戦果報告
朝は、不思議なほどに清々しかった。
昨日の生徒会室で見た意外な進展が、まだ胸に残っていたからだ。
芝目は、震えながらも言葉を紡いでくれた。
それどころか、俺に残ってほしいとまで言ってくれた
あの後、彼女の肩の震えが少しずつ収まっていくのを三十分ほど見守った。
さすがに遅くなりすぎるのはまずかったし、先生にも怪しまれてしまうから、切り上げた。
別れ際、芝目が述べてくれた気持ちが、頭から離れなかった。
『…あの…坂田さん……ありがとう、ございました……』
目が合うことはなかったけど、かすれていた声は少しだけ途切れなくなっていた。
肩も、最初に比べて大分落ち着いていた。
夜更けまでその光景が胸をくすぐり続け、寝付いたのは午前二時近く。
それでも、朝は妙に爽やかで、まるでいい夢を見ていたかのような気分だった。
登校した俺に、茂が月曜のだるさから抜けていくらか元気になっていた。
彼の有り余る元気な挨拶にさえ、張り合えるほどに絶好調だった。
「おはよー、あっきー!」
「よっ!茂!」
思わず笑顔で返すと、茂がきょとんと目を丸くする。
俺の様子が違ったことに、すぐに気づいた。
茂の口元が広がっていき、いつもの調子でからかってくる。
「へっへ~ん?なんかいいことあったんだな~?」
それには何の苛立ちも湧かず、むしろ胸の奥が誇らしくすら感じられた。
「そなたのご想像にお任せします」
「敬語合わなさすぎてウケる」
肩が軽かった。
茂との何気ない会話も、なんだかいつもよりも楽しく感じていた。
春の風が窓から吹き込み、頬をやさしく撫でていく。
クラスメイトたちの談笑が広がる教室で、俺の胸は踊るばかりだった。
一つだけ気がかりと言えば、芝目がこの感情を共有してくれているのかがわからなかった。
楽になった様子は心からよかったと思っているけど、あの時の芝目が、今どんな気持ちでいるのか。
少しぐらい、人に慣れてくれたのだろうか。
……俺に、慣れてくれたのだろうか。
そう思った途端、にやけた口元がゆるみ、代わりに胸の奥がざわつき出した。
これからどうしようか…また島村に仕事を当ててもらうように話に行くべきか。
どう動くべきかを考えかけた時、教室の扉が開いた。
背を丸めて入ってきたのは――彼女。
その姿を目にした途端、教室のざわめきが耳から遠のいた。
みんなが気にせず楽しくしゃべっているなか、彼女はゆっくりと席へ歩きだす。途中、ふと顔をあげてこちらをみた。
視線が重なった瞬間、心臓が大きく跳ねた。
何だろう、この緊張は…
「お、芝目さん来たね~」
茂がニヤニヤと俺を膝でつついてくる。
俺は咄嗟に芝目に手をあげてみた。
芝目は数歩ののち、迷いを振り切るようにこちらへ歩いてくる。
足音が近づくたび、呼吸が浅くなった。
その光景に一瞬考えは途絶えてしまった。
芝目が俺の席の前に立ち止まり、俺と茂はしばらく黙り込んだ。
……え、なに…?
震える声で、芝目が言った。
「……お、おはよう。き、昨日は……ありがとう、坂田さん……」
頭を下げた芝目の顔は強張っていたが、声はかすれていても途切れなかった。
初めてのーー彼女からの挨拶だ。
思考が真っ白になったあと、一気に熱がこみ上げる。
挨拶……そう!返さないと!
「あ、あ!いえいえ、大したことないんだ、芝目さん!えっと…おはよう。」
笑顔を作ろうとしたが、作り方を忘れていた。
どんな顔になったのかがわからなかったが、どうも口元が変にぎこちなかった。
それに対して、芝目はただ頷いて、すぐに自分の席へ行こうとする。
去り際に、小さな声でまた一言だけ残した。
「…また…よろしく…お願いします……」
言い終えるや否や、駆け込むように慌ただしく席に身を沈める。カバンを下すと、顔を腕に埋めた。
その仕草に、俺はただただ固まった。
察して黙っていた茂はしばらく同じ方向を見ると、ゆっくり俺をじろりと目を合わせた。
見開いて、口もぱかっと開いていた。
「……やるじゃないか、あっきー…」
からかいの色が一切なく、その言葉が耳に届いた途端、顔が熱を帯び、胸の鼓動は抑えきれなくなっていた。
――芝目さん。俺を信じてくれたんだよな。
その確信めいた思いが心に広がり、顔を隠したくなった。
心に込みあがる熱のせいで、口が言うことを聞いてくれなくなった。
***
何事もない1日、2日経ったあと、島村から連絡が来た。
(この間、”なんでもする”って言ったわよね?ちょっと手伝って。)
帰りのチャイムと同時に、カバンの中でスマホが震えた。島村からのメッセージだった。スマホの通知を目にしたとき、ちょっとだけドキッとしていた。
画面を覗いた茂が、しかめた面になってわざとらしく身を引いた。
「芝目ちゃんが居るってのに……二股野郎…」
「言ってろ、バカ。」
冗談でもきついことがあるよ、まったく。
茂は腹を抱えて笑い出すと、なだめるように俺の肩を軽く叩いた。からかいが過ぎたと感じたようで謝ってくれた。
デコピンするところだけど、今回は大目に見てやろう。
……島村との関係が、少し複雑なものになっているし、あんまり茂を責めることができなかった。
そして別れた後、島村の手伝いに彼女のところへと向かった。
彼女の教室には島村と、数人のクラスメイトが離れて島を作っていた。勉強会だったらしい。
俺がついた時に、島村は荷物をまとめ終えていた。
俺に気づくと、口元を緩めて小さく手を振った。
「早かったわね」
「そ、そうかな?」
二人で教室を後にしている途中、間を埋めるために俺は咄嗟に質問投げる。この子との沈黙が、今はなんだか作りたくなかった。
それは何げない会話だった。
クラスメイトは勤勉な生徒たちらしくて、点数を競い合っているらしい。理科系の楽しみの一環だとか。
そして島村はそこには混じらないのかと聞くと、クスッと彼女は小さく笑った。
性に合わないと、少しだけ湿った声で答えた。
一年の時も独りでいる方が多かった島村の姿が脳裏をよぎり、俺はすぐに納得した。
職員室につくまで、今度は島村が会話の種を提示してくれていた。
茂について、三門について、先週の金曜ロードショー……思いつく限り島村との会話はそのまま途絶えることがなかった。
――沈黙を埋めたいと思っていたのは、俺だけじゃないのかもしれない。
プリントの束を受け取って戻る途中も、会話が続く。
そして、ある名前を、島村が口にした。
そのトーンは、先ほどの弾みのある音色から、ちょっとだけ鎮まっていた。
「そういえば、芝目さんとの仕事はうまくいったのかしら?会計係は感謝していたのよ」
喉奥に唾が引っかかっていた。仕事が順調だったって言えばいいかな…?
それとも…芝目との進歩を言えばよいか…
しばらく冷静に考え込んだ。二人の足音が廊下を響いて鋭く耳をついた。
静かな間が重く感じてきたところ、俺はとりあえず返事をしてみた。
「よ、よかったぁー、あはは…仕分けで迷ったけど、結果オーライだったみたい」
小さく笑った島村に、胸にたまった緊張が何段とほどけた。
けれど、それもつかの間。
「ええ、そうね。でも、私が聞きたいのはそっちじゃないのよ」
俺はまた飲み込んだ。
島村の方を見ると、彼女の顔は隠れていて表情がよく見えなかった。
ふられた相手の惚気話を聞きたいはずもないだろう。
なのに、自分から俺と芝目の関係について聞いてきた。
この状況、なにが正解かよくわかっていない…が、まずは正直に話すことから。
一息を吸い込んで、言葉を選んだ。
「おかげさまで、芝目さんが俺を信じてくれた気がする。」
島村は、小さな声で相槌をして、そのまま無言でいた。続きを待っていたのか、ちらっと俺を一瞥する。
迷いながらも、話すポイントを頭の中で整理してみた。
「…島村が言ったとおりだったよ。なんか、踏み出してる印象が強かった。前よりもちょっとだけ会話に乗ってくれた。」
顔の端に口角が上がったのを見えた。島村が小さく息をついて賞賛の言葉を紡いでくれた。
「……ふふ、そう…よかったわね、坂田。」
いいながら、芝目が俺に残ってほしいと言ってきたときの姿は、頭の中に浮かぶ。
あの時の芝目は、もろさを感じさせながらもどこか決心があった。
あの姿を生徒会室でずっと見守っても、裏にある彼女の考えはわからなかった。
けど、あの日、仕事の話をしていた時に芝目を見てた島村なら、何かわかるのだろうか…
相談するべきか……島村を見ながら口を開けたり閉じたりして悩んだ。
その視線に気づいたか、島村は振り向いて俺に目を合わせた。
「どうしたの?何か気がかりでもあったのかしら?」
島村の教室は、すぐそこ。
二人が扉の横に立ち止まって、しばらく黙り込んでいた。
聞くならば、今がいい…俺にはわからない芝目の心境は、島村なら何か手掛かりを察せるかもしれない。
もしかしたら、彼女を知るための種にもなるかもしれない……
喉元まで言葉が浮き上がるのを感じるーーだが、それを飲み込んだ。
やっぱりこれ以上、芝目の話で悩ませるわけにはいかなかった。
島村は、俺のことを好いているとわかる以上、俺の好きな相手の話をさせるなんて酷いにもほどがある。
もう充分俺を助けてくれた。
後は、俺が自分で何とかするべきだ。
頭を振って、できるだけ自然に話す。
「い、いや、なんでもない。自分で考えるから。」
まっすぐ、島村の目を見て決意を込めた声になった。
そして島村の目は、しばらく俺にとどまり、少しだけ揺れた。
表情が柔らかくなり、同時に目元が滲んでいるようにも見えた。
「……そう…優しいのね。一年もそうだったけれど……」
唐突に言われたことに俺は戸惑い、視線をそらしてしまった。
恥ずかしくなって、思わず頬を掻いた。
なんか、俺の意図が知らずに届いたようだった。
やっぱり、島村って頭がいいんだね。
ふとそう思いながら鼻を鳴らすと、島村が全身で俺を向いた。
「……目、瞑って。さもなければ、ひどいことをしてしまうから…」
一歩、島村は近づく。
その声は、かすれていた。
頬は染まって、目を少し閉じていて、顔を近づける。
その姿勢、その光景に、俺はフリーズしてしまった。
思考も、体も、すべてが停止した。
柔らかい島村の唇が、そのうち俺の頬を触った。
柔らかい島村の唇が、そのうち俺の頬に触れた。
熱がじんわり残り、やがて冷えていく。
呆然と立ち尽くす俺からプリントを取り上げると、島村は振り返らず教室へ入っていった。
一連の動作に、揺れる声で島村はつぶやいた。
「……そんな優しいあなただからこそ、本当に好きなのよ……」
それ以上の言葉はなかった。
何か言葉を出そうと頭を巡らせても、喉がふさがって音にならない。
宙に伸ばしかけた手は、空を切って下りた。
静まり返った廊下に、そよ風が窓を揺らす音だけが耳に届く
教室の扉が閉じても、耳の奥には彼女の『好きなのよ』が残り続けていた。
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