SIDE島村:木影を覗く

「失礼します」


職員室の扉前に出て、島村は中へ向かって一礼し、扉を閉めた。腕には、生徒会のためのプリントを抱えていた。


今日、ちょうど生徒会の業務を刈り取って、芝目と坂田が二人切りに慣れるための場を確保できた。


それを考えると、島村は深く息を吸い込んで、唇を細めた。


すでに決めたこととは言え、やはり彼女には辛い状況だった。


あの人…やはり芝目のことを…


頭を振って、思考を取り戻した。


諦めたと思ったが、やはりまだ感情を抱いてしまっている。理性では、坂田は振り向いてくれないことを理解しても、心はそれを理解しなかった。


だから痛む。


「……面倒ね……」


気持ちを遮るようにつぶやいて、島村は生徒会室の方へ歩き出した。次の行動も、まず考える必要がある。


プリントを生徒会室に置いたら、用事が終わる。その後は帰宅して、坂田に仕事のことを連絡する。寝る前に会話ができれば…


想像に任せて通話しながら寝落ちするところまでのイメージに、口角が上がってしまった。


……はぁ、また変な妄想してる……自分でも引くわ……


心の中、島村はつぶやいて再び頭を振る。もはや病気だろうと自分で感じるようになった。


今のことに目を向こう。そうと自分に言い聞かせて島村は廊下をまっすぐ見た。


目の先に珍しい人を見かけた。


ーー芝目里香。


帰宅しているところだろうか、うつむいたまま廊下を歩いた。目は、碌に手入れの痕跡が見えない髪の毛に隠れて、表情はうまく窺えなかったが、口はたるんでいるように見えた。肩も健気さが全くなく、まるで精力を失ったかのように見えてしまった。


島村は初めて芝目をよく見るのであった。その最初の印象は、彼女がもろいどころか、どこか壊れているとさえ感じた。


……坂田がこの子に振り向いている。


その理由は、島村にはわからなかった。だが、芝目を目の当たりにして初めて思った。


…ほっておけないかも。


ふと、そう感じた途端、ある考えが脳裏をよぎった。


…もし、この子を通じて、坂田ともう少し近づけたら……


抱えているプリントに指の力が入った。坂田のためと思って島村は決意した。


……芝目さんに話かけてみよう。何か、わかるかもしれない。


通り過ぎそうになったところ、芝目の歩幅が少しだけ速くなっていくのを感じた。島村はすぐさま彼女の方を向き、離れかけた芝目に声をかけた。


「あの、すみません、ちょっといいですか?」


「……っ…?!」


ビクッと芝目の肩は小さく跳ねた。そして体が凍り付いたように固まった。


島村はその反応が、どこか気になった。


「……怖くない…大丈夫……怖くない……」


芝目がぽつりとつぶやいた言葉は、静かな廊下にかすかに響いて島村の耳についた。

話を聞く限り、芝目は廊下で声をかけられたらすぐに逃げ出すはずだった。

だけど、今回は足を止めていた。


その一貫性に当てはまらない行動に島村の思考が回りだす。


どこか、彼女の中で変わっているのか?


島村がそう考える間に、芝目は重い吐息を吐いてゆっくりと後ろへ顔だけを向けた。


「……は、はい…」


普段なら自然な反応だったはずなのに、島村が知っている情報を背景にすれば、困惑の種となった。


……冷静さを失うわけにいかない。そう考えると、島村は姿勢を低くして、作り笑顔で芝目の様子を探るようにゆっくり寄った。


そして、柔らかい声で言った。


「あ、すみません。確か、一年のときは一緒のクラスですよね?」


初対面の振りをして、できるだけ芝目に警戒されないように間合いを図った。


芝目は唾を飲み込んで少し顔をあげた。顔をうかがった後、ぺこりとまた頭を下げた。


「……そ、その…ごめん…なさい。あんまり…覚えていなくて……」


「あ、いいえ、気にしないでください。ちょっと顔に見覚えがあって、つい声をかけてしまいました。」


流れるように柔らかい言葉を並べた。

実質、お互いは初対面であることに嘘はなかった。島村もクラスメイトの顔を覚えるのが得意ではなかった。


芝目は姿勢を変えずに俯いたままでいたが、肩の震えがまだ残っていた。


それが見えた島村は低い姿勢を保ちながら、話続けていた。


「私は2年A組の島村って言います。そちらは…芝目さん、で合ってますかね?」


言葉での返事はなかった。芝目はただ小さくうなずいた。


「…よかったです。人違いでしたら恥ずかしいですから。」


芝面の足が、今にも廊下を駆け駆け出しそうにわずかに揺れていた。

時間をかけすぎると、逃げてしまいそうだった。


…理解したいのなら、慎重にしなければならなかった。そう思って、島村は言葉選びに頭を巡らせる。


第1目標は、仕事の手伝いをお願いすること。その次は、なにが坂田を引き付けているかを探る。


冷や汗が額に滲むのを感じながら、島村は横に肩を並べるようにまた近づいてみた。


「……っ…!」


芝目がまたビクッと肩をはねたと思ったとき、島村はピタッと歩を止めた。そこが限界ラインだと認識した。


「…実はですね、生徒会の仕事をしているのですが、書類整理が必要です。他の生徒会委員が忙しくて手が回らない状態です。なので相談に乗ってもらいたいなと思ってですね。」


島村のどの言葉に引っかかった様子か、芝目の震えは少しだけ和らいだように見えた。


「…資料…整理…?」


「え…?あ、はい、そうですね。手伝いが欲しいところですので、声をかけたんですが。無理強いはしません。」


意外な食いつきを見せた芝目に島村は一瞬、言葉を失った。

島村の興味は、その反応にすっかり奪われていた。


お互いが考え込んでいる間、外から空の明かりが徐々に消えていった。


それと同時に、廊下の明かりが小さく音を鳴らして点いた。


「……その…え、っと……量は……」


島村は思わず見開いた。

前向きな返事が返ってきた。

声はかすれていたが、どこか不思議な強さを感じさせた。


それには、島村は口の中を噛んだ。


……なんだか、この子には、私が持っていない何かを感じる…


島村は喉まで上がってきた正体の分からない感情を飲み込んで、冷静に答えた。


「…一人では少し多いですので、もう一人頼もうと思っているところです。友達がいますので、最悪彼にお願いするつもりですが、芝目さんには他に手伝ってくれそうな人がいたら、それでもかまいません。」


芝目はカバンの肩掛けを握りしめた。心当たりは、ある。

むしろ、これが話をするためのきっかけにさえ感じていた。


島村は芝目の心の中を覗くことはできなかったが、手に力が入ったことにだけ気づいた。

しばらく黙ったまま、芝目の返事を待つ。


するとーー


「……だ、大丈夫…です…ク、クラスメイト…います……前…一緒にした…から……その人と、やってみます…」


島村は呆然としていた。

再び、負けたような気持ちを味わった。


坂田と芝目……二人の間には、私の知らない何かがあった。


島村は震えかけている息を抑え込むように飲み込んだ。そして作り笑顔を保って、芝目にうなずいた。


「そうですか。それなら、お任せします。本当にすみませんね、芝目さん。」


芝目は小さくうなずいて、今度こそ足につられるがままに廊下を走りだした。


取り残された島村は、その背中があまりにも輝いているように見えてしまった。


説明までは至らなかったが、話はあとですればよいと思って、島村は踵を返した。


呼吸を一回、二回してから、生徒会室に歩きながらスマホをポケットから取り出した。


坂田に、ぎこちない指先で、短くメッセージを書いて送った。


”生徒会の仕事あった。芝目さんにも話したので、そのうち彼女からそちらに行くかも”


メッセージを送信した途端、ロックをかけた。


暗くなった画面に酷く引きついた表情が島村を見ていた。


……私って…何をしているんだろう…

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