第5話 校外学習2
そうして二人が歩いていると、一人の女子生徒が配置された休憩所に座り、本を読んでいる姿を見つけた。班行動中のはずなのに、一人だけで読書に没頭している様子は明らかな異常だった。虚凛さんと斎理は顔を見合わせ、静かに近づいていく。
「ねぇ、班の人と逸れちゃったの?」
虚凛さんが優しく問いかける。けれど、生徒は本から目を離すことなく、ページをめくり続ける。まるで、外の世界との接触を拒絶しているかのような静けさだった。
「おーい……」
斎理も呼びかけるが、反応はない。二人は互いに困惑し、視線を交わす。完全に本の中へ入り込んでいて、周囲の気配すら意図的に遮断しているようだった。
そして、半ば諦めながらも、斎理がそっと本の端に手を伸ばそうとしたその瞬間――彼女は、口を開いた。
「何の用?」
声は淡々としていて、表情はほとんど動かない。二人の方を一瞥すらせず、本の中に意識を留めたまま。その周囲には、拒絶や苛立ちの色が細く揺れていて、まるで「今すぐどこかへ行ってほしい」とでも言いたげだった。
それでも、副委員長としての仕事があるため、放っておくわけにはいかない。斎理は深呼吸をして、要件を話していった。
「……班から離れて一人でいるのは、決まりとしては良くないんだ。今は班行動の時間だから、一緒に回らないといけないんだけど……どうして一人で本を読んでいるの?」
「別にいいでしょ、絵を見たところで何の得にもなんないんだし」
「感想文もあるんだよ」
「一枚は見たから、それだけで十分書ける。これで問題ないでしょ」
斎理はその返答を聞いて、少しだけ言葉を失った。女子生徒の言葉には、班行動を守ろうとする意志も、協調しようとする気配も無く、何を言っても響かない。どんな言葉を使っても届かない――そんな感触に、斎理の胸が少しずつ冷えていく。どうにもできないと悟った斎理は、助けを求めて虚凛さんの方を見た。しかし、虚凛さんもまた困ったように眉を寄せていて、虚凛さんでも、この女子生徒を相手するのは難しいようだった。
「……せっかくの校外学習だし、クラスメイトと一緒に見て回ったほうが、いいと思うよ」
その言葉は、彼の役割をなぞっただけのものだった。心の底からそう思っていたわけじゃない。むしろ、他人と関わりたくないという点では、彼も彼女と同じだった。それを知っているからこそ、こんな言葉を口にする資格なんてないと、斎理自身が痛感している。
「へぇ、君が言うんだ。同類なのに」
斎理の言葉を聞いた途端、一瞬冷えた目で女子生徒が見てきた。その瞳の奥にあったのは、深い灰色と、薄く沈んだ緑、それは他者への失望と諦めの色だ。いったい、どんなことがあったらこのような色になってしまうのだろうか。全く、分からない。
「ご、ごめん」
「謝る暇があったら、さっさとどこかに行って。私はここから動く気ないから」
その言葉が斎理の胸に落ちた瞬間、重さも刺す痛みもなく、ただ静かに沈んでいった。自分の言葉が何の助けにもならなかったという事実だけが、心の奥でじりじりと音を立てている。
――でも、副委員長のような立場に生まれて初めてなったんだ。ここで変わらないと、紡に顔を向けることが出来ない。
そう思って何とか女子生徒を説得しようとした時、横にいた虚凛さんが口を開いた。
「確か、橘叶望さんだったよね。わたしたちは委員長と副委員長だから班から逸れている人を放っておけないの。だから、君がどんなに断っても、ずっとここで説得するのを続けるよ」
その言葉に、橘さんの本を読む手が止まり、ゆっくりと顔を上げた。彼女の瞳は、やはり深い灰と薄緑のままだったが、そこに、硬質な拒絶とは別のものが揺れた。
――嫌悪――
その色を表すにはこの言葉がちょうどいい。その色が宿ったのは一瞬だけであったが、その色の残像が斎理の脳を揺らしていく。それほどまでに、彼女の嫌悪は濃いものだった。
「はぁ、良いよ。班に戻ってあげる。そこにいる化け物と一緒にいたくないから」
その言葉は、鋭利な刃物のようだった。静かに、確実に、斎理の内側を切り裂いていく。斎理にとって、虚凛さんは救いの象徴のような人であり、化け物とは対極の存在でもある。なのに、何故橘さんはそんな虚凛さんのことを化け物と評したのだろうか。
斎理は、虚凛さんの表情をそっと確認する。いつも通り、動かない。まるで何も聞こえていないかのように、彼女の無色は依然として変化が無かった。それは、虚凛さんは、化け物と呼ばれたことに対して、悲しみも、怒りも、戸惑いも無く、彼女はそれを「傷」としてすら受け取っていない。
「そう、それならよかった。橘さんは何班だっけ?」
「五班」
「よし、それなら一緒に行こっか」
「……」
言葉は交わされた。だけど、その間にあった罵りも痛みも何一つ語られず、二人はまるで「化け物」と罵ったことも、罵られたこともなかったかのように、静かに歩き出す。橘叶望の吐き捨てた言葉。それに虚凛さんが何一つ反応せず、傷ついた様子も見せず、ただ“何もなかったように”歩き出したこと、斎理にはその全てが異常に思え、つい足を止めてしまう。
心の底から湧き出ている嫌悪の黒、何も感じることが出来ない空虚の無色、その二つが混じり合う事無く歩いていく。他人の目ではそんなものが見えなくて、普通の女子生徒が二人並んで歩いているだけに見えるのだろう。しかし、感情の色が見える斎理にとっては、それは異形なものとしか見えない。
――あれほどの黒ならば、辺り一面を染めていくはずなのに。
斎理には、虚凛さんの無色が一体何なのか、何一つ分からなかった。
*
「あっ!やっと見つけた!」
しばらくして、紡たち――五班の人たちと合流することが出来た。あれからは、虚凛さんと橘さんが会話することは無く、間に僕を挟んで意思疎通する羽目になってしまったのだ。やっと、あの神経が削られるような時間が終わり、僕の心に平穏が訪れてくれた。
「斎理もありがとな。ずっと探してたんだけど、見つけられなかったんだ」
「そうなんだ、それなら早く引き取って」
こんな地獄は早く終わってほしい。橘さんはずっと嫌悪を抱いているし、それに虚凛さんが全く反応しないことが、その嫌悪をより促進してしまっている。こんなに相性が悪い二人に挟まれるのは、もし感情の色が見えなかったとしても、耐えられるような気がしない。
「……なぁ、どうしたんだ?死んだような目をしているけど」
「まぁ、二人とも……相性がかなり悪くてさ。僕がクッションになってたって感じ」
「大変だったなぁ。お疲れ、副委員長」
「もう副委員長になったことを後悔してるよ」
「ははは……」
紡は斎理の状態を見て苦笑いをしている。はぁ、同情なんていらないから、もう二度と橘さんと逸れないでくれ。
「まぁまぁ、これも将来に必要になるかもしれないんだし……」
「うるさい」
そんな会話をしていると、虚凛さんが近づいてきて、紡に向かって口を開いた。
「三枝くん、橘さんのことを探してくれてありがとう。おかげで、より早く合流することだ出来たよ」
「いやいや、それを言うなら白峰さんや斎理に言うべきでしょ。そもそも、俺たちが逸れたことが原因なんだし」
――まぁ、逸れたこと自体は橘さんが班行動に従う気が全くなかったのが原因だとは思うけどね。
とは言え、さすがにそんなことを口に出したりはしない。そんなことを口に出してしまうと、周りの人も同調して視界が黒く染まっていくことが体に染みついているからだ。ここに鮮やかな色の紡と、無色である虚凛さんしかいなくても言えないほど、そんな光景を見てきている。
そして、虚凛さんも同じような考えだったのか、橘さんの悪口などは一切言わなかった。その理由は僕と同じ理由かもしれないし、他人の悪口を言いたくなかったからかもしれない。ただ、理由はわからなくても、虚凛さんが他人の悪口を言わなかったことにほっとしていた。もしかしたら、僕にとっての虚凛さんは安心する場所なのかもしれない。だから、悪口のような黒い物を言ってほしくなかった――願望を押し付けてしまっていることは自覚しているけど、その思いは止められなかった。
「まぁ、集団行動の中で誰かと逸れちゃうことなんて、よくあることだし。次にそうならないよう気をつけられれば、それで充分だよ」
「……そっか。ありがとう。白峰さんって、斎理みたいに優しいんだね」
「そう?それならよかったよ」
そうして二人が話している時、斎理は何者かに腕を引っ張られて、そこから引き離された。誰が腕を引っ張ているのかとわ立てて振り返ると、そこにいたのは橘叶望だった。斎理は反射的に体を引く。しかし、橘は強く握ったまま何も言わなかった。何を考えているのかわじからない目を斎理の方を向けながら、確かな目的を持って斎理の腕を引いている。
考えを読み取ろうとして、感情の色を探ろうとしたが、そこにあるのは善意の緑だけだった。先ほどまで虚凛さんに向けていた嫌悪の黒も無く、その色の変化が、逆に斎理をひやりとさせた。まるで、さっきの橘叶望と今の橘叶望は全くの別人のように思えてしまい、斎理の心にあるのは戸惑いだけになってしまう。
「ねぇ、君は白峰虚凛のことが好きなの?」
「――ッ!」
予想外の質問に頭が真っ白になってしまい、言葉を発することが出来なくなってしまう。どうして、橘さんはこのような問いをしてきたのだろうか?そして、僕の感情がどのようなものなのかは、僕でさえ分かっていないから、その問の答えを言うことは到底出来そうもない。
「ふーん、まだ自覚してないんだ。それならまだ間にあうよ、さっさとあの女と関わるのをやめて、お互いにとってその方がマシな結末になる」
斎理は、腕を掴む叶望の手の力を感じながら、ただ黙っていた。あまりにも直線的な言葉。それを投げかける叶望に黒色のような負の感情は一切なく、善意だけが怖いほど澄んでいる――それは「あの女」と言った時でさえも。
「それは……どういう意味?」
「言葉通りの意味だよ。君とあの女の相性は悪すぎる、このままいけば君たちに待っているのは破滅しかない」
斎理は言葉を失った。破滅――その言葉はあまりにも重く、そして滑らかに橘叶望の口から放たれた。その言葉が、どういう意図で放たれたものかは分からない。だけど、橘叶望の目が冗談ではないことを示している。
「破滅って……それはどういうことになるの?」
「そこまで言う義理は無いよ。それくらい自分で考えたら」
そう言って、橘さんは離れ班の人たちのところに戻っていく。斎理は破滅という言葉に戸惑い、茫然とその背を見ることしか出来なかった。そして、橘さんがふと何を思い出したかのように振り返る。
「忘れてたけど、破滅しかないと分かっていながら、それでもあの女と接していくのだとしたら、それはそれで祝福するよ」
そう言って、橘さんは今度こそ離れていく。斎理は黙って見送ることしか出来ない。相性が悪く、この先は破滅しかない――この言葉は斎理の心の奥深くまで沈み込んで、決して無視をすることが出来ない重荷になってしまう。
しかし、それは決して悪意のせいで持たされたものでは無い。むしろ、善意によって持たされたものなのだ。そのせいで、破滅という言葉を忘れることが出来ず、決して無視できない存在になってしまった。
斎理は破滅という言葉を噛みしめながら、虚凛さんの方を見てみる。虚凛さんは紡と何か話しているようであり、無色であるがゆえにどんな感情を抱いているのかは分からないが、それでも破滅という言葉とはほど遠い――優しい人物であるように思える。それに、人を見る目がある紡が僕と接する時と同じような態度で話していることからも、虚凛が優しい人物であるということを示している。
しかし、斎理の心の中には不安のようなものが僅かに揺れていた。破滅という言葉だけが原因なのではない、改めて虚凛さんのことを見ていると、何か漠然とした悪い予感が心の中によぎってしまったのだ。何かを見落としているような、何かが隠されているような。
――それなら、これからそれが何なのか理解すればいい。
斎理はゆっくりと虚凛さんに歩み寄る。質問を投げかけるためではなく、自分の目で虚凛さんが何者なのか確認するために。虚凛さんが、僕にとっての救いになるのか、それとも橘さんが言っているように破滅してしまうのか。
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