第一章 鞘の内の刃

二話 学び舎の異物

◇◇◇


 白楊はくよう国・最高峰の学び舎。大都督だいととく劉義りゅうぎが主催する私塾とその隣にある、土埃舞う練兵場。そこで漂うのは、男たちの汗と武器を磨く油の匂い、そして古い竹簡ちくかんに染み付いた墨の香り。


 野心と才能が渦巻く男たちの世界で、来る日も来る日も、玉蓮は剣を振るい、軍略を学んだ。知略も武勇も、ただ高みだけを目指して。稽古着の袖は汗で常に重く、腕には絶えずあざが浮かぶが、それでも胸の奥で、轟々ごうごうと唸る炎が、玉蓮をただ前に進ませる。



 その日、行われていたのは、兵の動きを駒に見立てた盤上の模擬戦。玉蓮の対戦相手は、体格も良く声も大きい、いかにも武人といった風情の年上の兄弟子。十になり少し背の伸びた玉蓮よりも、はるかに上背がある。


 彼は、自らの武勇を誇るかのように、力押しの戦法で玉蓮の陣を攻め立てていた。だが、玉蓮は、その一切に呼吸を乱さず、視線も揺らさず、ただ静かに盤面全体を見渡した。相手の僅かな駒の動きで明るくなったその隙間。風に揺れる柳の如く自然にそこに駒を進めれば、盤を挟んだ向こうから、「ぐっ」と息が漏れたような音が聞こえる。


「あ、ちょ、待っ」


「——勝者、玉蓮」


 教官の感嘆とも呆れともつかない声が響いた。だが、周りから上がるのは称賛の声ではなく、ひそひそとした囁きと、あからさまな舌打ちだけ。それは、目の前にいる兄弟子も同様だった。


「ちっ、女の小賢しいやり口だ」


 その言葉を聞いた瞬間、玉蓮は盤面から視線を上げた。立ち上がり、傍らに置いてあった、軍略囲碁に用いられる樫の木の固く重い棒を一本、手にする。


「……今の言葉、取り消してください」


 棒の先端を兄弟子に向けながらそう告げると、目の前の顔が一瞬怯えたように歪んだ。だが、すぐに口元が弧を描く。


「お姫様が俺に剣で勝てると?」


 そう言いながら、彼も同じように樫の木の棒を握って玉蓮に向ける。


「ええ。あなたのような猪武者には」


 言葉が終わるか、終わらないか。玉蓮は地面を蹴った。兄弟子が力任せに振り下ろす棒を、わずかに逸らして懐に入り込むと、玉蓮の棒が、がら空きになった兄弟子のすねを打ち据える。


 乾いた鈍い音が響き渡り、続いて木霊するのは兄弟子の情けない悲鳴。


「いってぇえええ!」


 彼はその場に倒れ込み、膝を抱えてうずくまるが、玉蓮は、痛みにもがく兄弟子の背中を見下ろすと、さらに棒をぎゅうと握り締めて振り上げる——しかし、



「——そこまでだ、玉蓮」



 静かで全てを見通すような声に、玉蓮は、はっとして振り返った。


「先生……」


 いつの間にか、そこに師である劉義りゅうぎが立っていたのだ。


 玉蓮はまっすぐに劉義りゅうぎを見返すことができず、唇を尖らせながら樫の木の棒を背中に隠した。小さく劉義りゅうぎがため息をつく。


「玉蓮、今は剣ではなく、軍略の時間だ。暴力に頼るは、軍師にあるまじき行為だとわかっているな」


 その言葉は、他の弟子たちの耳にも届き、彼女を嘲笑う声が起こった。


「そうだ、そうだ」「女のくせに」といった揶揄やゆが耳に届き、玉連は、即座に彼らを睨みつけて黙らせた。だが——


「玉蓮」


 再びの劉義りゅうぎの声に、玉蓮が一瞬、体をこわばらせた。だが、その時、後ろの方で「ふふ」と朗らかに笑う音がして、玉蓮はその声の元に視線を走らせる。


「——見事な一手だったね、玉蓮」


 ゆったりとした足取りで歩み寄ってくる、劉永りゅうえい。師であり父である劉義りゅうぎさえも認める、塾で最も優れた兄弟子。彼が動いただけで、道場の空気が変わる。劉永りゅうえいが冷たい視線でちらりと兄弟子を一瞥いちべつすると、彼は苦虫を潰したような顔をして、そのまま部屋の隅に視線を向けた。


 玉蓮の隣に立った劉永りゅうえいは、彼女の髪を優しく撫でる。彼が微笑んだ瞬間、ざわめきが波のように引いていく。


えい兄様……」


「父、じゃなかった、先生。玉蓮は努力を惜しまないからつい、強くなってしまったのです。知略も武勇も」


「それはそうだが……」


「玉蓮の才は特別なのです。何より、先生の教えの賜物ではありませんか」


 そして、彼は劉義りゅうぎの言葉から玉蓮を救い出すかのように、手を差し伸べて、また柔らかく微笑む。


「行こう、玉蓮。面白い書があるんだ」


 玉蓮は、差し出された手に半ば無意識で手を伸ばす。彼は、玉蓮の手を引いて歩き出したかと思うと、「あ」と声を小さく上げて立ち止まり、にっこりと笑って振り返る。


「先生、私たちは勉学に励みます。それでは」


 劉永は、劉義りゅうぎに頭を下げると、玉蓮を伴って駆け出した。


「わ! 永兄様」


 そして、廊下に出た途端、劉永がくすくすと笑い出す。


「あの顔、見たかい。父上は、君にだけは甘いんだ」


 その軽やかな声に、張り詰めていた玉蓮の肩からふっと力が抜け、唇からは小さな笑みが漏れた。

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