無音の戦場2

震えを抑え込むよう、ノートを握っている指先に力を入れていた。


深呼吸して、ノートを凝視しながら素数を繰り返し数えていた。51まで数えたら、1からまた数え直す。

弁当も、ろくに口にできずにいた。


(……安全な状況でトラウマ体験に近い場面に直面し、緩和ケアを行う……)


それが、目にとどまっている文だった。

彼女の精神の支えと、理性を根源と言っても過言ではなかった。


今は、それを実現するための状況を作れそうになっているのに……


「……お願いだから…今回だけでいい…いうことを聞いてよ…!」


体に対する懇願。

震える手を止めようと、ギュッと握りしめた。

目も閉じて、歯も食いしばった。


ふと、資料室の坂田阿木の背中がまた思い浮かぶ。


いろいろ話しかけてくれたり、でも無理に押さず。


今までの人たちは懐に付け込むように彼女について質問をしてきたが、彼だけは違っていた。

何も答えれずにいたら、皆はかかわるのをやめた。彼だけは、また話しかけてきてくれた。


距離があるようで、どこか優しさを感じていた。


一つ、息を吐いて、少しだけ震えが収まったように覚えた芝目は、目を開けた。ノートに書き留めた文章をもう一度だけ読んだ。


「……話…聞いてもらえたら…」


思わず口元が動いた。

坂田と資料室で仕事したことがきっかけか、他の人に対しては以前ほどに震えなくなった。恐怖はまだ残っているが、確かに話は何とかできるようになった気がしてきた。


人と関わることも、緩和ケアの一環だろう。

だからこそ、少しずつ――ほんの少しずつ、自分も他人に立ち向かえるようになってきた。


(あの島村さんも、坂田さんも、二人に感謝しないと――今回も坂田と一緒に仕事ができれば、きっとまた少し変われる。)


その考えは頭をよぎって、芝目はノートを閉じた。

一息吸って、弁当箱を閉めて、校舎へ歩き出した。


決意した途端、荒くなった息を整えようとするが、うまくいかない。

指先から冷えが這い上がり、背筋をなぞっていく。


昼休みはそろそろ終わる。


この落ち着きが消える前に…今、行かなきゃ。

足が止まりそうになるたび、視界がわずかに揺れる。


頭に、坂田の背中を思い浮かばせながら、廊下を歩く。

鼓動が早まるのを感じるが、恐怖に呑まれないようにその背中の像にしがみ付く。


…私は治りたい…

今逃せば、きっとずっとこのままだ――それだけは嫌だ!


胸の奥で過去が暴れ狂うのを押し殺し、奥歯を嚙み締めた。


教室への角を曲がって、歩幅がゆっくりになりかけているその時にーー


「「あっ…」」


階段を下りて踊り場から出た坂田にぶつかりそうになった。

二人は声を重ねて、反射的に足を止めた。


芝目は、心臓が破裂しそうなほどの鼓動を打っていた。


思考は、真っ白になった。


***


階段で弁当を食べていたのが、思った以上に恥ずかしかった。壁際に寄って座るも、やはり他の生徒たちも通るところだから、気まずく視線がぶつかったりする。


それを我慢しながら、廊下を何回も確認した。

ある人影が見えたら、即座に弁当をしまって、呼吸を整ってから廊下に出た。


あの子とばったり会うための計算だった。

角を出た瞬間、お互いは足を止めて、思わず出た声がかちあった。


計画通り。


芝目は目を見開いて俺を見つめた。だが、すぐに視線を落とした。

胸元にギュって握りしめている手に僅かな震えが見えた。

俺はそのままその前に立って、何も言えずにいた。


やはり…まだ怖がっている。


ただ、一つだけ確認できたーー彼女はその場を離れようとする仕草はなかった。

今にも走り出しそうな足の揺れが見えていたが、一歩も動かずにいてくれた。

時に踏み込んでそこにとどまろうとさえ見えていた。


先ほどの、芝目の決意の証拠だっただろう。


だから、俺はあえて何も言わなかったのかもしれない。

芝目は頑張っている。それを無下にして言い出すのは避けるべきと思った。

だけどそれと同時に、俺が一歩踏み出して話題を切り出すべきかとも悩んだ。


しばらく廊下を歩いている人たちの話声だけは間を埋めてくれいた。少しだけ、耳に響いていた。


その時、小さく芝目の口元が動いていることに気づく。

声は出ずに、ただ自分に何かを囁いていた。


(…怖くない…)


奥歯がかゆくなる程の言葉だった。

こんなになるまでに芝目が頑張っているのに、なにもできないなんて…


震えている肩を見ながら、ふと思考が動き出した。

……なんでもかんでも無理に頑張る必要はないんだよ。


三門曰、無理に距離を詰めるものではない…だが逆に、無理に彼女に動いてもらう必要もないはず。


俺は心の中にそう告げて、息を吸い込んだ。


「……あのさーー」

「…っ!あ、あのっーー!」


言い出した瞬間、芝目と声も、視線も重なった。

俺の表情もおそらく芝目と同じだったのかもしれない。


少しだけお互いは黙り込んでいたら、また話を譲るように言いかける。


「…さきに、どうぞ」

「…ど、どうぞ……」


声がまた重なった。


芝目は肩をすくめてうつむき、耳がほんのり赤く染まっていた。

その仕草が可笑しくて、俺は小さく息を吐いた。肩の力が少し抜けた。


「……いいですよ、芝目さん。どうぞ。俺、待ちますから。」


自然と口元が緩んでいた。芝目は顔を上げられないまま、小さく頷き、声にならない声で呟いた。


「……し、資料…整理……」


声が途絶えて、芝目の足がまた揺れ始めていた。

今にも走り出しそうだった。


……よく頑張ったよ、芝目さん…


ーー後は、俺に任せてくれ。


できるだけ優しい声で応えてみた。


「島村さんの頼み事、だよね?」


俺はそういうと、芝目さんは顔をあげて、じっと俺を見つめていた。

見開いたその瞳に、できるだけ明るい笑顔を見せた。


……俺は、害のない人だということを示すために。


「俺もちょっとだけ話聞いたんだ。よかったら、俺も手伝わせてもらってもいいかな?」


芝目の瞳が一瞬大きく揺れた。震えは残っているが、少しだけ和らいだように見えた。

目尻に光が滲んでいたが、涙にはならなかった。


芝目はゆっくりと顔を下げて、ゆっくりとうなづいた。


「……う、うん……」


震えていても、その返事は確かに届いた。

それには、胸の奥で、何かがほどけていくようだった。

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