虚凛さんが落ち着いた声で尋ねると、もめているクラスメイトの中でも比較的冷静な人が答えた。


「それが、流れていった検査キットが全部アンモニア性窒素で、僕たちが使っていたもので全部なんだよ」


 その一言が、場の雰囲気をさらに重くした。この水質調査に置いて、アンモニア性窒素の検査をしているのは今もめている人たちだけだということであり、それが全て回収できない位置に流れてしまったということは、もう検査することが出来ないということなのだ。


 だからこそ、この人たちは責任を押し付け合っているのかもしれない。僕から見れば、パックを押し付けた人も、池の方に流してしまった人も同罪なのだが、この人たちにとっては自分は悪くないと思っているのだろう。本当に――醜い色。


 でも、副委員長としてこの騒ぎを仲裁しないわけにはいかない。今まではこのようなことが起きても、いつも耐えているだけで何も改善しようとしていなかったが、虚凛さんの内心に踏み込む練習としてはちょうどいい。この程度の色に比べたら虚凛さんの無色なんて、ずっと優しくて、暖かくて――本当に怖い。


 そして、斎理は勇気をだして口を開こうとする。


「みんな、いったん落ち着いて。責任を押し付けあっても、この事態は解決しないから」


 僕が言おうとした言葉と一言一句同じ。だけど、その言葉は僕の口から出たモノでは無く、虚凛さんの口から出たモノだった。自分が言おうとしたことを、一言一句同じタイミングで言う、そのことに驚いて、斎理は虚凛さんの方を見た。

 虚凛さんは、何も特別な表情を浮かべていなかったが、いくつかの明確に異なる点があった。それは――癖だ。目線、呼吸のタイミング、手の動き、それぞれが淡河斎理の癖と等しく、虚凛さんがもう一人の淡河斎理だと錯覚してしまうほど。


 斎理は自分が二人いるような錯覚のせいで吐き気がしてしまう。これは同族嫌悪――いや、それ以上の何かなのだろう。

 自分自身が二人いる場合は、自分の価値や存在意義が揺らいでしまうことに加えて、見たくない自分を常に見せられてしまうからだ。そんな感覚に人間の矮小な心が耐えられるわけがない。それに、虚凛さんの場合はもっとひどい。模倣のはずなのに本家を超えてしまっていて、淡河斎理という席を取られてしまったかのように思ってしまう。


 しかし、虚凛さんは茫然としている斎理を気にしている様子は無く、まだ模倣を続けていく。斎理には、その模倣が終わることが無く永遠に続いてしまうように思えてしまった。


「よし、落ち着いたね。それなら、本当にアンモニア性窒素用のパックがすべて流れてしまったのか確認しよう」


 そう言って、虚凛さんは今後の動きを支持して騒ぎを収束させようとしていた。その姿は、一見すると委員長らしく恐れなど無いように見えているが、後ろにいる斎理からは手が少し震えているように見えた。それは……斎理がこの騒ぎを起こした時にもしてしまう行動なのだろう。そのような些細な行動まで投影されてしまっている。


「――ッ」


 斎理はただその姿を見ていることしか出来なかった。何も言わず、瞬きすらせずに。


『そこにいる化け物と一緒にいたくないから』


 今なら橘さんが言っていた言葉の意味が理解できる。虚凛さんとしばらく一緒にいると、自身の模倣をされてしまい、この苦しみを味わうことになってしまうことを理解していたから、距離を置くことで模倣されることを避けたのだろう。


『そっか、君はそんな人なんだね』


 虚凛さんがそう言った理由――それは、あの時に虚凛さんがした質問のおかげで、模倣するために必要なことを完全に理解することが出来たのだろう。あの時に僕が感じた不安、それは虚凛さんに自身の投影をされてしまうことだったのだろう。あの時の不安は決して間違っていなかった――出来るものなら、間違っていてほしかったけど。


 虚凛さんは茫然としている斎理のことに気付いている様子は無く。まだ流れているパックと同じものが残っていないか、クラスメイトに聞いて回っていた。


「ねぇ、理解できた?」


 そんな虚凛さんの様子を見ていた斎理の後ろから聞いたことのある声が投げかけられた。その声には呆れのようなものが含まれており、その人物は斎理に対して失望しているのだろう。


「……橘さん」

「全く、忠告してあげたでしょ。ああなってしまったらもう手遅れで、君が消えるか、アレが消えるしか幸せに生きる方法は無いよ。いや、それが幸せだと思うのかは個人差があるけどさ」


 斎理はその言葉に対して、衝動的に言い返しそうになってしまったが、そうすることは出来なかった。何故なら、橘さんの言葉には間違っていることが一つも無いと本能的に理解してしまっていて、言い返す言葉が何も思いつかなかったからだ。


 そんな斎理の様子を見て、橘さんは心底失望しているように見えた。橘さんにとっては、僕の理性と感情の解離がとてもくだらないもので、醜く見えてしまっているのだろう。その証拠に、彼女の色は黒い青に染まっていっていたのだ。


「はぁ、君はそこまでわかっているのにアレとこれからも関わっていくつもりなの?互いに碌な結末にならないと思うけど。まぁ、勝手にすれば、私に害を与えることが無いんだし」

「………」


 そうだ、僕は虚凛さんに投影されていることがわかっていても、僕のことを何度も救ってくれたあの無色から、離れようとは思えないのだ。それほど、虚凛さんの存在は僕にとって大きく、大切なものになってしまっていた。


 ――ああ、僕は本当にいかれてしまっていたんだ。


 傷つくということがわかっているのに離れられない。そんな気持ちのせいで、これからもずっと苦しんでいくのだろう。ああ、これから来る破滅は、いったいどんなものなのだろうか。

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