霧の切れ間

最後の授業中は指が冷えるようで筆記用具を握るのにも苦労していた。


休憩時間に何回かスマホを見て島村に連絡しようとしたけど、文を作っては消しノ繰り返し。

話し合いたいって一言だけ言えばいいのに…なぜか躊躇う。


……大丈夫かな…


そしてチャイムが鳴ると、先生が教室を出ると同時にクラスメイトの皆は次々と帰宅していった。

俺が席にぼーっと座ったままでいると、茂は頬を突いてきた。


「何してんの?帰るよ」


ハッと我に返ると、茂が不思議そうに俺を見ていた。カバンを肩にかけて俺をせかすかのようにそれを揺らした。


ふと目がそこから外れ、芝目の席に行った。


芝目はこちらを見ている。

だが、目が合うと彼女は慌てるように顔を逸らして、逃げるように教室を出て行った。


俺は固まって、それを無言に見送ってしまった。

頭が回っていなかった。口元もたるんで言葉が出ることもなかった。


ことが過ぎると、俺は何か一言かければよかったと奥歯に力を入れた。


……でも、その考えを払うように頭をふった。

今は島村との話が先だ。


昨日の件もふたを閉めたい…そして何よりも、俺の問題についてどうするか決めたい。


EDの相談……それを思い出す途端顔に熱が込みあがって、眉間にしわが寄る。


「おーい、あっきー?壊れちゃったぁ?」


ツンツンと俺の頬をしつこく突く茂はとうとう心配になって顔を覗き込んできた。

イラっとしてその手を振り払った。けれど茂ノ表情を見るとイラつきがすぐに消えてしまった。


しまった、心配かけちゃった…


「…ああ、悪かった。」


俺が荷物をまとめていると、茂はまた口を開けた。


「……なんか最近多いんよな、あっきーが考え込んでるの。なんか悩みでもあった?芝目ちゃんのこと?」


プリントとテスト勉強のための教科書をカバンに詰め込みながら返事をする。


「いや…まあ、芝目さんのこともあるけど…今は違うんだよな」


言った途端、言葉が意図せずにもすんなり出てしまったことに気づく。

自分の言っていることをキャッチしていなければ、そのまま島村について話してしまいそうだった。

一息を取って、外から漏れる話声に耳を澄ましてみた。


余白を取るように、黙ってその音に浸りながらカバンを閉めた。


茂と言えば、静かに俺を待っていた。

しばらく静かな間がながれ、俺がカバンを肩にかけるタイミングに言葉を返した。


「ふーん…なんか大変なんだねぇ。相談したかったら、僕乗るよ?」


珍しく、まっすぐな目だった。

立ち上がって顔を合わせると、茂は表情をニコっとして続けた。


「カラオケしながらでもいいよ?」


隙も無いな、この人…


「……小テストの勉強はどうなった…?」


「…むぅ……そんなすぐにしなくていいじゃん…!リラックスも大事だからさぁ!真面目過ぎると疲れちゃうよ?」


むっと頬を膨らませてそっぽを向く茂。

……なんだか今までの湿った気持ちがバカらしく感じてしまって思わずふっと笑った。


「まったく…まぁ、カラオケはしないなぁ。」


テスト勉強もあるし。それに……


「今日もちょっと用あるから、今度にしよう。」


「またかぁ…いっそがしいね、あっきー。」


茂は肩を落として、溜息を吐く。残念そうな顔になったと思ったら、すぐに何かを思いついたかのような表情にすり替わった。


「じゃあ、ゴールデンウィークで埋め合わせしろ!ずっと遊んでくれなかった分、きっちり付き合ってもらうからな!」


腰に手を当てて強く言い切る茂。その姿勢から、ノーという単語を受け付けないと言わんばかりの空気を漂わせていた。

ずっと断ってきたから、ゴールデンウィークぐらいYesと言って答えてやってもいいんだよな。


乾いた笑いで肩をすくめた。


「はいはい、カラオケでもなんでも付き合うからな。」


「よろしい!」


満足げにうなずくと、俺たちは教室を出ることにした。

下駄箱の方の廊下につくところ、俺たちは別れた。


気がつけば、先まで冷えていた指先に感覚が戻った。

重りがかかった肩も大分軽く感じた。

吸い込む息も、スッと通る。


……茂って、いつもこうだ。何かあれば、気持ちを落ち着かせる才能があるんだよな。

そういえば、茉奈姉がそんなことを言っていた気がする…

ふと昔、相川家の休日を思い出す。


茉奈姉がソファで茂を後ろからぬいぐるみのように抱いていた。

顔を茂の髪に埋めながら、笑って言っていた。

『茂を抱いていると、もう全部どうでもよくなるよねぇ…!』


……ハグとかの感想までは共感しないが、今ならその意味を少し理解できる気がする。

笑っている二人の記憶の映像に、くすぐったさと、胸の奥に小さな痛みが同時に残った。


……茉奈姉……今度ちゃんと、また会いに行かなきゃ…


気を取り直して、次は島村の教室へ向かった。

指先がまた冷えない内に、やや速足になりながら呼吸をどうにか整えようと深呼吸をした。


……よし…!


***


島村の教室に近づくにつれ、鼓動が速まったいた。

教室の前に来ると、扉がいつもより大きく見えた。


緊張のあまり、変に錯覚するようになってしまったかもしれない…

扉の前で一呼吸を取りながら、島村にかける言葉を脳内再生しながら選び取る。


爽やかに…やあ、島村!昨日ぶりだね!

…却下だな…これだとあのキスのことを直に掘り起こして気まずくなるに違いない。

しかも、変に気にしないのもあれだし…


少し冷静に…あ、島村。ちょうど帰るところだから、話しながら一緒に帰らないか?

……なんだろう、ナンパしているような気がしてならない…没。


やっぱりちょっと渋って…島村、探してたよ…その、先週の約束があったじゃないか?

……いや、なんか昨日のことを無視しているようでダメな気がする。


眉間に皺を寄せていたとき、扉が開いた。

見上げると島村は鼻筋をつまんで溜息を吐いていた。

俺が前にいることに気づかず、そのままぶつかってきた。


「っ?!」

「おっと」


島村は一瞬ぼーっとしているように下を見てからゆっくり顔をあげる。


「あら、ごめんなさい。考え事していま…して…」


ーー俺と目が合った途端、見開いていた。


頬は、ほんのり赤く染まりつつあった。


「……えっと…」


その表情に、俺も言葉を失った。


思考を取り戻す隙も与えず、島村は踵を返してスッと廊下を歩き始めた。


「あ、島村!待って!」


咄嗟に出る行動に、思わず彼女を呼び止める。

追いかけるように小走りで島村の後ろに続く。

島村は振り返らず、肩越しに揺れる声で俺に言葉を投げた。


「お、お手洗い…!」


「あ…じゃあ、待つから!」


また何も考えずに口が先に動いてしまった。

言葉を発した後に、自分が何を言ったか理解する。熱が頬をじわじわとのぼってくる。


トイレに行く女の子を待つって、何言いだしてんだ、俺は?!

俺、変態みたいじゃないか!


トイレ前につくと、島村はスッとその中に消えていった。

取り残された俺は、そのまま突っ立ってしまっていた。


幸い、周りには誰もいないが、それでも気まずさのあまり足が揺れる。


帰ろうかとも思うほどだった。

…しかし、俺はその気持ちを抑え込んで、壁に背もたれるように身を預けた。

そこにとどまるように、また一息を吐く。


島村のあの態度と行動は……やはり昨日のことを気にしているのだろう……

あれを放っておけば…よくない気がする。


それに…俺の”あの問題”…EDの話に付き添ってくれた人は、島村しかいない……

この悩みを解決できるかもしれないと思うと、どうしても彼女を失いたくない。


……何より、あの人も友達だ。

一年しかないとは言え、授業と勉強会を一緒にしたり、外で遊んだりもしてた。

三門と茂とも一緒に四人で近くの祭りを歩き回ってた記憶が一度目に浮かぶ。


三門と俺は射的で変にいがみ合って景品を取る競争をしていた。的をそもそも当てていない俺を、腹を抱えて笑う茂が俺の横に、クスッとなりながら俺たち二人を応援してくれている島村は三門の横に並んでいた。


あの居心地いい雰囲気とは…別れたくない…


だから、この関係を何とか修復したい。


思い出に浸る俺は、風に揺れる窓の音に現実に引き戻された。

それと同時に、洗面台の水が流れる音も耳に響く。


緊張がまた俺を駆り立てるように耳に脈音が打つ。

背中を壁が離すタイミングに島村はトイレから出てきた。


俺がトイレの前で待っていたことに気づくと、彼女は引きつった顔になる。


そして俺は、なんとか笑顔を見せようと口を広げてみた。

……ぎこちない感覚から察すれば、変な感じになっていただろう…


しばらく空気が凍るように物音が静まり返った。

それに耐えれず、俺は口を開けた。


「…あ、あはは…や、やあ……」


島村は黙り込んで顔を下に向ける。

表情は見えなくても、耳元が赤くなっていくことが彼女の気持ちを語ってくれた。

そのおかげで、昨日の唇の温かさが頬に再びよみがえる。


…ダメ!落ち着け、俺!しっかりしないと、ずっとこのままになっちゃうぞ!


頭を振って何とか心を落ち着かせようとしていると、島村から小さな声が揺れながら俺の耳に届く。


「…っ、で…ど、どうしたのかしら…?」


目は合うことがなかった。

彼女の手は横で拳に握りしまっていく。


芝目ほどではなかったが…今にも逃げ出しそうに足は揺れていた。


気まずさマックス…

思わず頬を掻いてしまう。だが、ここで引き去るわけにはいかない。

飲み込んで、できる限り自然な声で話してみた。


「あ、えっと…その…き、昨日のことは……」


言いかけて、途切れてしまった。

言葉が喉につまり、目が天井と床を行き来する。


……どんな話をしたかったっけ…?


島村をチラチラ見ると、彼女も何とも言えないようでずっと床を見ていた。


お互いの間にある空気は、凍てつくように寒く感じる。


この状況に、俺は奥歯が痛くなるほどに食いしばった。

いつも冷静だった島村がこんな風になったのは俺が原因だって言うのに…その責任を持って話すことすらできない。


……触れずに話すのは、ダメなんだな。


彼女は俺に素直な気持ちをぶつけてくれた。

だから、それをちゃんと認めることから始めるべきだろう。


吸い込んで、硬くなった口をこじ開けた。


「…ごめん、島村…」


俺が選んだ言葉に、彼女は息を呑んで肩を震わせた。


ちゃんと、言い続けないと。


「その、好意は……嬉しいよ。」


「……ええ。」


小さく、弱々しい頷きを見せる島村は声が割れているように聞こえた。


向き合うことが大事なのはもうわかり切ったこと。

だから、彼女は正直に俺に接してくれているなら、俺もちゃんと正面に立って接するべきだ。


「……でも、俺は…芝目のことが気になる…いや、たぶん…じゃなくて、好きだ…と、思う…」


変に恥ずかしくなる気持ちのせいで言葉を思わず濁してしまう。

それに対して、島村はふっと鼻で笑った。


「……素直にまだなれてないのね…」


「ま、まあ…一応、頑張ってるつもり。」


二人はタイミングが重なるように溜息が漏れる。

それが灯りのようで、凍てついていた空気が何段か溶け始めているように感じた。


少しだけ口が軽くなった。

また凍ってしまう前に、俺は続けた。


「だから、さ…今は、応えられないんだ。」


「…ええ、わかっている。」


言いながらも、彼女の肩は落ちていくのが見えた。

思えば、ちゃんと言葉にして振ったのは、これが初めてだった。


あの日の物置部屋は、何も言わずに雰囲気でそうなっただけだった。

だから、変な感覚はお互いに残っていたのかもしれない。


今になって、ようやくその事実に気づく。


しばらく続いた沈黙を破ったのは島村だった。


「…私こそ、ごめんなさい。昨日は、本当にひどいことをしたと思っているの…他に好きな人がいるというのに、あんなことをして…」


言葉の最後に声がかすれて消えていく。


「…あの、もう気にしていないから、そこまで悪く思わないでくれ…」


「…はい」


言い終えると、廊下の明かりが低い音を立てて点く。


物音がしない空間は、少しだけ俺たちを優しく見守っているようにも感じた。


二人だけの世界を作って、未処理になったままの気持ちをここでちゃんと話し合って整理するように、黙ってくれているようだった。


しばらく流れて、島村は咳払いしてから顔を少しだけ上げる。


「…ありがとう、坂田。話はこれで、もうよかったかしら?」


目はまだ合わないままだった。

しかし、今は少しでも今までの冷静な島村の色が戻った気がした。


頷きかけて、別の話があることに気づくと言葉を飲み込む。

今度はまた別の理由で、背筋に冷や汗が滲む。


だが、これもちゃんと話をしなければ…マジでよくない…


プライドを捨てよ……


大きく吸い込んで、俺は力の限り言葉を絞り出す。


「……せ、先週の話さ…”あれ”…その……俺の尊厳…」


ダメだぁ…うまく出て来ないやぁ…


泣きそうになって口をパクパク動かしていると、島村は小さく声をあげた。


「……ああ、そうだったわ。ごめんなさい。」


申し訳なさそうな顔になり、ようやく目を合わせられるようになった島村。

次の瞬間には表情を整え、顎に手を添えて考える仕草に変わる。

雰囲気は、もはや医者に似ている。


島村は、やはりこうでなくちゃ。


「今週中、って私が言ったわね…」


「はい…」


びくびくと島村の左眉が動く。

なんだか、考える仕草は三門に似ている。


そんなことを思ったとき、島村は溜息を吐いた。


「言っておいて申し訳ないけど、ちょっと今週中は…難しいわね。」


「うん。」


あんな話をしたばかりだし、完全に切り替えるのはさすがに無理だろう。

俺だって仮に保健室に行って診察します!ってなっても、ぎこちなくてまともにできない気がする。


島村は顎から手を離して、目を俺に戻す。

染まった頬は、少しだけ滲んでいることに気づく。

それでも彼女は、まっすぐに俺に応えてくれる。


「予定を確認しないといけないけど、一旦来週に決めよう。」


「日付を?」


「そう。」


診察自体はまだ先だけど、少なくともこれで進むことができそうではある。

それさえわかれば、胸の重りが一つ外れた気がした。


なんとか笑ってみせる。


島村は同じように、どこか申し訳なさが含んだ笑みになってくれた。


「ありがとう。無理強いしないから、まあ…いつでも」


「はい、どういたしまして。ちゃんと、忘れないようにしましょう。」

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