無音の戦場1

登校途中、俺は何度もスマホを見ていた。


島村とは、週末の間に今日のことについて電話で話し合った。

内容は、芝目との仕事についての確認だった。

島村の話によると、いろいろと下準備をしたらしい


土曜日の夜に、島村が言ってくれたことが頭に浮かんだ。


『あなたたち、二人切りになれるように手配しておいたわ。』


あれは、俺が場面について聞いた時の返答だった。


要約すると、仕事の内容は会計の書類仕分けになる。各部活の費用申請に活動目的で仕分けするので、目的がはっきり書いてあれば仕分けが簡単。それ以外は難しくなるので、会計役員に判断してもらえるようにわかりやすいところに一つにまとめる。量が少しでも減ればだいぶ楽になるらしいので、俺と芝目が島村の推薦で招待された。


月曜の放課後は、ちょうど生徒会メンバーが誰もいない時間帯になる――島村曰く、『そこを狙った』とのことだ。男女の生徒が二人切りになることに対する不安が残るだろうと話もあったが、どうやら島村が優等生として信頼されて、役員たちは「島村が言うなら」とOKを出してもらえたらしい。


生徒会室に入るには、職員室から鍵を借りる必要があるけど、それも先生に話を通したとのこと。


『……すごいでしょ、私?』


スマホ越しにでも、島村が話しながら手をピースサインにしていたことがわかった。

その想像に笑いかけたことを堪えて、俺は冗談交じりに返した。


「生徒会書記になった時も思ったけど、お前はすごいよ、島村」


……振った相手にここまで支えられるなんて、俺なんかひどい奴と思ってしまった。


借りの返し、なんかしないとな。


そして、ここまで段取りを整えてくれたことを無駄にしないようにも、俺はその分頑張らないといけない。

逃げちゃいけない、そう思った。


軽い足取りで校門をくぐって、スマホをポケットにしまった。


芝目さんはこっちに話をするかもしれない。それを念頭に置いて、接し方について頭を巡らせていると、教室に着いた。


今日の天気は曇り気味だった。教室内の蛍光灯が妙に眩しく感じた。


芝目の席を見ると、彼女はまだ登校していなかった。

俺の席に行くと、茂はだるそうに自分の机の上にうつ伏せになっていた。


挨拶もだるさに満ちていた。


「おはよー、あっきー」


「はよー。なんだ、老けた顔して」


「だって~月曜日だもーん!週の始まりってだるいじゃん!」


あくびしながら茂が駄々言って、足をバタバタさせていた。


子供かよ。


鼻で笑いながら席に座ると、茂は今度席に回って俺の机に腕と顔を乗せた。


「なぁ、あっきー。いつ遊びに来るのー?」


相川家…か…


「……ん、まぁ…そのうちかな」


茉奈姉の後ろ姿が脳裏をかすめた。

その瞬間、なんだか鼻の奥がツンとした。


「…んもー、またそうやって濁しやがって…茉奈姉が会いたがってるの、お前もよく知ってるだろうに…」


……知ってるよ。

でも――なんでだろ。

行かなきゃって、頭ではわかってるのに。どうしてか、体がその方向に動いてくれない。


茉奈姉は忙しいだろうし、とか。


俺が何も言わなかったことに対して茂はむっと頬を膨らませた。だけどすぐに何かを思いついたように顔色を変えた。


「そういや、今日暇?遊びに行こうぜ!僕、カラオケの腕をあげたんだから、ぼっこぼこにしたるわ!」


だるくなったりテンション高くなったり、忙しいやつだね、この人。


だが、今日の俺には――すでに、決めたことがあった。


まるでタイミングを測ったかのように、教室の扉が開き、芝目が教室の中へ入る。


ほんの一瞬、俺たちは視線が重なった。

芝目はすぐに逸らし、うつむいたまま早足で席に向かった。


「……わるい、今日は用事があるんだ」


芝目の手がギュッとカバンの肩掛けを握りしめたことが、俺の言葉を引き出してくれた。


「えぇー…まじかよー」


あの視線ーーやはり気のせいじゃなかった。


今回、はっきりと、それを確信できた。


島村の言う通り、芝目は動き始めている。


だけど、まだ話しかけてくることに疑問が残る。

あの子は相変わらず俺のことを怖がっているように見えた。


顔をしかめて、どうするべきか、俺はだんだんと悩み始めた。


そのまま一限目のチャイムが鳴った。


***


……どうしよう…


奥歯が痛くなるほど食いしばって、必死に鼓動を抑え込もうとする。

けれど、やっぱり胸の中は、ずっとザワザワしたままだった。


授業の内容なんて、今日も、まったく頭に入ってこない。

気づけば、ノートはまた真っ白だった。いつも通り、ほとんど何も書かれていない。


白いページの端に、小さく書いた一文をずっと見ていた。


”人前だから危険性がない”


そんなこと、頭ではわかっているのに…体が言うことを聞いてくれなかった。


授業の休憩時間ごとに、芝目は坂田の方を一瞥するが、それ以上動けなかった。


今も、その場面に立ってしまっている。


クラスの人たちが楽しそうに話し合っている音が耳に届く。トイレに行こうとしているか、扉が開く音。笑い声の音。

それらすべて、彼女を置き去りにしていた。


芝目は何度もそれに混ざることを想像していた。

女子たちと楽しく最近のはやりについて話し合ったり、お弁当を一緒に食べたり、気になるあの人についてウキウキしたり。


今の芝目には、遠い世界のようにも思ってしまった。


坂田の席に近づいて、話しかける自分を想像する。

でも、それすら……白昼夢のように、叶わない気がしてしまった。


次の時限が終わると、昼休みになる。


なんとか動き出すための力を振り絞らないと、このままでは今日が終わってしまう。

そうなったら、いつになっても話しかけることができないままの自分になる。

そして、過去に囚われたままに、彼女は回復することがない。


その不安に、また顔をしかめた。

深呼吸しながら、頭を腕に埋めた。


こんな自分に、また失望した。

泣きたかった。でも、泣けなかった。

芝目は、ただ悔いるように――静かに身を丸めた。


それをかき消すように、次のチャイムが鳴った。


***


4時限目の最中、先生の声は耳に入っているはずなのに、意味はほとんど頭をすり抜けていった。

意識はずっと、ある背中に引っ張られていた。


芝目は休憩時間ごとにうっすらとこっちを見ていた気がしたが、それ以上動く気配はなかった。


視線を感じる度に、俺は飲み込んだ。来るかって期待に駆られて鼓動は跳ねるが、なにもなくチャイムが鳴ると緊張がまた走る。


その緊張のせいで、授業の内容はなかなかに頭に入らなかった。


待った方がいいのか、それともやっぱり俺から話かけたほうがいいか…悩みに悩んで、俺も一歩動けなかった。


何度か頭の中で想像してみたけど、芝目が俺に怯えて逃げていく未来しか見えなかった。


席まで行って声をかけると、小さく笑ってくれる芝目を想像を作り上げた。

でも、それはすぐに別の映像に塗り替えられる。

俺に怯えて、目を合わせず、背中を向けて逃げていく芝目。


島村の話で、芝目は勇気を振り絞ったと言っていたけど……もし俺の場合では違ったらと思うと、なんだか腰が抜けてしまった。怖いと思っているのは、芝目だけじゃなかったかもしれない。


視線も、彼女の声も、何度かあったのにもかかわらず…足元がスッと冷えた。


「……もうあと5分なんで、後は宿題で覚えてください」


教室内にクラスメイト達の萎える声がところどころ聞こえてくる。前の席の茂も同じ立った。プリントを渡されて来るも、体だけは勝手に動いていた。


頭と体は分裂していたかのようにも感じてしまった。


それが、プリントを回してくれた茂に気づかれたらしい。


「あっきー?」


「…んっ?あ、いや…どうした?」


気になった様子の顔を向けてくる茂がしばらく俺を見ていた。何か言いたげそうだったけど、俺はただ口を広げて見せた。自分でもわかるぐらいにぎこちない笑みだった。


茂はそれに対して小さく笑った。


「なに、変な顔」


次第に昼休みのチャイムが鳴った。

委員長に続いて先生への挨拶をして、また芝目の方を見ていた。


彼女は俯いたまま背中を丸くしていた。少しだけ、肩が震えているように見えていた。


……怖がっていたのか…


回りの音が遠く消えていった。目の先には独りで抱え込んでいる芝目の後ろ姿。

そして俺は、周りの雑音に紛れて、ただそこで座っていた。


……俺は、なにをしようとしていたっけ…?


思考が停止しているうちに、芝目は弁当箱をカバンから取り出し、速足で教室を出ていった。


その背中を目で追いながら、俺は重い息を吐きながら席にもたれていった。

何もしていないのに…なぜかずっと走ってきたかのように足も肩も重く感じた。


自分に対する気持ちは、じわじわと棘を生えていた。


「飯、どうする?」


茂が話しかけてくれたおかげで、現実に引き戻された。

彼の方を見ると、茂は弁当箱を取り出していた。


昼の話か…


「…あー、ごめん…また考えこんじゃってさ…」


俺も弁当箱をカバンから取り出そうしたとき、茂は遮るように俺に言った。


「いいの?」


何を言っているのかって顔になっていたのか、茂はそれにこたえるように続けた。

目は、まっすぐに俺を見ていた。


「芝目さんのこと、気になってんだろ?いいの?行っちゃうよ?」


茂の声は、からかいの色がなかった。


その問いは、俺のどこかをひっかけていた。

ふと、芝目さんの声が頭の中に響いた。資料室の前の「ありがとう」。廊下で声かけた時の「おはよう」。


口がたるんでいたのを感じた。それがおかしかったか、茂は小さく笑って、俺の背中を押してくれた。


「せっかく話そうって思ってんだから、行かないと今後もまたチキっちゃうよ~」


(『ーー二人切りになれるように手配しておいたわ。』)


歯を見せて笑っている茂の言葉と重なるように島村の声が脳裏をよぎった。


……逃げられないんだった。


……いや、逃げたらみんなに失礼だ。

ここまで準備をしてもらったし、相談も乗ってくれた。俺がしっかり動かなければいつまでもチキンっていじられる。

自分自身も、そうするだろう。


指先が冷えるが、痺れる前に握りしめた。


「……チキってねぇよ…!」


弁当箱をカバンから取り出しながらそれだけ言って、茂の肩を軽く叩いた。背後から茂の「がんばれ~」が俺を見送っていた。


そしてしばらく、芝目を探した。


購買、踊り場、中庭。


彼女が行きそうな場所をしらみつぶしに探していた。

昼休み、芝目はいつも教室を出て、どこか一人で弁当を食べていただろう。


……トイレだけではないことを願うしかないんだな…


それ以外、校舎に見当たらず、外に出た。


春の風が少し冷たく吹いていた。


この時間に他の人たちがあまり行かない場所と言えば、一つだけ心当たりがあった。

おそらく芝目は、そこに行ったのだろう。


春風に導かれたかのようにその方面を見るとーー


芝目の後ろ姿があった。

背中を丸くして、ゆっくり校舎裏へ曲がった。


……ここまで来たんだ。

島村にも助かられ、三門にも話を聞いてもらって、茂にすら背中を押してもらった。


芝目が怖がる映像が、また頭に浮かぶ。

それを抑え込むように歯を食いしばった。


鼓動が速まった。

耳にはドックンドックンと脈音が響いていた。

一歩一歩運んでいる足は、やけに重く感じた。


角がすぐそこにあるところまでつくと、また足元が冷える。その角を曲がれば、芝目はそこにいる。


息を整えて、恐る恐る角から覗く。


古びたベンチに座る芝目が、半分食べた弁当の横で手帳を開いていた。

その唇が、小さく動いた。


「……怖くない…」


パチンと目を瞬き、再び曲がった先を覗いた。

今のは、間違いなく芝目の声だった。


小さく、かすれていた声色に震えを感じた。


「……話す…だけ……怖くない…」


それは自分に言い聞かせる声で、震えていた。指先は手帳の端を握りしめ、白くなっていた。


ーーあの子は…勇気を振り絞ろうとしていた。

島村の言った通りだった。


壁に背中を預けて、静かに耳を澄ましてみた。


風に揺られる木々に芝目の吐息が紛れていた。


「……今日だけでいいから……いうこと…聞いてっ…!」


……俺が出るのは、よくないのかも。


そう思って、俺は音を立てないように、校舎の方へ戻ることにした。


何がそこまで彼女を押していたのかがわからない。

けど、芝目は頑張って、心にある抵抗と戦っていた。それだけは、はっきりわかった。

それならば、俺が話かけるのが、彼女の頑張りを台無しにしてしまうかもしれない。


……とはいえ、あの感じからすると、たぶん芝目が自分から出るのが難しいだろうし、それを期待するのが酷にさえ感じてしまった。


廊下を歩きながら、俺はどうすればいいか頭を巡らせた。


そしてトイレ前を通ると、春休み明け初日のことを思い出した。


……あれなら、やってみてもいいかも…

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