無音の戦場3
最後の授業が終わった時、茂は勢いよく俺の肩を叩いた。
満面の笑みを浮かべながら、「先に帰るね」とだけ言い残して、さっと立ち去った。
「いい報せ、待ってるかんな~!」
なぜわかったかなど、あえて聞かなかった。
どちらかというと、硬直して聞けなかったといった方が正しかった…
深掘りしてこないことにだけ感謝しておこう…それ以上は考えるな。
カバンにノートなどを片付けてから、芝目の席の方を見る。
あの子は、かばんを膝にのせて背中を丸くしていた。
大きく上下する肩は、芝目が深呼吸していることを見せていた。
他のクラスメイト達はぞろぞろと教室を出ていき、俺たち二人だけを部屋に取り残していた。
廊下から漏れてくる喋り声は徐々に遠のいていく。
それが合図のように、芝目の方へ近づいて、生徒会の仕事へ一緒に行こうと誘った。
芝目はちょっとだけ間をおいてから、一緒に行くと返事してくれた。
今日の生徒会室は誰もいないから、鍵がかかっていると島村から聞いた。
まずはその鍵を借りるために、俺たちは職員室へ向かった。
歩いている途中、芝目との歩幅が合わないことにすぐに気づいた。
間の距離は、肩を並べているところからだんだん芝目が後ろへ遅れていく。
俺の歩くスピードが速いのかと思ってペースを落としてみても距離は開けていく一方だった。
窓を見ると、自分の苦笑いが映っていた。
近すぎていたんだね…
そう思ったら、今度は距離が開き過ぎていたのか小走りでまた肩を並べようとした。
けれどそれもつかの間…すぐにまた離れていく。
思わず振り向いて芝目の顔色を伺おうとしたーー
「……っ?!」
俺の視線には、彼女の肩がびくりと跳ねた。目を逸らして、肩が震えだした。
彼女のその表情は、恐怖を語って俺の胸を鋭く刺した。
だけど、その理由がある程度理解していた。
人を怖がっている子だから、当然な行動だろう。
それがわかれば、俺がやるべきことははっきりしていた。
慣れるための場……三門の言葉を思い出しながら、俺が飲み込んだ
芝目が怖くならないように、彼女の気が落ち着く距離をとるべきだ……
口を細めて、また考え込んだ。
無言のまま歩きながら、彼女が落ち着ける距離を探った。芝目がいいと思う歩幅を見つけて、ある程度前に出るところに行ってからペースを固定した。
結果として、たぶん1メートルぐらいの間をあけていた。
……これで少し楽になったくれたら…いいけど…
ーーふとそう思うと、また小走りした足音が耳をくすぐった。
ぼさついた髪の毛が、視界の端に入った。
ちらっとその方を見ると、うつむいたまま今のペースを保っていた。
やや後ろにいるけど、離れないでくれることに、ちょっとだけ口角が上がった。
***
職員室に入って鍵を借りたのは、結局俺一人だった。
緊張したあまりか、職員室の外で芝目は微動だにも動かなくなっていた。
これまで俺と一緒に来たから、彼女が一息をつくことにもなると思って、俺は気にせず一人で入った。
そして問題なく鍵を借りて出たら、芝目は何か言いたそうに口をパクパクと動いていたが、結局目も合わせることなく黙り込んでいた。
無理しなくてもいいのに……内心にそう思っても、口に出すまではなかった。
俺たちはそのまま生徒会室まで歩き、部屋に入った。
書類、機材、机や椅子が几帳面に並べて片付けられていた。生徒会と言えば納得する綺麗な部屋だった。
「……さすが、生徒会って感じだな」
思わずこぼれた言葉に、後ろからついてきた芝目が少し遅れて相槌を返す。
「……そ、そうですね…」
控えめな声音に、ふと俺は資料室の日を思い出した。
あの時も、こんな風に俺が何か話を出せば、端的な返事だけ返ってきた。
ちらりと芝目を見ると、あの時のように彼女は下を向いていた。
あの日のように、気まずい空気になることを心配していた。
三門に相談するほどに、緊張していた。
けれど……不思議と、今はそこまでの冷えを感じなかった。
こうなることを想定したからなのか、心の準備もできていたか…
…それ以上に、今回はやるべきことがはっきりしているのが、今の落ち着きの根源かもしれない。
三門…ありがとうな…
「よし、とりあえず仕事にとりかかろうか。確か、会計係の棚にあるはず…」
張り切った声で、俺は背筋を少し伸ばした。
空気にかまうな…向こうも緊張しているから、俺まで空気を重くしたら、もっと怖がるかもしれない。
自然に接して、自然にふるまう…そのうち、芝目が俺を危険視しなくなるだろう。
その考えが、俺に力を与えてくれた。
棚の方へ向かって、ファイルを探した。
島村の話によると、例の書類は一つのファイルにまとめて保管されていた。
ラベルは、”活動費用申請書(未処理)”…
「…っと……これか。」
大きな文字で書かれたファイルを見つけると、中央にある机に持っていく。話の通り書類が多く、やや重たく感じていた。
さらっと見ると、ホチキスで止められた申請書が20~30式ぐらいあった。
そんなに部活多いのかと一瞬戸惑ったけど、よく見れば活動ごとに申請書が出されていて、同じ部活が2、3枚の申請書を出したらしい。
芝目は机の向かい側からその書類の束を見て、見開いていた。
なんだか、ちょっと骨が折れそうだなと、ふと思った。
「……とりあえず、半分に分けようか?」
「…え…?あ…は、はい……」
俺が軽く数えて、気持ち多めに自分の分の資料を横においた。その残りのものを芝目の方へ。
「確か、活動ごとに分けるから、目的の概要さえわかればいいらしい。文化祭、大会、コンペ…そんな感じで仕分けよう。」
座りながら、軽く笑みを浮かべて見せた。
「……は、はい…」
それには特に変化のない返事だった…けど、肩が震えなくなっていたことだけは見えた。
それだけで、胸のしまりが何段か和らいだ。
そしてしばらく俺たちは、黙々と資料に目を通して、概要に沿って仕分けをしていった。
外から漏れてくるがカラスの鳴き声は、今の静けさを少しだけ揺らしてくれた。
「……最近多いなぁ、カラス。」
「……そ、そうですね…」
会話はほとんどなく、けれど以前のように気まずく感じなかった。
時に、ちょっとびっくりする内容を目にすると軽く吹き出す。
「……野球部の大会意気込み向け温泉旅行って…体育系ってそんなことまでしてるのか…?」
独り事のつもりでつぶやいたが、芝目は少しだけ顔をあげた。
表情はまだ張り詰めていたけど、興味の光がかすかにあった。
「……た、大会…って区分に……なる、のかな…?」
……初めて、パターンから外れた返事だった。
心臓が跳ねそうだったが、それを抑え込んだ。
小さく笑いながら、頭をふった。
「いやいや、旅行って書いてあるしな。……まあ、”会計係判断”ってことにしとくか」
なんだか、にやけて収まらない…
ちらっと芝目の方を見ると、彼女はすぐにまた顔を下に向いた…けど、堪えずに口元が緩んだように見えた。
俺も自然と、緊張がほぐれていく。
確かな進歩に、心が躍りそうになった。
後何回かすれば、もうちょっと会話が進みそうだ…次も何か一緒にできれば、今度はちょっとした会話もできるのかな……
そう思いながら、しばらく作業を着々と進めた。
たまにわからないものがあって、芝目がこっちにスッと渡して小さな声で「わからない」と言ってくる。それらに関しては俺もよくわからず、結局”会計係判断”の山に置いた。
頼られたことに、心をくすぐられたことだけ、頭がいっぱいだった。
ちくたくと時計が環境音になり、そのうち案件の仕分けを終わらせた。
クリアファイルを棚から取り出して、仕分けた資料ごとにそれぞれのファイルに入れた。区分のメモ書きを貼り紙に書いて、表面に書いた。
それも終わると、時計の針は5時を指していた。
「よーしっ!いい仕事したかな…そろそろ帰ろうか。」
晴れた気分を隠し切れず、満面の笑みで背伸びし芝目に言った。
何も言わずにただ席に座っていた芝目は、小さくうなずいた。
その仕草には、ちょっとだけ戸惑っているように見えていた。
なんか忘れたのか?
再びカラスのなき声が漏れてくる。
芝目が何か話してくるのかと思って、しばらく静かに待った。けれど、話し出す仕草も見れず、俺は首を傾げてしまう。
……もう、十分やり取りできたし、また今度話してみるでいいのかな…
椅子を引いて、俺は立ち上がろうとしたーー
「……っ…ま、待ってっ…!」
一瞬、空気の環境音がすべて静まり返った。
硬直した俺は、うつむいている芝目を見る。彼女の肩は、かすかに震えを増していた。
……どうした…?
気になって口を開けようとした…それを遮ろうとするように、芝目は息を吸い込んで続けた。
「……そ、その…変な…お願い…か、かもしれ、ません…ち、ちょっと…残って……ほしい、です…」
途切れ途切れの息遣いながらも、小さな声にはっきりとした意識を込めていた。
息を殺して、言葉だけを並べようとしていたことも感じていた。
表情が見えなくても、芝目の堪えている顔が頭に浮かんだ。
恐怖に蝕まれている顔…
「……どうしたの?」
気づけば口が動いていた。
芝目の言動に違和感を感じた。何かに動かされているのは確かだった…けど、それが何なのかは、俺はにはわからなかった。
俺の問に、芝目はまた肩をすくめた。さらに背中を丸くして、かすれた声になる。
「……む、無理、なら…いいです……」
外の明かりが徐々に消えていった。冷える春の空気は、肌に張り付く。
思考を巡らせても、彼女の意図は組めなかった。
……ただ、胸元にギュっと握りしめている手が、俺を呼んでいる気がした。
だから俺は、応えることにした。
「…いいよ。」
椅子をまた引いて、俺は再び座った。向かい合うように、静かに待った。
彼女が吐息を重く吐いた音は、やけに耳に響いた。
そしてそのまま、しばらく沈黙が続いた。
心臓が、少しだけ速まる。
先までは作業をしていたこともあって、言葉も交わしていた。
今は、話すことを何も見つからなかった。
そのせいで、俺の背筋が少しだけこわばった。
…なに、今の状況…?
答えを探るように芝目を見つめるも、顔は見えなかった。
芝目はあれから一切顔をあげなかった。
片手だけ、胸元に握りしめて、ずっと呼吸を整えようとしているかのように一つ一つ吸い込んでいた。
……今の君は…何を考えているのだろう…
思った言葉を、口にするべきかどうかもわからなかった。
怖いと思っているのか、何かと葛藤しているのか、それともただ単純に寂しがっているのか…
何もかも、わからなかった。
まるで霧の濃い沼地に足を踏み込んだような気分だった。
そんな俺に、ある言葉が、差し伸べる手になっていた
「……怖くない……」
かすかに聞こえる呟き声。
おそらく、芝目が自分自身に言い聞かせている言葉だった。
二人切りの空間にいるこの状況を、怖くないと自分に意識させようとしている…?
(……あの子は……何か踏み出したんだと思う……)
ふと、島村の言葉が脳裏をよぎった。
……恐怖に対抗するための、踏ん張りだったのか…?
人間恐怖心と戦っているってこと…?
酷く人見知りな子と思ってきたけど、今の状況からは、それ以上の何かを感じていた。
その得体のしれない感覚に、背筋に冷や汗が滲む。
こんなにも怖がっているのに……
そしてまた、三門の声が思い浮かぶ。
”慣れの場”
人をビビっているから、慣れようとしている…彼女自身が…
それを、俺は今提供している…その意図は、知らない内に彼女に届いていたのか…?
確信はなかった…けど、頼られた感覚にまた少しだけ鼓動が大きく脈打った。
あの視線、彼女の小さな言葉…
……それらすべてを信じると決めたんだ。
そう思って、再び頭を回転させた。
今度は、彼女を楽にできることにフォーカスを当てた。
今の震えは、距離が近いせいで彼女のスペースを詰めているのかもしれない。
一歩、椅子を引いてみた。
床に擦れる音は、意外にも静寂に包まれた部屋を響き渡った。
それがよかったのか、また一段、芝目の震えが収まっていたように見えた。
そして、ほんのちょっとだけ、芝目は顔をあげた。
視線は合わなかった…けど、ほっとしたように口がかすかに揺れたようだった。
…もうちょっとだけ離れてみよう……
スッと椅子をまた一歩下げようと思ったときーー
「ま、待ってっ……!」
俺はすぐさまそこに固まった。
芝目は胸をなでおろしていた。
「…だ、大丈夫…です……も、もう…ちょっとだけ…」
その言葉は、かすかに揺れているように聞こえた。
やっぱり戦っているのか…
確信までは至らなかったけど、それならば彼女の支えになれば、とことん付き合いたい。
一歩も動かず、俺はそのままにいた。
「…どこにも行かないよ。ここに居ればいいんだよね?」
できるだけ優しく、声を落として言った。
「大丈夫だ、ゆっくりでいいよ。」
芝目の肩は、また揺れ始めた。
先ほどの震えとは、また違って見えた。
少し間だけ、静寂が続いてから、彼女はゆっくりと頷いた。
「…うん…」
声はかすかに割れていた。
その後、すすり泣くような小さな音が耳に届く。
俺はそれに触れないと決めた。
やがて、カラスの鳴き声も消え、静寂だけが残った。
俺はただ、彼女の近くにいる音のない時間を、黙って受け入れた。
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