第3話 準備

「なぁ、俺の努力はいったい何だったんだ?」


 あれから一ヶ月が経ち、紡と一緒に弁当を食べていると、急にそんなことを尋ねてきた。俺の努力?それって何のことなんだろうか。


「それってどう言う意味?」

「白峰さんのことだよ」

「うっ……」


 その言葉には何も言い返せない。白峰さんと出会ってからのこの一ヶ月間、副委員長として最低限の関わりはあるものの、それ以外の、例えば世間話をしたりすることは一切無かったのだ。そんな状態を見て、紡が呆れるのも無理はない。

 まぁ、副委員長になっていなかった場合は関わりなんてものが一切無くなってしまうだろうから、決して無駄では無かったのだろう。


「でも、仕方がでしょ。仕事上でしか関わりがないんだから」

「そこから世間話とかすればいいだけだろ。はぁ、今まで俺としか関わってこなかった弊害がこんなところに出るなんて……」

「うぅ……」


 ――本当に申し訳ございません、でも無理なんです。僕から白峰さんに関わっていくなんて到底出来ません。


 ちなみに言うと、白峰さんは友達を作っているものの、決して人数が多いわけでは無く、一人でいる時間もある程度存在しているため、話しかけることの難易度自体は低い方である。それでも斎理が話しかけることが出来ないのは、ただ単に話しかける勇気が無いだけだ。


「まぁ、来週の校外学習で関わることがあるだろうから、その時に少しくらい業務以外の話でもしとけ」

「出来れば……するよ」

「え?」

「頑張って話します。だからそんな目で見ないでください」


 出来ればするという一欠片もやる気がない返事では許してくれず、言質を取られてしまう。こうなってしまうと、紡のことだから力ずくに引っ張ってでも関わらせようとするだろう。そうならないように頑張って話さないと。


「そういえば、まだ白峰さんの感情は無色に見えるのか?」

「そうだよ。一回も色が見えたことがないんだ」

「へー、外から見ると感情があるように見えるのに」


 そんなことを話しているとチャイムが鳴り、ガラガラと音を立てて先生が入ってくる。どうやら授業が始まる時間になったようだ。


「それじゃ、授業が終わった後な」

「うん、寝ないようにね」

「努力する」


 この返事は絶対にこの授業で寝ると思う。


 *


「――と言うことで、来週の美術館と自然公園への校外学習の準備をしていて下さい。委員長と副委員長はその時の業務についての説明するので放課後に私のところまで来て下さい。これで終礼を終わります」

「起立、気をつけ、礼」


 教室が賑わい始める。学校が終わり、これから部活に行くもの、友達と遊びに行くもの、静かに家に帰るもの、たくさんの声と色が教室を染めていく。


「じぁな、斎理。また明日!」

「うん、また明日。陸上も頑張って」

「おう!」


 紡も部活に行き、教室に残っているのは僕と白峰さんだけになる。今まで業務上でしか話したことが無かったため、少し気まずい空気になっていた。


「それじゃ、先生のところに行こっか」

「は、はい」


 そうして、二人は生徒がいなくなり、不気味なほど静かになった廊下を歩いていく。普段は頭が痛くなるほど鮮やかなのに、今は色が無い世界に迷い込んだように静かである。


「……」

「……」


 その間、互いに口を開くことは無かった。それもそうだ、向こうからしてみれば、僕なんて業務上の関わりしか無く、話しかける理由なんてないはずだ。だから、話をしたいならば、僕から話しかけるしかない。

 チラッと白峰さんの方を見てみると、いつも通り虚無のような無色であり、どんな感情なのか分からない。でも、斎理にとって、それは本当にありがたいことだった。

 何故なら、いつも心の中に存在している誰もが隠したい感情が見えてしまうという罪悪感が、白峰さんと関わっている時だけ、心の中に存在しなくなるからだ。


 ――そういえば、最近はあの機械的な目をしていない。あれはいったい何だったんだろうか。


 白峰さんと知り合ってからの一週間くらいは、あの機械的な目をしているのを見かけるのが稀にあったが、それからは今のような感情が込められている目しか見たことがない。その理由は少しも予測出来ず、未だ斎理の心の中に燻っている。


「ん?どうしたの?」


 そんなことを思いながら白峰さんを見ていると、そのことに気がついたようで、首を傾げながら尋ねてきた。そのせいで、斎理は頬が照らされたように熱くなってしまい、少し慌てながら顔を逸らした。何でこんなにも頬が熱くなってしまうのだろうか、本当にどうかしてる。


「ご、ごめん。最近は機械みたいな目をしていないなって。あっ、ごめん、これは失礼だったよね」


 慌てていたせいで、言おうとしていなかったところまで言ってしまう。機械的な目って、普通に悪口だよね。さすがにこれは言い過ぎた。

 しかし、白峰さんは一瞬瞬きをして、そのあとふっと少しだけ笑っていた。そこには機械的な目と言ったことに対する怒りのような感情は少しも見えず、ただ予想外のことに驚いて笑っているだけのように感じた。機械的な目と言われたことの何処に笑うようなことがあるのだろうか。


「白峰さん……?」

「ふふっ、ごめんね。機械的な目とは初めて言われたから。淡河さんって結構興味深い人なんだね」


 斎理は言われたことの意味が一瞬分からず、数秒言葉を発することが出来なかった。“興味深い人”――その言葉が、頭の奥で何度も反響していた。これは本音なのだろうか?白峰さんの色が無色のせいで、その判別が出来ない。だけど、それは斎理にとってとてもうれしいことだった。だって、それはずっと求めていた――未知の感情なのだから。


「どうしたの?」


 黙り込んだ斎理を見て、白峰さんが首を傾げている。それもそうだ、話していたら急に黙り込んでしまって、不自然に思うのは仕方がないだろう。


「ううん、何でもない。急に黙ってごめんね」

「謝る必要はないと思うけど……。あ、これから関わっていくんだから苗字じゃなくて虚凛でいいよ」

「それじゃあ、僕のことも淡河じゃなくて斎理って呼んでほしい」

「……斎理くん、ですね。わかりました、一か月前にも言いましたが、これからよろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします、虚凛さん」


 互いに下の名前を呼び合う。それだけで距離が近づいたような気がして、この時は良かったと思えた。




 ――この時は。


 *


 職員室前の廊下は、教室と違って人の気配が少なく、声も抑えられていた。足音だけが、床に薄く響いていく。


「ここ、入っていいのかな……」


 斎理がそう呟くと、隣にいた虚凛は静かに頷いた。


「失礼します」


 彼女は躊躇うことなくドアに手をかけた。職員室の扉が開き、独特な静寂と書類の匂いがふたりを包み込む。


「淡河と白峰です。校外学習の業務について伺いに来ました」


 自分の名前を口にする瞬間、斎理は声の調子を丁寧に整えたつもりだったが、心臓の音がその分だけ強くなった気がした。

 職員室の中は相変わらず濁っている。連日の夜遅くまでの業務で疲れ切っている先生、生徒同士のトラブルや話が通じない親を対処して神経がすり減っている先生、授業を真面目に聞いていない生徒に対して怒りが溜まっている先生、その濁っている色のせいで息苦しくなってしまう。


 でも、その空間の一角だけは、澄んでいた。そこは鷹田先生――僕たちの担任の席だった。

 この濁った世界の中で、こんなに澄んでいる状態を保つことが出来るだなんて、本当にいい人なのだろう。


「白峰さん、淡河さん、こちらに来てください」


 僕たちがやって来たことに気が付いた鷹田先生が、二人を自分の席に呼びつける。鷹田先生の席は、職員室の端に近い窓際にあって、淡い光が書類の端に落ちていた。その書類の束は綺麗に整理整頓されていて、鷹田先生の性格が出ていた。

 そうして、二人が近くにやってくると、それぞれに一枚のプリントを渡して説明を始める。


「さて、来週の校外学習についてだけれど――まずは当日の流れから説明します」


 鷹田先生は、手元の資料を指ですっとなぞりながら、プリントの一項目ずつを丁寧に説明していく。その声は静かで、はっきりしていて、職員室全体の濁りを払うような響きを持っていた。


「まずは朝八時半に校庭で集合、全員そろったことが確認っ出来たら、その後バスで美術館へ行きます。君たちには、全員そろっているのか確認してほしいです。美術館では、各班にトラブルが起きないか確認して回って、もし体調不良やはぐれた人を見かけたら先生に連絡したり、一緒に班の人を探してほしい。自分たちも作品を見ないといけないから負担は大きいかもしれないけれど、それでも大丈夫そうですか?」


 鷹田先生が申し訳なさそうにこちらを見てくる。おそらく、昨今の人で不足のせいで先生だけで生徒たちを管理することが出来ないのだろう。


「大丈夫です、問題ありません」

「僕も同じく大丈夫です」


 その言葉を聞くと、鷹田先生は安心したようにうなずいて、続きを話していく。


「そう、それならよかった。美術館の仕事はこれで終わり、この後は弁当を食べた後に自然公園でも点呼の時に各班が揃っているのか確認することと、見回りくらい。ただ、自然公園では他のクラスも合流するので、他の委員や教員もいます。ご自身の負担が大きくなりすぎないよう無理のない範囲で、自分たちのことも優先してくださって構いませんよ」


 確かに、他のクラスの人たちがいるならば、他クラスの担任や委員長たちがいる為、人数は足りているのだろう。それならば、多少自分たちのことを優先しても仕事は回る。とは言え、さすがに完全に仕事をさぼってしまうのは駄目なのだろうが。


 斎理はプリントに目を落としながら、ふと隣の虚凛さんを横目で見た。

 彼女は変わらず淡々と資料の文字を追っている。その眼差しは、とても静かで相変わらず感情が見えない

「これで説明を終わります。質問はありますか?」

「はい、一つ質問があります。わたしたちは班に属せず、二人で回っていくということですか?」

「ええ、そうです。特定の班に入らず、運営側として行動していただきます。各班の点呼や見回りをお願いする立場ですから、二人で全体を見て回る形になると思ってもらえればいいかと思います」


 その言葉を聞いた瞬間、斎理の胸に淡い熱が広がった。何故そうなったのか自分でも分からない。でも、斎理は、自分でも理解できない胸の熱に戸惑いながら、静かにうなずいていた。二人で一緒に回る、この一か月で少しも変わらなかった距離に、変化が起きるような予感がする。


「これ以上、質問はありませんね。これで説明を終わります。また明日」


 二人は立ち上がり、先生へ軽く会釈をする。鷹田先生も、それに丁寧な仕草で応えてくれた。


「当日、よろしくお願いします。気をつけてください」


 優しい声に背中を押されるようにして、斎理は職員室の扉へ向かう。その歩幅はまだ、まったく同じではない。けれど、それぞれの足音が重なった瞬間だけ、何かが始まったような気がした。

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