作戦会議日和

朝食を済ませた後、食器を台所に母と一緒に運んだ。

水を出そうとしたところで、母が俺の肩を押してきた。


「子供はちゃんと遊んでいなさい」


「だから子供じゃないって」


「ふふ、コーヒーを砂糖なしに飲めるようになってから言いなさい」


軽く笑いながら、母は俺の手から皿を奪い取る。

すぐに袖をまくって、水に手を浸した。

目の下のクマはまだ残っているのに、鼻歌まじりで皿を洗うその姿はどこか楽しげだった。

機嫌がいいときの母は、もう誰の手助けも受けつけない。


「お、コーヒー……まだある?」


背後からふわっとした声がして、父がカウンターの向こうにやってきた。

半分寝ぼけた目で俺を見て、にこりと笑う。


「はよー、あきぃ…もうママの仕事を奪わないでやってよなぁ」


「貴方はもうそろそろ顔洗ってきなさい」


「おー、仰せのままに~」


父は欠伸をかみ殺しながら、ぬいぐるみみたいにゆるんだ笑顔を残して奥へと引っ込んでいった。

コーヒーがあと二、三杯は要りそうな顔だ。


――これが、いまの俺の家族。


夜遅くまで働いて、ソファで寝落ちするような人とは思えないほど穏やかな背中。

その姿に、胸の奥が少しくすぐったくなる。

俺だったら、たぶん疲れで不機嫌になってる。


この人たちだから、鈴子はあんなにしっかりしてるのかもしれない。

いたずら心も、ちゃんと受け継いで。


そんな他愛もないことを考えながら、俺は居間を出た。

今日の空は、どこか遊びに誘ってくるように明るかった。


***


顔を洗って部屋に戻ると、デスクの椅子に腰を下ろした。

茂の言う“作戦会議”までは、まだ十五分ほどある。


手持ちぶさたに、近くの本を手に取ってページをめくった。

けれど、文字を追っても心は別のところにあった。


――この一か月のことを、思い返していた。


春休みはほとんど何もしなかった。

茂に誘われても相川家には顔を出さず、何かと理由をつけて断ってばかり。

三門は中学時代の友達と祭りに行っていたし、

島村はずっと家で勉強していて、LINEも事務的なやり取りだけだった。


新学期が始まり、クラスが分かれて。

少しずつ距離ができるかと思いきや――こうしてまた四人で遊ぶ約束をしている。


その思い出の合間に、ふと別の顔が浮かぶ。


芝目里香。


彼女の震える肩を見続けてきた半年。

ちゃんと話しかけられたのは、きっと今月が初めてだった。


どう声をかければいいかわからず、ずっと足がすくんでいた。

そんな俺の背を押してくれたのが、島村と三門だった。


島村が先生との信頼を通じて、芝目との最初の交流の場を作ってくれた。

そして、三門の「慣れの場」という言葉が、俺に“距離を測る勇気”を与えてくれた。


あの助言がなければ――芝目が俺を信じて、連絡先を交換してくれることもなかっただろう。


……連絡先…


スマホに思わず手が伸びる。

画面を開いて操作した先は、芝目とのLINE。やはりまだ返事が来ていない。


わかっている。彼女は気を許してくれているけど、きっとどこかで何かが彼女を押さえつけている。

昨日の夜の彼女の顔に描かれていた葛藤は、彼女の恐怖心の深さを語っているようだった。


無理に付け込むべきじゃない……なのに、指が返事を促そうとする。

文字を打つが、理性がそれを消してくれる。


待つこと。それが俺にできる芝目のための最善なはず。


本のページに視線を戻しても、もう内容は頭に入らない。

そっと折り目をつけて机に置き、椅子にもたれる。


窓の外からは、鳥の鳴き声。

風が頬をなでて、カーテンがわずかに揺れた。


深呼吸をして、自分に言い聞かせる。

焦るな。まだ一か月だ。


これから、少しずつ。

そのうち一緒に公園を散歩できるかもしれない。

映画を観て、笑い合える日だって――。


想像しただけで顔が熱くなる。

ごまかすように鼻筋を押さえた、その時。


スマホが鳴り始めた。

画面には“茂”の名前。


時間はぴったりだった。


通話ボタンを押すと、数秒の無音ののち、

おなじみの騒がしい声がスピーカーから飛び込んできた。


『ぶっぶー!お前4回鳴らしてから出たね!社会人だったらクビ案件!幼稚園から出直してこい!!』


「……朝からきついって…」


『島村ちゃんなんて2回目で出たよ?』


『変なノリに巻き込まないでもらえるかしら?』


島村と俺は、ほぼ同時にため息をついた。休みの日も、このやんちゃさんに元気を奪われそうだ。

それでも声の裏に笑いを感じてしまう。


そのうち、残りの一人がようやく通信につながった。


『わるい!トイレ行ってた』


間髪入れず、茂が叫ぶ。

『三門クビだぁ!』


『クビね』

「すまんな、もう明日から来なくていいぞ」


島村と俺が乗っかると、通話の向こうで三門が噴き出した。


『なに、クビって?いつ俺、お前らの下っ端になってたんだ?』


笑いを堪えながらノリが合う4人。

いつもながらくだらないのに、嫌にならなかった。


軽い空気で、そのまま茂が司会するように遊びの予定を話し始めた。


『つーわけで、明日海老名に行きたいと思っているけど、異議ある者は?』


「『『ないね』』」


『よろしい!』


声が見事に重なり、通話の中で全員が笑った。

いちいちこんなことで笑えるのが、妙にうれしい。


『海老名ってビナウォークだっけ?』


『そだよ~、映画もあるし、イベントもやってるよ~』


『私、お菓子作り体験ってのがちょっと気になるかも』


「あ、新しいカフェも近くにできたらしいよ」


それぞれが話題を投げ合い、茂がうまく拾っていく。

島村は全体をまとめ、三門と俺は思いついたことを次々に口にした。


楽しくて、指が勝手に動く。

掛け合いのテンポも、いつもの信頼があって心地よかった。


『やっば、これちょっと詰め込みすぎかもしれん』


『いったん落ち着きましょうか』


予定に対して議論するときも、隠さずみんなの意見がぶつかり合った。

そのまま一日の予定が少しずつ形になっていく。

一時間たったところ、リストがまとまったらしい。


『んじゃ、大体決定ね!朝9時半集合、そのあとはカフェ、んでイベント会場で、フリータイム。昼はあそこの飯屋で合流、3時から映画ーー』


彼の声を聞いていると、本当に班活動みたいで笑えてくる。

遊びのはずなのに、妙な達成感が肩にのしかかった。


『夕方解散ね。島村ちゃんは問題ない?塾とか?』


『大丈夫よ。たまに羽を伸ばして来いって、パパにも言われたし』


『グッジョブ、島村パパ!』


そんなふうに、俺たちの遊びは明日に決まった。

一日中一緒に過ごすことになる。

少し疲れるかもしれないけど、それ以上に楽しみのほうが勝っていた。


通話が切れたあと、画面を見つめながら息をつく。


……芝目のことが、また頭をよぎった。


ここに誘えたら、もう少し一緒にいられるのに。

デートみたいに――


首を振ってその考えを追い払う。

まだだ。焦るな。


そのうち、きっとこういう場所に連れていける。

その日が来るまで、少しずつ距離を縮めていけばいい。


明日に向けての楽しみを胸に抱きながら、俺はスマホを机に伏せた。

そして思い出す――朝食のときに、遊びの予定を伝える約束をしていたことを。


「母さん!鈴子!俺、明日遊びに行くよ!」


窓の外では、雲ひとつない青空が広がっていた。

まるで、明日を見守るように。


それは、きっと良い兆しだった。

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