第17話 寅吉の日記

 「ほんで、全部読んだん?」


 葛城先輩が目を見開て悠を見つめる。前回の学食ミーティングから2週間経った昼下がり。


 「ええ、読みましたとも。最初は大変でしたけど、途中から段々慣れてきて…最後の方は割と楽でした。ほんで、これがメモっす」


 悠は葛城先輩から寅吉の日記を預かり、自宅に持ち帰った。その日の晩から、必死で読んだのである。

 

 苦手な漢字とカタカナの混じり合った文章も、どうにか読みこなせるようになった。これなら柳田國男の初版本も軽く読める。郡山先生も悠を絶賛してくれるだろう。曽爾悠は転んでもタダでは起きない男なのだ。


 「エラい、エラい、お利口さんや」と葛城先輩が笑い出した。まるで悠の心の中を見透かしたように。悠はちょっと恥ずかしくなった。


 「この日記は、寅吉さんが15歳で船の乗組員になった時から断続的に始まってますね」


 学校に通っていた時期が短かった寅吉さんは、文字を忘れないために日記をつけていたようです、人柄が忍ばれますね、と悠は補足した。



 寅吉が15歳になった年に乗り込んだ大型和船「浦吉丸」の船主と船頭頭は迷信深く、船霊を大層厚く祀っていた。

 

 「かしき」役の寅吉は、朝昼晩と炊きあがったご飯に味噌汁、作りたてのおかずをまず神棚と船霊に備えるように言われ、忠実にその役目を果たしていた。


 根が真面目な寅吉は、供物を供える度に、神棚では柏手を打ち、船霊に対しては手を合わせて拝みながら、話しかけるようにしていた。船頭から「船霊はオマエと同じくらいの年頃の女性の神様だ」と聞いたからである。


 遠洋航海に出ると、何日も船上で暮らすことになる。男だけの狭い世界で、寅吉は船霊さんの容貌や声を想像するのが楽しみになっていった。ほっそりした巫女姿とか、キネマで観た女優みたいなべっぴんさんなんやろか、妄想に近い想像をしながら、船霊さんに親しげに語りかけてみる。


「船霊さん、おはようさん」


「船霊さん、お腹空いたやろ。今日は少し遅うなってすんません」


「船霊さんはべっぴんさんなんやろな」


「船霊さん、今晩は。夕ご飯のおかずは焼き魚でっせ」


 などなど色々話しかけているうちに、寅吉は仕事の愚痴もこぼすようになった。


「船霊さん、昨日、兄ぃに怒られましてん…」


「船霊さん、ワシもな、大人になったら自分の船が欲しいんや」


 船上の生活は忙しい。かしき役とはいえ、煮炊き以外に船内の掃除や網の補修や魚の仕分け、漁の手伝いなど、仕事は山のようにある。すべての作業をこなして、船室に戻ると、寅吉は気を失うように寝床に倒れ込み、そのまま爆睡する。


 そんな生活を続けていたある晩、寅吉は誰かに起こされた。肩を優しく揺さぶる感覚。


 「寅吉…寅吉…会いに来たで」


 寅吉は夢うつつのまま、うすく瞼を上げる。寅吉の眠る煎餅布団の横に人影が立っていた。目を凝らすとそれは和服姿の若い女性だった。


 寅吉は混乱する。いやいやいやいや…これはまだ夢ん中じゃ。狭い寝室に煎餅布団を敷いて、5人の男が寝泊まりしている。寅吉には一番扉寄りの狭いスペースが与えられていた。朝が早いからだ。扉のすぐそばに若い女が立っている。部屋の奥からは他の男たちの寝息やいびきが聞こえてくる。女の存在に気づいているのは、寅吉だけだった。


 「寅吉…ウチや…」その女はニッコリと笑った。


 「毎日、話しかけてくれておおきに。ウチも寅吉が好きやで」


 寅吉は思わず目をつぶり、両手をげんこつの形にして、思い切り瞼を擦った。それから恐る恐る目を開ける。若い女はまだそこに立っていた。


 「アンタ、明日も早いんやろ。起こしてもうて堪忍な…」


 また来るわ…そう囁いて女の姿が消えた。ほぼ同時に寅吉の隣に寝ていた兄ぃが寝返りを打ち、寅吉の方を向いた。


 それから毎晩、その若い女は寅吉の枕元に現れた。最初は驚きのあまり声も出なかった寅吉だが、徐々に慣れていった。若い女は帆柱に宿る船霊だと名乗った。それ以外に名前はないというので、寅吉は「お玉さん」と呼ぶことにした。


 何人もの人間が雑魚寝をする狭い船室で、長い逢瀬は土台無理な話ではあったが、二人は囁き声で二言三言、他愛のない会話を交わすようになった。今まで姉や妹以外の女性とほとんど話をしたことのない寅吉にとっては、それでも夢心地の経験だった。


 お玉さんは、年の頃17、8に見えた。真っ黒な長い髪を巫女のように後ろでまとめ、黒目がちの大きな瞳以外は、鼻も口もこぶりで、寅吉の育った村の娘の誰よりも美人だった。もう暦の上では秋だというのに、毎晩濃紺の単衣で現れたが、血管が透けて見えるほどに白い肌は着物の色のせいか、さらに白く輝いて見えた。


 お玉さんが寅吉に話しかける時にもその唇はほとんど動かない。にもかかわらず、お玉さんの声は、寅吉にははっきりと伝わってきた。船霊は船になにかあるときは鈴が鳴くような音を出す、と言われているけれど、本当に鈴を転がすような声なんだな、と寅吉は思った。


 「寅吉、ウチも連れてって」


 航海ももう終わりに差し掛かり、あと数日で故郷の港に戻るという夜、お玉さんが唐突に寅吉に哀願してきた。


 「連れてくって…どないして…」


 「帆柱に埋め込まれてる木箱を持ち帰って」

 

 そうしたらウチらずっといっしょにいられる、そう言われても、それは土台無理な頼みであった。かしき役の寅吉には何の権限もないし、道具もない。堂々と持ち帰られるのは、船頭か網元くらいだし、そもそも帆柱から船霊をくり抜いてよいのかどうかも寅吉には分からない。


 「それは…無理や…堪忍な」


 「そうなんか…ほな、またすぐにこの船に乗ってな。絶対に…」お玉さんは一瞬悲しそうな表情を見せたものの、すぐに笑顔を作って見せた。寅吉はお玉の笑顔を見るのが辛かった。


 無事故郷の港に戻って数日、寅吉はジリジリと焦る気持ちを抱えながら、日々を過ごした。お玉との別れが実感を伴ってきたからである。


 「もう、会えないんかな…だいじょうぶや…またあの船に乗ったら会えるんや…」


 船霊は陸に上がれない。船に宿る霊だ。浦吉丸に乗らない限り、再会は叶わない。しかし、いつまで経っても、網元からも船頭からも声がかからなかった。


 おかしい…かしき役として、寅吉は真面目に勤めたつもりだ。きっと次の漁も声がかかるだろう、と寅吉は焦りながらも、その日を心待ちにしていた。しかし、一向に声はかからなかった。


 「浦吉丸なら漁に出てるで」


 そう村人から教えてもらったのは、旧正月が終わってまもなくの頃だった。寅吉は愕然とした。自分には…声がかからなかった。なぜだ。


 「寅吉、お前、なんかしでかしたんか」


 側で話を聞いていた年老いた村人がニヤニヤしながら声をかけてきた。


 「なんか…って、網元がなにか言うとったんか」


 「寅吉はあかん、船に災いをもたらす気や、って網元が言うとったらしいで」


 寅吉はハッとなった。もしかして…知られてた…のか?


 小声とはいえ、大部屋で毎晩のようにお玉と語らっていたのだ。気付いた者もいるだろう。お玉の姿は他の者たちに見えていたのだろうか、声は聞こえていたのだろうか、てっきり自分以外の人間には見えない、聞こえない存在なのだと信じていた自分の迂闊さを恥じた。


 寅吉の疑念は的中し、それ依頼、浦吉丸から声がかかることは二度となかった。しかし、寅吉は寅吉で悩んでばかりもいられない。生きるために必死だった。他の船で働くようになり、10年が過ぎた。


 25歳になった頃、寅吉の働きぶりが目に止まり、当時乗っていた船の網元から婿養子の話が出た。寅吉にも寅吉の家族にも断る理由などなかった。縁談はトントン拍子で進み、寅吉は網元の娘と無事祝言をあげた。



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