第4話 校外学習1

 五月の朝は冷たくも暖かくもない。だけど、その中途半端な気温がまるで、心の中の“まだ定まらない感情”を代弁しているかのようだった。


「一、二、三、四、……、四十――うん、全員そろってる。虚凛さん、そっちはどう?」

「うん、わたしも四十人になったから間違っていないよ。それじゃあ、わたしは先生に報告してくるね」

「うん、ありがとう」


 二人でクラスメイト全員いることを確認して、虚凛さんが先生に報告しに行く。

 高校二年生になって初めての学校行事、周囲はざわついていて、笑い声が微かに橙に滲んでいる。だけど、その色のそばを虚凛さんが通るだけで、まるで吸い込まれたかのように透明になっていき、通り過ぎた後には何も残らない。


 その光景をじっと見ていると、急に誰かが背中を叩いてきた。まぁ、そんなことをする人物は一人しかいないんだけどさ。


「よっ、斎理、やるじゃねぇか。いつのまに名前で呼ぶ仲になったんだ」

「うるさい、別にいつでもいいでしょ」


 紡は肩で笑いながら、斎理の横に並んだ。その顔には、からかいというよりは、“安堵に近い好奇心”が滲んでいる。何でそんな顔をしているのか、小学生からの付き合いだから分かっているが、それが何かムカつく。


「俺さ、ちょっと感動してるんだよね。だって、斎理は俺以外の相手と関わろうとしなかったから、もう誰とも関わらないのかなって思ってた」

「……あっそ」


 ――ずっと心配してくれていることなんて、随分と前から知ってる。だから、あの時、副委員長になろうと思えたんだ。


「それじゃあ、仕事がんばれよ」

「そっちこそ、僕たちの仕事を増やさないでよ」

「注意しとくー!」


 あいつのことだから迷子になったりしそうなんだよな。まぁ、誰とも話すことが出来るから、迷子になっても自力で何とかするんだよね……。

 そんなことを考えていると、誰かが後ろから足音が近づいてきた。とは言え、僕に近づいてくるのは紡を覗くとたった一人しか存在していない。


「たしか三枝さんだっけ?仲いいの?」

「まぁ、小学生の時からの親友だからね。僕と関わるのは大変なはずなのに、ずっと一緒にいてくれる。感謝してもしきれない、たった一人の親友だよ」


 後ろから来た人、虚凛さんの質問に答える。これは本人の前では恥ずかしいし、認めたくないから言えないけど、僕にとっての本心だ。

 その言葉を聞いて、虚凛さんは優しく――うらやむように目を細めた。そういえば虚凛さんは友達はいるけれど、それでも一定の距離が開いているように見える。まだクラスが変わって一か月しか経っていないから仕方が無いことかもしれないけれど、親友と言えるほど仲がいい人はいないのかもしれない。


「虚凛さんは親友のような人はいないの?」

「うん、そうだね。わたしの周りって何故か人がいなくなっていくから、そんなに仲が良くなる人なんていないんだ。あっ、人数が集まったから出発するって先生が言ってたんだった。この話の続きはまたいつか」


 そう言って虚凛さんはクラスメイトをバスへ導いていく。僕も副委員長のだからそれを黙って見ているわけにもいかず、それを手伝っていく。だけど、心の中には虚凛さんの言葉がくすぶっていた。


 ――わたしの周りって何故か人がいなくなっていくから――


 それは、いったいどういうことなのだろうか。まだ虚凛さんと関わってから一か月しかたっていないから。まだお互いに知らないことも多い、それでも虚凛さんは優しく誠実な人だということは理解できている。なのに何故周りから人がいなくなっていくのだろうか、その答えがこの校外学習の間に理解出来たら、それだけで今日という日は意味を持つ。


 *


 美術館に到着したのは午前九時半、五月の陽射しはまだ優しく、風に混ざる木々の匂いが、日常とは異なる空気をそっと肌に乗せていた。

 斎理はゆっくりと建物を見る。希望、喜び、苦痛、それぞれの感情の残滓がその建物にこびり付いていて、その場所そのものが“感情の展示場”のように思えた。壁面に塗られている濁った青、入り口で輝いている希望の黄色、そして内部にはまだ見ぬ色で満ち溢れているのだろう。そして、それは決して美しくない。苦痛や怒り、嫉妬のような負の感情が、どんなに美しい色でも醜く染み込んでいっているに違いない。本当に憂鬱だ。


「次の集合もこの広場で。時間厳守でお願いしますね」


 そんな気分になっていると、先生の声が響く。その声で生徒たちは少しだけ落ち着いて、点呼が始まっていく。


「斎理君、わたしは四十人だったけど、そっちもそれであってる?」

「うん、僕も数えたら四十人になったからあってるよ」


 クラスメイトが全員そろっていることを確認し、先生に報告しに行く。先生は全員いることを確認すると、「十二時半まで自由に回ってください。だけど、宿題として感想文があるのでしっかり見ないと駄目ですよ」と笑みを交えながら全体に向けて声を張った。


 その言葉に、班ごとのまとまりが少しだけ緩んで、各グループがそれぞれの方向に散っていく。館内に入っていく班の背中から、橙と黄緑がふわりと立ちのぼる。期待と自由と、そしてほんのわずかな高揚。もし感情の色が見えなければ、僕もあのようになれたのかな? 


「じゃあ、見回り始めよっか」


 隣で虚凛さんがそう言う。声は変わらず静かで、どこにも波打つ気配はない。


「うん。でも、僕たちにも感想文の宿題は出るから、作品をしっかり見ないといけないよ」

「ふふっ、そうだね」


 そんな会話をして、二人は美術館の中を回っていく。しかし、斎理にとってそれは苦痛に近いことでもあった。何故なら、斎理の目には作品にも感情の色が映っているからだ。通常の物体ならばこんなことは起こらない。だけど、芸術品のような作った人の感情が、深く、重く刻み込まれているような物には、それ相応の感情が染みついているからだ。この建物の外見もそうであったが、中に比べるとまだマシだ。その色なんて、芸術品のような禍々しい色に比べるとかわいいものだ。

 でも、今回は虚凛さんがいる。芸術品から漏れ出している禍々しい色も、虚凛さんの透明さには勝つことが出来ず、触れると同時に消えていく。それが、本当に救いになってくれている。


「どうしたの?体調悪いの?」

「……ううん、大丈夫だよ。ちょっと、この空気と相性悪いだけ」

「ふーん、言いたくなさそうだからこれ以上聞かないけれど、しんどくなったらちゃんと言うんだよ」

「……ありがとう」


 虚凛さんはそれ以上何も言わず、静かに歩き出した。その何も聞かない、その優しさが斎理の心に染み込んいく。

 そのような思いを噛みしめながら歩いていると、虚凛さんがある絵の前に立ち止まり、その絵をじっと見つめていた。


 <<我が子を食らうサトゥルヌス>>


 それは、フランシスコ・デ・ゴヤの晩年の作品で、連作「黒い絵」の一部を成す作品。ギリシア神話に登場するサトゥルヌスの伝説を基にしていて、神話では、サトゥルヌスは自らの子どもが将来自分を倒すという予言を恐れ、生まれた子どもを次々と飲み込んだとされている。

 そんな絵を見て、虚凛さんはどうして立ち止まったのか、何を思っているのか。無色のせいで、それが何なのかわからない。


「その絵が気になったの?」


 そんな虚凛の様子が気になり、何故その絵を見ているのか尋ねてしまう。


「ねぇ、斎理くんはサトゥルヌスが何で子供を殺したのかわかる?」

「それは……自分を倒すという予言を恐れたからじゃないの?」


 虚凛さんは、その答えに小さく頷いた。けれど、斎理にはその頷きが“納得”ではなく、“確認作業”のように感じられた。


「だよね、怖いから、恐ろしいから、わが子を殺す。それは分かるんだけどね……あの人は何が怖かったんだろうか。それだけは本当にわからない」

「あの人……?」


 それは、この絵を誰かに投影しているように感じられた。子を殺したサトゥルヌス、それと似たようなことをした人を知っているのかもしれない。虚凛さんの過去に何があったのだろうか。

 虚凛さんは斎理の問いに答えなかった。虚凛さんにとって、この呟きは思わず漏れ出してしまった物であり、誰にも聞かれたくないものだったのかもしれない。


 斎理は、虚凛さんの横顔にそっと目を向ける。相変わらず色は見えなくて、どんな感情を抱いているのかわからないし、それに加えて今の虚凛さんの目には感情の熱を失ってしまい、再び機械的な目に戻ってしまっていた。だけど斎理には何故か、その無機質な目の方が本来の目のように思えてしまった。


「あっ、ごめんね、急に黙っちゃって。わたしのことは気にしないで見回りに行こう」

「う、うん」


 虚凛は戸惑っている斎理に気が付くと、その機械的な目に感情を宿し、また笑って歩き出していく。だけど、斎理の脳裏にはさっきの機械的な目が焼き付いて、いつまでも離れてくれなかった。

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