第三話:笑ショウメン面ー後
僕たちは、完全に引き込まれた。
気づけば僕たちは、舞台の中央に立っている。
頭上には古びた能舞台の屋根、その周囲をぐるりと囲むように闇が張りついている。観客席らしき場所には、人影とも面ともつかないぼやけた形が並び、じっとこちらを見つめていた。
仁藤さんは隣で目を見開き、息を呑んでいる。
「こ、これ……なに……?」
声が震えていた。
そのとき、低く、湿ったような声が舞台の上に響く。
「舞えよ……舞え。されば、笑顔であり続けられる」
舞台奥の暗がりに、壁に飾られていた“笑面”が浮かんでいた。白い頬と細められた
口角が、強烈な光の中でもいやに鮮明だ。その唇は、確かに動いていた。
「やめて……」
仁藤さんが後ずさる。
だが足元が吸い寄せられるように前へと動き、舞台中央で足が止まった。
ざん、と拍子木の音が響く。空気が震え、舞台上の明かりが一斉に彼女を照らす。
まるで学芸会の再現だ。
主役として立たされたときの視線、拍手、期待――それらが、濃密な圧力となって仁藤さんへ押し寄せる。
僕の胸にも、その圧力がのしかかってくる。重い。呼吸が浅くなる。
これは舞台じゃない。監獄だ。
仁藤さんは必死に首を振るが、口元は勝手に引きつり、笑顔の形に歪んでいく。
「ち、違う……こんな笑顔じゃない……」
笑顔は本来、心から溢れるものだ。それを、無理やり形だけ作らせるなんて――こんなの、歪んだ拷問だ。
僕は前に出ようと足を踏み出したが、見えない壁に阻まれた。
「くっ……千歳!」
背後から千歳が並び、羽織の裾を揺らして舞台を見据える。
「情念の檻だ。面が守ろうとしている……だが、その方法が歪んでおる」
笑面の声が再び響く。
「舞えよ……舞え。笑顔は力……笑顔はすべて……」
観客席の人影がざわめき、拍手とも雨音ともつかない音が広がる。その音が、仁藤さんの震える肩をさらに押し立てる。
――このままじゃ、完全に呑まれる。
僕は拳を握った。仁藤さんを救い出すには、この情念の檻を壊すしかない。
僕は千歳を一瞥した。千歳は僕の思いに答えるように強く頷いた。
◆
舞台の照明がさらに強まり、闇に沈んでいた観客席の“影”が一斉に身を乗り出す。
その中心、舞台奥に浮かぶ笑面が、仁藤さんを見下ろしていた。
「舞え……舞え。皆が望んでいる……笑顔を……」
その声は、低く甘い。けれど耳の奥を削るような響きで、聞く者の抵抗を奪っていく。
仁藤さんの足は床に縫い付けられたように動かず、腕だけがぎこちなく上がる。
肩は小刻みに震え、目の奥に光がない。
――完全に操られてる……。
「千歳、どうすれば……」
僕が唇を噛むと、千歳は一歩前へ進み、羽織の袖を静かに払った。
「情念そのものは、悪しきものではない。守るための願い……だが、それが形を変えて縛りに変わっておる。解くには――想いの芯を見極めねばならぬ」
芯……?
僕はもう一度笑面を見た。
その口角は、笑っているはずなのに、どこか必死だった。
まるで、「笑顔を失わせまい」と自分に言い聞かせているような……。
「……お前、本当は仁藤さんを苦しめたいわけじゃないだろ」
僕は声を張った。
観客席の影がざわつく。笑面の瞳が、わずかに揺れた気がした。
「舞えよ……笑顔を……そうすれば……みんな喜ぶ……」
声が少しだけ弱くなる。
千歳が低く告げる。
「今だ、我が所有者よ!」
僕は仁藤さんの方を見やった。
彼女の額には汗が滲み、口元は無理やり引き上げられた笑みに固まっている。
「……仁藤さん、本当に笑いたい時って、こんな顔じゃないよな」
その言葉に、仁藤さんのまつげが震えた。
観客席の影のざわめきが、一瞬止む。
「僕は、あの日の舞台を見てない。でも……本物の笑顔は、誰かに命令されて作るもんじゃないはずだ」
笑面が、ゆらりと揺れた。
その頬の光沢が、一瞬だけ曇ったように見えた。
――届いてる。
けれど、まだ足りない。
千歳が扇を軽く広げ、舞台に一陣の風を走らせる。
「我が所有者よ、最後の一押しを。主の願いを、自由にしてやれ」
僕は深く息を吸い、笑面を真っ直ぐ見据えた。
「……守りたいなら、縛るな! 仁藤さんは、自分で笑える人だ」
その瞬間、舞台全体を覆っていた空気がわずかに弛み、観客席の影が霧のように溶け始めた――。
◆
胸を押しつぶしていた重い幕が、ふっと風に溶けるように消えていった。
目の前に広がるのは、仁藤さんの部屋――現実の光景だ。
舞台の照明も、押し寄せる観客の視線も、もうどこにもない。
壁に掛けられた笑面は、そこに静かに佇んでいた。
不気味さはもう消えている。ただの能面風の仮面として、やわらかな部屋の明かりを受けていた。
それは、怪異であったことすら疑わしく思えるほど穏やかな姿だった。
「……もう、限界だった」
仁藤さんは膝に手をつき、深く息を吐いた。
その肩がわずかに震えている。目には、張り詰めていた糸が切れたような涙が光っていた。
「ずっと、笑ってなきゃって思ってた。学校でも、家でも……どこでも」
彼女はぽつりとこぼすように言葉を続けた。
「周りが笑ってるとき、自分だけ笑ってないと、場の空気を壊すんじゃないかって……。みんなが元気でいるためには、私が元気でいなきゃいけないって……本気で思ってた」
彼女は震える手で胸を押さえた。
「でも、本当はそんな余裕なかった。笑顔を作るたび、頬が痛くて、目の奥が泣きそうで……それでも“頑張ってる私”でいようとして......」
声が震え、視線が笑面に吸い寄せられる。
「あの面があったから、なんとかできたの。辛いとき、この笑顔を見れば、“まだ大丈夫”って思えたから」
そこに宿っていたのは、押しつけられた役割への疲弊と、それでも応えようとした健気さだった。
僕はゆっくりと彼女に近づき、静かに言った。
「仁藤さん。この仮面は、仁藤さんの誇りであり、支えてくれた大事な存在だ。でも……それが仁藤さんを苦しめる鎖になる前に、ちゃんとありがとうって言って、折り合いをつけるべきじゃないかな」
仁藤さんは少し唇を噛み、そしてふっと表情を緩めた。
「……うん。ごめんね。そして、ありがとう。……もう、大丈夫」
その瞬間、笑面の口元が、ほんのわずかに深くほころんだ気がした。
次いで、柔らかく、安らぎを含んだ声が空気を震わせる。
『……よく、笑ったな。もう、休んでいい』
仁藤さんは目を潤ませながら微笑み返し、両手でそっと笑面を包み込む。
面は淡く光を放ち、その光は柔らかく温かく、まるで長い旅路を終えた者が安息の場所へ戻っていくようだった。
ふわりと空気が震え、光は細かな粒子となって部屋の中に溶けていく。
その動きは息吹のようで、残された僕たちの頬を優しく撫でた。
やがて光は消え、壁にはただの笑面だけが残った。
そこにはもう、異質な存在の気配はない。
ただ、空白だけが静かに広がっている。
仁藤さんはしばらくその場所を見つめていたが、やがて小さく微笑んだ。
その笑顔は、さっきまでの引きつったものではなかった。
自然で、やわらかく、彼女自身の心から湧き上がったものに見えた。
◆
壁に掛けられていたはずの笑面は、もうない。
残されたのは、ぽつりと空いた空白と、静かな空気だけだった。
その空白を、仁藤さんはしばらく見つめていたが、やがて深く息を吸い、吐いた。
「これからは……無理に笑ったりしない」
彼女の声は、さっきまでの張り詰めた響きではなく、やわらかい。
「ちゃんと、自分の気持ちと向き合って……今の私を、大切にしたいと思う」
そう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。
その笑顔には作り物のぎこちなさはなく、自然に目元が緩んでいる。
僕は思わず安心して頷いた。
「それがいいと思う。笑うことは大事だけど、それ以上に、笑わない自由だって大事だから」
「うん……」
彼女は少し考え込むようにしてから、続けた。
「あの面……ちゃんと箱に仕舞って、時々話しかけるようにする。飾って毎日見てると、また頑張らなきゃって気持ちになりそうだから。……でも、私にとって大切な思い出だから、忘れたくはないの」
僕はその言葉にうなずく。
それは、想いをただ消すのではなく、その存在ごと受け入れて、正しい距離で関わろうとする彼女の強い意思だった。
――怪異とは、人を害するものばかりじゃない。
持ち主の歪んだ感情や、時には過剰な愛情が形を取ることもある。
そしてその解決とは、感情を切り捨てることではなく、想いを正面から受け止めることだ。
前に出会った三味線の怪異、そして今回の笑面も。
物に宿った想いを否定せず、押し込めもせず、そのまま受け止める。
それが持ち主を救い、強すぎる想いから器を解放することなのかもしれない。
見過ごさず、しっかりと正面から向き合うこと。
……僕にも、きっと向き合わなきゃいけない何かがある気がする。
それが何なのかはまだはっきりしない。
ただ、避けてばかりはいられないのかもしれない――そんな予感だけが、静かに胸に残った。
◆
その夜、僕は自分の部屋に戻っていた。
窓の外では、夏の夜風がカーテンをゆらりと揺らしている。
机の上に鞄を置くと、そこから千歳がふわりと姿を現した。
淡い灯りに照らされた金色の扇面が、静かに光を返す。
「……よくやった、我が所有者よ」
千歳は、珍しく柔らかな声音だった。
「喜びの情念もまた、歪めば怪異となる。しかし、それが正しく解き放たれた時、器は真の安息を得る。……そなたの行いは、まさに情念を受け止める極致であろう」
その言葉を聞いて、僕は少し照れくさく笑った。
「そんな大層なことをやった覚えはないけどな。ただ……今回は、消すんじゃなくて、ちゃんと向き合えた気はするよ」
「向き合うというのは、容易ではない」
千歳は、ゆるりと扇を閉じながら言った。
「人は時に、自らの内にあるものにすら目を背ける。……そなたも、いずれ――」
そこで千歳は言葉を切り、わずかに視線を伏せた。
その先を問うべきか迷ったが、僕はあえて黙った。
代わりに窓の外へ視線を移す。夜の街の灯りが、ぼんやりと瞬いていた。
――僕にも、向き合わなきゃいけない何かがある。
それが何なのか、まだ形にならないけれど。
千歳は僕の隣に静かに佇み、夜風が部屋を通り抜けていった。
その静けさの中に、不思議と次へ進むための力が満ちている気がした。
付ツクモ喪タン譚 継無来(つぐならい) @tsuguna_rai
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