第6話 校外学習3

 その後は美術館の中で問題が起きることは集合時間に数分遅れた班がいただけで、その他の問題は一切起きなかった。そのため、斎理と虚凛の出番もほとんど無く、二人は一緒に絵を観察することが出来ていた。


 ――我が子を食らうサトゥルヌス、か。一番反応を示していたのは、その絵だったけど、何か思うところがあったのかな。


 あれからたくさんの絵を見てきた。だけど、虚凛が一番反応した絵は我が子を食らうサトゥルヌスであり、その時の反応は他の絵を見た時に比べても、随分と異なっていたのだ。しかも、その絵が虚凛のことを理解するのに重要なものであると判断したのは、もう一つ理由がある。


 ――絵の好みは僕と似ていたのに、あの絵は僕の好みとは異なるから

 そう、虚凛さんの好みと僕の好みはかなり似ていたのだ。僕がいいなと思った作品は、だいたい虚凛さんの好みであり、その逆も成り立っていた。しかし、我が子を食らうサトゥルヌスだけは例外であり、だからこそ虚凛さんの本質が出ている作品だと予想している。


 そう思い、バスで隣に座っている虚凛さんの方を見てみる。その色はいつも通りの無色であり、そこに怒りや悲しみ、苦しみと言った物は感じられない。あの仮説が正しいのならば、そういった感情があるはずなのに、虚凛の心にはそのようなものが一切ないため、この仮説――親から虐待されていた可能性は少ないだろう。


「急にこっちを見てどうしたの?」

「いや、その……虚凛さんは今までどんな感じで暮らしてきたのかなって」

「へー、わたしの過去について気になったんだ。別に言ってもいいけど、言えることなんてほとんどないよ。友達と言えるくらい仲がいい人はあまりいなかったから」

「……その理由を聞いていい?」


 虚凛さんは斎理の問いに、ほんの少しだけ沈黙した。その間、彼女の無色は変化しない。だけど、視線の向き方と呼吸のタイミングに、どのような言葉で伝えようかと悩んでいるような気配がした。


「うーん、隠している訳ではないから言ってもいいんだけどね、わたしも正確に理解しているわけではないんだ。それでもいい?」

「……もちろん。虚凛さんのペースで話してくれれば、それでいいよ」


 その言葉を聞いて虚凛は頷くでもなく、視線を少し遠くに向ける。その様子は、まるで遠い記憶から何かを探しているように見えた。


「それはね、仲良くなった人が、気づくと学校からいなくなってることが多かったから」


 語尾には軽さがあるのに、その意味の重さが斎理の胸をひやりと撫でた。学校からいなくなる、つまり転向や不登校になると言ったことが、虚凛さんの周りで起こっている。一人二人ならあり得るかもしれないが、その良いからなら、もっといるのだろう。ソレは明らかな異常であり、普通に考えると絶対に起きないようなことだった。


「それは……何で……?」

「それが分からないの、いなくなった人たちともう一度会うことは無かったし」


 虚凛さんの言葉は、静かすぎて逆に重さを持っていた。誰かがいなくなる。その理由を問うことすら許されないような距離感が、その言葉の奥に潜んでいるようだった。斎理は、目の前の無色を見つめながら、言葉にならない違和感を抱え続ける。


「誰かに訊いたことは……あった?」

「あるよ。でも、『たまたまだよ』とか『考えすぎだって』って言われて終わるだけだった。そして、そう言った本人でさえいなくなってしまったんだ」


 斎理は、その言葉の余韻に喉が詰まる感覚を覚えた。たまたまだと口にした人が、その後にいなくなる――それはもう偶然ではなく、虚凛さんを原因とした連鎖のように思えた。


『そこにいる化け物と一緒にいたくないから』


 脳裏に橘さんの言葉が蘇った。もしかしたら、橘さんはあの一瞬で虚凛さんの周りから人が去って理由に気付いていたのではないか。虚凛さん自身は、自分が原因だとは言っていない。だけど、繰り返される結果と何かに気付いた橘さんの言葉から考えると、そうなってしまう原因は虚凛さんにあるのではないかと思ってしまう。いや、そう思わざる得ない。


 だけど、僕の感情がそう思いたくないと訴えてくる。委員長を決める時に黒の視界から救ってくれた存在、ずっと夢見てきた感情の色が見えない存在、そんな虚凛さんが原因で周りから人がいなくなっていくなんて、信じたくない。

 理性と感情がせめぎ合い、斎理の胸を痛めつける。“原因かもしれない”そう考えることには、確かな論理がある。繰り返される偶然。橘さんの直感。虚凛さん自身の語りの淡白さ。でも“原因であってほしくない”気持ちは、それ以上に痛切だった。僕にとっての救いの存在、そんな人物が知らず知らずの内に他人を傷つけていたなんて認めたくない。


 ――そもそも、今まで接してきた中で、そのような様子を一回も見たことが無いじゃないか。それならば、この考えはきっと勘違いなんだ。そうに違いない。


 斎理は理性のことを無視して、感情に従っていく。それはただの現実逃避だと頭のどこかで告げていたが、それすらも無視している――不都合なことは大抵真実であるというのに。


「どうしたの?」

「……ううん、何でもない」


 斎理は、バスの振動に合わせて窓の外に視線を預ける。その視界には、希望の黄緑、安心の橙――そんな心穏やかな色が、風のように揺れていた。まるで、そこに飛び込めば、今抱えている苦しみを手放せるような錯覚すら起こる。だけど、それは逃げるための選択だ。その安寧の中に身を委ねた瞬間、虚凛さんの隣を離れることになる。あの日、虚凛さんが黒く濁った空気を消してくれたあの瞬間。あれは僕にとって救いの瞬間であり、あのことだけでこれから虚凛さんと向き合っていく理由は十分だ。だから、僕はあの安寧に逃げない、逃げれない。


 バスがゆるやかに坂を下りはじめる。降車のアナウンスとともに、バスの空気が微かにざわめいた。クラスメイトたちの声が橙に染まり、黄緑が芝のうえに広がっていく。だけど、隣に座る虚凛さんの周囲だけが、周りから浮いているように無色だった。


「着いたみたいだね」


 バスを降りると、空気がぐっと広がる。昼光に照らされた草木が黄緑に染まり、風に揺れる木々の葉が淡い緑のグラデーションを描いていた。斎理は、靴の底から地面の温度を感じ取るように、一歩一歩を慎重に踏みしめ、その温かさを全身で浴びていた。


「はい、ここからは2時間くらい自由行動です。班ごとに行動して昼食を食べたり、自然を観察していてください。一時半からは、環境調査で生態系や水質、土壌などを簡易に調べて、環境との関わり方を考える学習をするので遅れないように戻ってきてくださいね」


 鷹田先生がバスから降りた生徒たちに今後の動きを説明する。副委員長の仕事もあるため、他の生徒たちみたいに完全な自由時間というわけではないが、それでも美術館の時に比べたらかなり自由な時間ではあるから、斎理はその余白にほんの少し安堵を感じていた。


「ねぇ、これからどうするの?」


 虚凛さんが斎理の隣で、穏やかな声を落とした。その問いに、斎理は一瞬だけ思考を揺らす。これからどうする?いつもなら紡のところに逃げているけど、虚凛さんのことを理解するためには、もっと内心に踏み込まなければならない。だから、斎理は今までしてこなかったこと――他人と積極的にかかわることをしようとした。


「自然公園でも業務があるし、一緒に弁当を食べない?」


 その言葉に、虚凛さんは顔をゆっくりとこちらへ向けた。無色の視線が斎理を捉える。だれど、冷たいわけではない。予想もしていなかった答えに驚いているような顔に見える。


「わたしでいいならいいけど、三枝くんのところに行かなくていいの?」

「……まぁ、親友離れっていうか。紡以外の人とも話せるようにならないといけないから」


 紡との絆は大切だ。でもそれ以上に、今虚凛さんと一緒にいようとしたのは、自分の意思によるものであり、今まで紡に頼ってばかりだった斎理が、自立しようとしたからだった。

 虚凛さんはその言葉を聞いて一瞬驚いた顔をした後、目元を柔らかくしてふっと笑った。その笑みは、感情の色を持たないのに――斎理の胸を、確かな温度で染めていく。


 無色の瞳が細められ、口元は上がる、静かな微笑み。それは斎理の脳裏に焼き付き、きっと忘れることは出来ないだろう。斎理の胸の奥に、ゆっくりとひとつの感覚が沈んでいく。それが何なのかはわからない。だけど、それは斎理の子ことを暖かく照らしていた。


「ふふっ、そっか。それじゃあ一緒に弁当を食べよう」


 そう言って、虚凛さんはリュックサックの中からレジャーシートを取り出し、暖かい緑色の芝生に丁寧に広げた。彼女の指が風に撫でられ、芝生に触れるその様子は、彼女の色と同じように静かで、優しくて――美しかった。

 斎理は少しの間、その様子に目を奪われていたが、レジャーシートの端を軽く風がめくっていることに気付き、それに気づいた虚凛さんが手を伸ばす前に、斎理は慌てて自分の手でそれを押さえていた。


「あっ、手伝ってくれてありがと」

「ううん、用意してもらっているのは僕なんだから、感謝するのは僕の方だよ」


 そうして、二人はレジャーシートを終えて、同じレジャーシートの上で弁当を食べ始めた。だけど、その距離は近いとは言い切れない距離であり、今の二人の関係性を示しているようだった。

 だから、斎理はもう少し近づいてみようと思っていた。たとえ、それがとてつもない苦痛であろうと。

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