五月の温暖
いつの間にか、俺はとある空間をさまよっていた。
右も左もわからない。ただ、胸の奥だけが妙に静かだった。
まるで、何かを失ったあとの余白だけが残っているみたいに。
床に立っているが、足元に伝わる感触が柔らかかった。
ふっかふかな干したばかりの布団のような安心感を覚える。
どこだかわからない。頭もほぼ回っていなかった。
頭をねじろうとすると、それが暴走するようにいろんな記憶が流れ始める。
どれも高速にスライドするような映像で、まともに内容を見ることができなかった。
ふとある声がどこからか空間をよぎる。
昔の俺は、どんな子だったっけ。
衝動に駆られて、俺はその中を歩み出した。
傍らでともに動くのは複数のぼやけた写真だった。
昔の家だった。
小さい頃は、苗字が坂田ではなかった。
もうそれが何だったかすら覚えていない。
お母さんに甘えておかしを食べさせてもらってた。お父さんに高い高いって空中に飛ばしてもらった。
そんな甘い記憶はかすかに覚えている。
何もない道を歩いていると、大穴にたどり着いた。
奈落の底に、数枚の写真が吸い込まれるようにゆらりと落ちていく。
どんな映像だったか…まったくわからなかった。
あれらは、たぶん子供のころの記憶だった。
それらが流れるように大穴に入っても、何の惜しみもわかなかった。
冷静そのもの。
ただただ記憶が封印されるのを、立ち尽くしながら見守っていた。
嫌な記憶だったかも、嬉しい記憶だったかも、すべてを見放していた。
それが当たり前のように感じてしまった。
俺は、どんな子だったっけ。
奈落から目をあげると、大穴の向かい側にある人の姿が立っていた。
長い黒髪のとある女性。霧がかかっているように、顔の輪郭がぼやけて見えた。
お母さん…?
違う気がしていた。けど、とても近い気もする。
その人の姿に、何かが引っかかっていた。
あそこに行かなければならない。ふとそう思った。
その矢先に、その女性は俺に手を振り始めた。
ーーそして、一歩踏み出し…奈落の底へと飛び出した。
「…あっ…」
女性が舞うように大穴に飛び込み、その落ちていく姿が妙に可憐なものに感じてしまった。
でも、離れていくことに強い嫌気が込みあがる。
思わず手を伸ばして、追うように俺も一歩踏み出した。
次の瞬間、顔は何かに掴まれていた。
冷たい…呼吸ができない…!
慌ててその何かを顔から離そうとひっかけてみたが、何もつかめなかった。
水のような、とにかく形のないものが俺を囮にしていた。
暴れる俺は、そのうち叫び出す。
口から出るあわが俺の意識となり、やがて水面に浮かびあがっていく。
***
「……っむむ…むぐっ?!」
気がつけば、顔に何か冷たいものをこすりつけられていた。
ガサガサしてて、なんか濡れてる。
濡れたタオル…?
「あ、起きたね」
俺が飛び出すように起き上がると、鈴子が隣でタオルを手に巻いて得意げに笑っていた。
朦朧としていた意識が徐々に戻って、ようやくどういう状況だったかを理解した。
寝ている俺を起こすために、妹が濡れたタオルで顔を擦っていた。
悪趣味…
「もう、勘弁してくれよ…そのせいで溺れる夢見ちゃったじゃないか……」
「でもこっちのほうが起きるでしょ?それとも打撃の方がよかった?」
言いながら拳を見せびらかして、またキャッキャと笑い出した。
しっかり者の妹も、やはりまだいたずら心が残っていた。
ムカッとして、頬を抓ろうと両手を突き出した。
それを逃れるように鈴子は後ろへ飛んで、舌を出しながら部屋の外へ逃げ出した。
「やーい!出来るもんやってみやがれ、寝坊助~」
「待て、こら!」
騒がしい朝で今日が始まった。
逃げ回る鈴子を下の階まで追いかけながら、妹の笑い声が家を満たしていた。
居間に逃げ込む鈴子に続いて俺も滑り込んだ。
しかし、彼女が入ったところに突っ立っていると、思わず俺も固まった。
視線の先には、父だった。
ワイシャツを着たまま、ソファで横たわっていた。スーツは腰掛けにかかっていた。
目が閉じていることから、そこで居眠りしているようだった。
何時に帰ったんだろう。
鈴子は俺に向かって指を口に押し付けて「しーっ」とした。
「あまり気にしなくていいのよ。お父さんもうぐっすりだから大抵のことで起きないわよ」
声は台所から。
母は洗い場で皿洗いをしていた。目元に相変わらずのクマが残っていても、めげずに手を動かしていた。
なんだか、胸が痛む映像だった。
「毛布どこ?」
鈴子が何気に聞きだした声に俺は気を逸らされていた。
母はそれに対し、顔をあげずに答えた。
「テレビ下のタンスに一枚あるよ。洗ったはず」
「オーケー」
そのままてくてくと鈴子はタンスに駆けこんで、毛布を取り出してた。
次にそれを広げて、父にかけていた。
そんな鈴子の迷いない動きにちょっと苦笑いしてしまった。
俺も見習った方がいいよな。
「洗い物代わるよ」
「あら、いいの?まだ顔も洗ってないでしょ?」
「ここで軽く流せばいいじゃん」
母は少しだけ苦笑しながらも、溜息をついた。
そして軽く手を水に流してから、場を俺に譲ってくれた。
「ありがとね。じゃあご褒美に朝ごはん温めるね」
「別にいいよ」
軽く笑い合ってから、俺はまだ洗っていない皿を手に取り作業をし始めた。
その隣に母が立つ。コンロの火がつく音と一緒に、味噌と
そしてしばらくして、頭に優しい感触。
「ほんと、いい子ね、阿木も」
「……っ…子供みたいにしないでくれよ」
「あら、いつ阿木は私たちの子どもじゃないって錯覚したの?」
母が言った途端、鈴子の悶える声がカウンター越しに飛んでくる。
「そのネタきついって、母さん…」
「えぇ……でも、鈴子がいつも言っているじゃないの」
「そうだけど……お母さんが言うとなんか変!」
俺たちの休みは、大体こんなしょうもないやり取りが多い。
鈴子がどっかのアニメとかで拾った小ネタを母が拾って乗ると、それがきついとケチつける。
皿洗いを済ませたタイミングに合わせたように、母は味噌汁をお碗に注ぎ始めた。
トーストの焼きあがりを知らせる音も、奥から鳴った。
「ささ、ごはん食べて」
食卓を囲んだのは、俺と鈴子。母はトーストとコーヒーを父のところに持っていってから、そこで座った。
手を合わせて鈴子と声が重なる。
「「いただきまーす」」
トーストにキャベツサラダ。そして味噌汁というちょっと和食と洋食を合わせた家庭の朝食。
いつもながらも、心地よい朝飯。
なんかいやな夢を見てたような気がするが、それがパンとともに消えていった。
そのうち、俺たちの会話が始まる。
最初の話題は休み中の予定だった。
母が寝ぼけている父を介抱していながら、ソファの傍らから質問を投げかけた。
「阿木はどこか友達との予定はない?」
「うん、一応あるけど、まだ話ついてない」
「あら…せっかくなので、みんなでちょっと遠出しようかなと思ったのに、まだ決まっていないなら難しいね」
むーっと困ったようなわざとらしい顔をする母。その中でもチラチラとこっちに目配せている。
大体その意図が分かった。
ぎこちないながらも口を広げて見せた。
「ま、まあ、今日話すはずだからすぐにわかるよ」
「いいじゃない~ 後で教えてね」
「うん、わかった」
会話の途中ずっとむしゃむしゃとパンをかじっている鈴子は俺たちを交互に見ていた。
遠出の話は、すでに母から聞いている様子だった。
おそらく昨日、俺の帰りが遅くなった時に話していたんだろう。
そして出かける方向に話が運びそうになった時に、鈴子はぱぁっと顔を明るくした。
パンを飲み込んで、裏返る声で俺に命令めいたことを放った。
「絶対だからな、阿木にぃ!夕方にその答えを聞かせてもらうからな!」
「はいはい」
家族との遠出はまれにないことだった。だから鈴子はこれだけ楽しみにしているのだと俺は納得した。
口元が緩み、またパンを口にする。
朝食が進む中で、今度は鈴子の学校の話で母と妹が話していた。
それを横で聞いていると、ポケットにあるスマホが鳴った。
通知には茂からのメッセージが一通来ていた。
”作戦会議1時間後に!起きろぉぉ!!”
朝からテンションすごいな、この人。
ラインを開いて了承の返事をしてから連絡先の欄に戻る。そしてそこにしばらくとどまる。
茂のチャットのちょうど下に、芝目とのチャットが目に映った。
通知はなかった。
その中を覗くと、俺が昨日寝る前に送信した一通のメッセージだけが一番上に書いてある。
”今日はお疲れ様でした。無事に帰りましたか?これからもよろしくお願いします!”
結局茂にアドバイスをもらえなかったまま、やけくそで芝目に送った一文だった。
……だけど、それには既読だけがついて、返事はなかった。
温かさも感じながら、妙なもやもやが残る。
まだ、心を完全に開いてくれていないのか、LINEでも彼女にとってはまだ話すのが難しいようだ。
芝目はずっと人を恐れていた。それを考えると、これがあるだけでかなりの出来事だ。
だから……焦らず、彼女をただ待って見守るべきだ。
今は…この家での温かさにだけ、目を向けよう。
居心地いい今を、忘れないように。
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