前夜祭
学校の帰り道、俺は何回もスマホの画面をちらっと見る。
”生徒会の仕事あった。芝目さんにも話したので、そのうち彼女からそちらに行くかも”
……読み間違いなんかじゃない……
島村が芝目に話をつけてたことにも驚きだけど、
そもそもの話、芝目が自分から話してくるってどういうことだ。
二人で資料室の資料整理をしていた日の場面が脳裏をよぎる。会話できなかったどころか、視線が合うことすらなかった。
嘘か真か、それとも俺は今夢を見ているのか。頬をつねっても目覚めなかった。
半分嬉しさのあまり飛び出しそうだったが、半分はなにかの前兆に感じてしまった。
不思議でならない……
……どのみち、島村にどういう経緯だったのか確認するのは、家に着いてからだ。
そう思いながら、家の玄関を開けた。
その瞬間、ある声が飛んできた。
「おかえりっ!」
鈴子の声は少し裏返って、跳ねるように響いた。
こんなにテンション高いの、珍しいな……どうしたんだ?
「ただいまー」
俺が言いながら靴を脱ぎ始めたところ、鈴子はダダダッとリビングから走り出て廊下をスライディングするように軌道を変え、駆け寄ってきた。そして飛び込むように俺の腕をつかんで引っ張った。
「はやくはやく!飯はもうできちゃうよ!」
「ちょ、おい!待てって!靴まだ脱いでないんだ!」
キャッキャッと笑いながら引っ張ってきた鈴子は靴なんてどうでもよかったらしい。
慌てて蹴るように脱いで家を上がった。
こんな風に興奮した鈴子はたぶん数回ぐらいしか見たことない。
リビングに入ると、その理由がはっきりわかるようになった。
台所からカレーの匂いが鼻をくすぐる。コンロの前には、エプロン姿の母が鍋をかき混ぜていた。
「おかえり、阿木。もう盛り付け始めるところだから、はやく着替えてきて」
母はこっちを見て、優しい笑顔で言った
俺はしばらく唖然としていた。
キッチンに立つ母の姿を平日の夜に見るのはいつぶりだろう。
共働きでいつも9時をすぎないと帰ってこない母がーー今、6時台の台所にいる。
ふと目の奥にうっすらと隈が見えた。それには一瞬、胸がざわつく。
「……無理、してない?」
思わず口をついて出た声に、母は笑って首をふった。
眉は少し寄っていた。
「たまには早く帰れる日もあるのよ。今夜はご褒美ってことで。二人とも、よく頑張ってるからね」
その声が優しくて、少しだけ安心した。けれど同時に、心のどこかが妙にうずく。
両親を二度も失った。元の両親も、その後の相川家も…片方は事件、もう片方は事故。
どれも俺のせいではないとわかっている……けど…
……いや…だから不安が残っているのかもしれない。
「さ、もうご飯にするから、早く着替えてきなさい」
母はまた笑って言った。
それが合図のように鈴子は今度、俺をリビングから追い出すように押し始めた。
「何してんのよ!ぼーっとしてないで着替えて!」
「お、おう。ごめん!」
部屋にカバンを置いて、シャツに着替えている途中、下から鈴子のウキウキとした声がふわっと部屋に届いた。
そりゃ、嬉しいよな。母だけとは言え、親がいて、今夜は3人そろって食卓を囲む。
週末ならある光景だけど、平日だと特記すべきイベントにすら思えてしまう。
そう考えると、俺も少しだけくすぐったく感じてきた。
急いでリビングに戻ると、鈴子はスプーンとフォークをテーブルに並べていた。
母はご飯を皿に盛って、カレーを載せている。
俺はその母のところへ寄って、皿を受け取るように手を伸ばした。
「ありがとうね。熱いから気を付けて」
頷いて皿をテーブルに運ぶと、鈴子は冷蔵庫からチーズを持ってきた。
「今日は張り切ってんな」
「そう?いつも通りと思うけど?」
鈴子は言いながら、満面な笑みになっていた。
その声の奥に何かが滲んでいた。
衝動に駆られて鈴子の頭をわしゃわしゃと撫でたが、すぐさま手を叩かれた。
ひどいなぁ……なんて言おうとしたけど、つい二人で笑ってしまった。
母が手を洗って食卓に来ると、三人そろってテーブルに座った。
「いただきます」
鈴子が一番乗りのような勢いで言って、母はそのあとに続く。
俺もワンテンポ遅れて声を合わせた。
温かい湯気が立つルーにチーズがとろりと溶ける。
一口、口に運ぶと、安心感を染みらせる味が口の中を広がっていた。
……母さんのカレーだ。
「んんん~!おいひいぃ!!」
「お前が頬張って喋るのはオーケーかよ」
つい意地悪くして鈴子に言った。それに対しては膝蹴りが飛んできた。
そんな睨まないでくれよ…お兄ちゃん怖いよ…
「こらこら、はしゃがないの。」
笑いながら俺たち二人を注意した母。
この光景に、胸が温かくなっていくのをはっきりと感じた。
これが…あと何回できるのだろうか…
その考えを打ち切るように、鈴子は母に話しかけた。
「ねえねえ、聞いて!先生がめっちゃピアノのこと、褒めてくれてたよ!”リュウガク?の相談もしてもいいかも”って!」
「あら、そう……?本当に?そんなに……?」
母は箸を止め、驚いたように目を見開く。
「…メールでも鈴子がとっても上手だと言ってたわよ。本当に…すごいのね。」
そう言われた鈴子はぱぁっと顔を輝かせた。
「えへへ~、もっと頑張って、もっとすごくなるよ!」
にやり顔につられて俺も笑っていた。
時に流れる鈴子のピアノの音色が綺麗だったと思っていたけど、まさかそんなに褒められるほどとは知らなかった。
すごいな、お前。
心の中でそう思いながら、スプーンを口に運んだ。
少しだけ、肩の力が抜けていった。
食べ終えると、鈴子は席から飛び出るように、俺の腕をつかんできた。
「阿木にぃ、ピアノ持ってくるの手伝って!」
「えっ?」
「せっかく母さんが早く帰ってきたから、ピアノを聞いてほしい!」
ぐいぐいと俺を引っ張って立たせようとしている鈴子。母の方を見ると、仕方なそうな優しい笑みで俺を見ていた。
「「お兄ちゃん、疲れてるんじゃない?無理しなくていいのよ」
……正直ちょっと面倒だったけど、断る理由なんてなかった
むしろ、母のために演奏したい気持ちは伝わってきた。
なかなかにない場面なので、今回ぐらいは兄らしく振舞っておこう。
「大丈夫だよ、全然疲れてないし」
俺が立ち上がると、鈴子は小走りに部屋へ向かった。後に続いて部屋にある電子ピアノのコンセントを抜いて、肩にかけて運んだ。気休め程度に鈴子は前から支えていた。
リビングまで運んで、母が片付けてくれたテーブルに置いた。
洗い物は明日にするそうで、母はソファに腰かけた。俺と鈴子でコンセントをさしてセッティングすると、鈴子はピアノの前に座る。しばらく考える仕草をした後、鍵盤に指を置きーー
空気をなだめるような、ゆっくりと、優しい音色を奏で始めた。
よく聞く曲だった。
”蛍の光”
俺と母は、音色に揺られ、そっと目を閉じた。疲れを癒してくれているような音に吐息も軽く流れ出る。
母のために、心を込めて演奏しているのがすぐにわかった。
やっぱり……俺の妹はすごい。
この家では、俺よりしっかりしていて、一番大人らしい子だ。
***
明日は週末になるので、食器洗いは明日でいいと母が言ってくれてた。
鈴子が一曲奏でた後、俺は先に自室に戻った。ピアノの片づけも明日でいい。
ベッドの上に座って、ふとスマホを見た。画面には先までちらちらと見ていたメッセージが浮かんでいた。
そういえば、島村と話したかったんだ。
芝目の件がどうして進んだのか、気になったままだ。
画面操作して、彼女に電話をかけようとボタンに指を浮かせた。
その瞬間、ある光景が脳裏に浮かんでしまった。
暗い部屋の中にシャツに隙間から覗いた肌に、ちらりと輝くピンク……
…だからなんで変なことを思い出すんだよ、おれ!
鼻の付け根を押さえて、暴れそうになった思考を必死に奥に押し込んだ。
深呼吸を取って、羊も数えた。
ラム肉おいしい…
ジンギスカン…
……ふぅ…
参ったな…あの時のことが意外と心に残っていた。
しばらく電話をためらった。
あの日以来、俺たちは二人だけではまだ話していなかった。
気まずいとか意識していなかったが、今思い返すと、どう話をすればいいと少しだけ迷ってしまった。
時計の針の音は俺の鼓動とシンクロしたように部屋に響く。
その音に、資料室のことが頭に浮かんだ。
部屋の向こうにいる芝目の姿とともに。
口を細めて、歯を食いしばった。
もうどうなっていい!
やけくそになって、通話のボタンを勢いよく押した。
ーープルルルル……
……出ないなぁ……
通話音が五回なったころ、切ろうかと思ったタイミングにようやく接続音が鳴った。
『っ……ぅわっ!』
スマホの向こうで何かが倒れる音と、慌てた息遣いが聞こえてきた。
ゴソゴソと音がまたしばらく流れてから、そのうち島村の声が来た。
『…コホンッ……もしもし?』
「今なんかすごい音したけど」
『……気のせいよ…』
硬く断言された。どこか少しだけ、震えているようにも聞こえていた。
聞くべきかと一瞬考えたが、反応的にはあまり何も言わなさそうな気がした。
ちょっと渋ってしまった俺は、本題に切り出すことにした。
「そ、そっか……いや、その。メッセージ、見たよ。」
『……あー、仕事の件ね。内容を聞きたいの?』
島村は隙を見せないと言わんばかりに冷静なトーンで喋っていた。
さっきのテンパり具合がちょっと恥ずかしいんだろうな。
触れないようにして、話を進めた。
「まあ、内容も聞きたいけど…それより、芝目さんに話したって?」
俺がそう尋ねると、しばらく島村は黙り込んだ。
小さく吸い込んだ音が聞こえてから、島村が話し始めた。
「ええ、廊下で見かけてね。帰宅中だったので、なんとなく声をかけてみたの。」
うんと相槌を返して次の言葉を待つ。島村の口調は、少しずつ学者的なものになっていた。
一年の時、勉強について話してたのと同じようなトーンだった。
『……噂と一貫性のないことが、いくつかあったの。声をかけたら逃げ出すとの話だったけど、こっちに向かった返事までした。警戒されないように動いてみたとは言え、彼女は必死にそこにとどまってくれてたの。正直驚いたわ』
よくそれで話しかけようとしたと思ったのと同時に、芝目が逃げ出さなかったことにも俺は唖然としてた。
『あと…仕事について相談してみたら、意外と食いついてきたわよ』
「え?」
言葉が喉で詰まる。資料室での気まずい時間が、ありありと思い出される。
そんな背景に、今、芝目が仕事に食いついたという話が思考を停止させていた。
「……それ、どんな風に話したか、もうちょっと詳しく言ってくれ」
『ええ。最初は、生徒会委員は皆忙しくて、手伝ってくれる人を探してると言った。内容は資料の整理。量が多いので、もう一人頼もうと思っている。そこまで言ったら、芝目の仕草にちょっとした変化があった。』
「変化…?」
『そう。震えがちょっとだけ止んでたの。』
えぇ…?どういうこと?
喉まで困惑がよじ登ってきたところ、島村は付け足した。
『そして…もう一人探そうと言ったら、芝目さんがある人と仕事したことがあったので、その人とやります、って』
「……マジで……?」
『本当よ』
心が跳ねる。喜びと同時に、どうして、という疑問が湧いてくる。
俺のことにしか思えない。
だけど、あれだけ俺のことを警戒していたのに、またそんな場面に自分から行こうとしている。
なぜ…?
「島村は、どう思う?」
『…うーん…』
またしばらく考える時間が流れた。そのうち、島村が口を開く。
『……怖くないと自分に言い聞かせるように呟いてたの。私にしてみれば、あの子は……何か踏み出したんだと思う。芝目さんなりに、勇気を振り絞ってたのね。』
その言葉に、胸の奥がほんのり温かくなるとともに、妙なざわつきがあった。
あれだけ怖がっていたのに、やろうとするものなのか。
そのための勇気を振り絞ったのはなぜか、まだわからなかった。
「そうか……」
『…ねえ、坂田。あなた、あの日……芝目さんに何か言ったの?』
突然の問いかけに、俺は少し戸惑った。資料室の出来事を記憶になかにたどってみたが、特に心当たりはなかった。
「いや……俺、ほとんど何もできなかったよ。話しかけてただけで、あんまり会話がなかった。」
(”慣れるための場”だからさ、無理に距離を詰めるもんじゃないーー信頼は、時間をかければ、自然に築きあがる)
言った途端に三門の言葉がまた脳裏によぎる。
……マジかよ…
『……ふふ。どうやらあなたの鈍感さは、武器になってたのかもしれない。』
「え?それどういうこと?」
島村はまた小さく笑って、説明をしてくれなかった。
『どのみち、あなたとの時間は、彼女の心の中に残ったのかもしれないね。それが何なのかは、知らないけど』
少しだけ顔が熱くなったのを感じた。ごまかすように俺は鼻で笑った。
「……そうだと、嬉しいけどな…」
時計のほうを見ると、23時を示していた。
寝るべき時間だと思ったけど、お互いに切る気配はなかった。
二人でそのまま、静寂の中でしばらく過ごしていた。
だけど気まずさは全くなく、不思議と心地よさを感じた。
その中、島村は何か思い出したかのように話し出した。
『ーーところで、坂田。この間の話、覚えているかしら?』
……何の話?
『勃起不全のこと』
喉に唾を詰まらせて、ひどく咳き込んでしまった。
この子はたまに不意を突いて困る。
なんて話を持ち出したんだ!
『……大丈夫…?』
心配した声色の島村が訪ねてくると、落ち着きを取り戻した。
緊張は残ったけど、少しだけ安心した。
あくまでも、心配してくれていた。
「…あ、ああ、大丈夫。ごめん。」
『いいえ、急な話でこっちこそごめん。』
少しだけ間があいた。今度は気まずさも混ざっていた。
だけど、それを打ち破るように、島村は続けていた。
『まだ、治す話はできていないけど……その気は、あるのよね?』
心が揺らいだように感じた。
治す。
あの日、島村が俺に向かった”何とかしよう”と言ってくれたことを鮮明に覚えている。
俺の口が震えだしたのを感じた。あんまり返事を待たせると、格好がつかない。
「……うん…まぁ、ある……いや、治したい。」
俺なりに断言した。
『そう。それならよかった。』
島村はまるで医者のように淡淡と、でもどこかで優しく話していた。
『まずは状況の整理をしなければならないので、今週中に放課後、保健室で確認をしよう。診察っていうと大げさだけど、まずは洗い出しから』
「……診察って、医者か何かかな?」
『いずれ目指しているのよ。』
そうだったんだね、そういえば。
『原因は何なのかわからない以上、まずは一緒に探さないといけないよね。』
島村も、なんだかすごい人に思えてきた。
生徒会の一員で、成績も優秀なところもすごいけど、
こんな話にまっすぐ話し合ってくれたことが何よりすごいと感じた。
なんだか小さく感じてしまうほどに。
「……助けてくれ、俺の尊厳を」
頬を掻いて言った。
『ふふ、安心して。壊すのは専門外よ』
笑い声がスマホ越しに小さく響いた。
俺の中の不安が、なんだか軽くなった気がした。
「……ありがとう、島村」
『いいのよ、坂田』
あの日と同じ言葉だった。
そうと気づいた途端、俺はベッドに倒れていった。口元が緩んで、島村と同じように笑った。
お互いは少しの間何も言わなかった。切ろうともしなかった。
今このとき、お互いにとってとても居心地のいい時間だったのだろう。
時計は23時30分を示す。
それが合図ととらえ、切るように俺が切り出した。
「また月曜日にな。お休み。」
そう言いだすと、島村は一瞬息を止めてたように聞こえた。
『”お休みコール”』
からかいの色の声で小さく笑った島村。俺は吹いて、また咳き込んでしまった。
『冗談よ。お休み、坂田』
電話が切れると、スマホを耳から離した。
横において、天井を意味もなく見ていた。
瞼をこすって、眠気が来るのを待った。
心臓の鼓動は、2時になるまで、寝ることを許さなかった。
……マジで心臓に悪いよ、あの人……
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