SIDE芝目:一方、霧の中に

芝目が部屋に戻ると、晩御飯の味は少しだけ舌に残っていたことに気づく。


母の温かい味噌汁とほんのり塩味のサバ焼き。

あっさりした味だけど、頬を撫でるうま味が確かに存在していた。


その色を見いだせるような感覚は、今週で初めて取り戻せた。


胸に手を握りしめる。


間違いない…ちょっとでも、私は変われてる…!


体感した母のぬくもりに、胸が跳ねる。

それと同時に、坂田の優しい顔が目に浮かぶ。

喜びなのか、目元と頬周りに温かさが広がっていく。


もしかしたら、もうよくなったのかも。

期待を胸に抱きながら、芝目は自分の机に目をやる。


パソコンの一台だけおいてあるあれは、長い間勉強に役立てていなかった。

教科書を開けるだけで中学校のことを思い出す。


思考がそこに行くと、必然的に……あの人を思い出してしまう…


芝目はそれを振り払うように頭を横へ振った。


今はもう高校生。

過ぎた話だ…


……過ぎた…話…


顔をしかめる芝目は、これ以上過去を思い出さないようにするために、机へ急ぐ。


カバンを開けて教科書と授業でもらったプリントを取り出し、机の上に広げてみた。


そして一息もつかず、プリントの内容に目を通す。

文字は入るが、内容はほとんど理解できなかった。


当然のことだった。

授業中、先生の説明や黒板の文字は一切頭に入ってこなかったからだ。


だが、本調子ならば問題ない。


「……す、数学…教科書は……」


プリント横にある教科書の山に目が移る。

数学の教科書を探すために、その山をかき分ける。


ーーふと、教科書を渡される記憶がよみがえる。


手渡ししている人を見ると、気まずそうに頬を掻いている男子が目を逸らしていた。

目のクマが深い、いかにも人とのかかわりが苦手そうな人。


「……っ…!」


また、頭が勝手に…!


食いしばって、勢い余って教科書を引き出す。

数学の本以外の教科書は何冊か床にぱらぱらと落ちる。

だが、それには気にせず、適当なページを開いてその中身を凝視する。


文字の意味は…頭に入らずのまま。


思考はそのまま、あの男子との日々に流される。


男子の席に自分の机を寄せて一冊の教科書を一緒に見る記憶。


……ダメ…!


息が荒くなるのを感じて、芝目は筆記用具を握る。

プリントを睨み、問題を解こうとなんとしてでも頭の回転を取り戻そうとする。


Xイコールーー


『……芝目さんって、すごい頭がいいですね…僕なんかよりも…』


昼時、一緒に宿題のことを話している記憶。

彼の弱気を含んだ声が、やけに耳に響く。


……待って…!


唇をかみしめて、つんざくするような痛みがじわる。

鼓動が激しくなり始めていることに気づくと、芝目は目を瞑る。


記憶がよみがえることを拒むように、握っているシャープペンに力を込めていた。


しかし、彼女の中の亡霊はそれを赦してくれなかった。


彼との映像は次々と流れる。


帰り際の分かれの挨拶。


試験の答え合わせ。


休み前の二人だけの会話。


中庭で一緒に弁当を食べている一時。


女子たちが彼女のことをクスクスと話している声が届くとき、彼が芝目の気を逸らそうと話しかける記憶。


そしてーー


暗い倉庫の中にいる記憶。

手首に、何かがまかれた感覚が痛く滲む。

縛られた記憶だった。


今は何もまかれていないことを、頭ではわかっているのに、思わず芝目は手首を擦る。


目を開けて、プリントを睨むも、記憶の暴走が止まらなかった。


……やめて…!


暗い倉庫の記憶の中、彼女は見上げると、その彼が隣で座りながら無表情なまま……彼女を見下ろしていた。

目が合う瞬間、無表情だった彼はふいに顔をしかめて、目を逸らした。

その仕草に、妙な締め付けがあった。


次の映像はーー血まみれになった彼女の手。


吐き気が喉元を昇り始めていた。

口元を押さえて、芝目は飛び出すように立ち上がった。

唾を飲み込みながら、めまいがするほどに体が揺れる。


まともに歩けない感覚を覚える途端、芝目は慌てて引き出しを開けた。適当に詰め込まれていた麻紐が一番上にあらわれた。

咄嗟にそれを手に取り、えずき出す前にその紐を手首に巻き始める。


ベッドに倒れ込み、彼女は小さく自分に呟く。


「……大丈夫…安全…!」


言い聞かせるように、目を瞑りながらかすれた声で繰り返す。


「……誰もいない…傷つけてこない…傷つかない…!」


結び目のない紐の端を握ってそれをギュッと引っ張る。

キシキシと音を立てる麻紐は手首に痛みが走るほど締まっていく。


「……縛られても、私が私を制している…!支配なんかされない!」


激しく脈打つ鼓動がしばらく胸を苦しませていた。

彼女の言葉が終わると、時間とともにゆっくり落ち着きを取り戻す。


時計の針の音が響くようで、部屋を充満していく。

それに沿うように、脈音がシンクロしていった。


呼吸を整えたことを境に、今度は涙が目元に滲む。


悔いるように芝目がベッドの上で体を丸くする。


結局、彼女はまだ治っていなかった。


その事実を突きつけられたと感じた時、ずっと背中に張り付いていた嫌悪感が一気に彼女の心を蝕んでいった。

声にならないうねりが喉奥に鳴る。


「……なんで…なんでよ…!」


肩を揺らすほどに、彼女は泣き始める。


時に流れるように、芝目はただベッドの上で、声を押さえてただ横たわることしかできなかった。


疲れが体に追いつくころ、彼女は少しだけ落ち着く。

けれど、心の中の暗闇は残ったままだった。

重い息を一つ吸い込んで、顔をしかめるところ、ふと別の人の映像が脳裏によぎる。


坂田の笑顔だった。


『……どこにも行かないよ』


あの言葉が耳を優しくなでた。

それを頼りに目を閉じると、今度はあの日の生徒会室での記憶が広がった。

膝の上に置いた手帳、その開いたページに書いた一文。


緩和ケアのことだった。


それに感づいたかのような彼の声掛けに、彼女の心が動いたことを思い出す。


あの言葉に、あの日は生きた感覚を取り戻したように感じた。


「……さかた、くん…」


呼びかけるように小さな声で名前を口にする。

心が一瞬だけ揺れるように感じたと思ったら、温かい気持ちが芝目を包み込んでいた。


……会いたい……


麻紐をほどいて、彼女はスマホを探した。

画面操作して、連絡先をひたすら漁るが、そこには坂田の名前がなかった。


連絡先を交換していなかったことは知っていた。

けれど、もしもと思って、淡い希望を抱きながら画面を見つめていた。


画面ロックをかけて、スマホを胸に抱きよせる。

想像に坂田の背中を浮かばせて、芝目はしばらくそのままでいた。

その背中にしがみ付きながら、心は揺れ続けていた。


霧の中をさまよい続けているような感覚は拭えない。

それでも、わずかな温もりにすがるようにーーやがて、まどろみに身を沈めた。

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