第13話 南雲靖久:推論

 コーヒーカップを片手に、熱いコーヒーを一口。

 ミルクと混ざり合った琥珀色の液体が舌を滑り、柔らかな苦味とほのかな酸味をじんわりと広げていく。

 飲み込むと、香りが鼻へと抜けていく。そして後には、ほのかに甘い余韻だけが残った。

 ——さすが高級ホテルのラウンジだ。

 よほど良い豆を使っているのだろう。安物の缶コーヒーみたいな尖った苦味じゃないし、味に芯があって、まさに「整ってる」という言葉がぴったりの一杯だ。

 後味も軽いし、飲んだ後も妙に気分がいい。

 ……まぁその分、財布には優しくないんだけど。



 ソーサーにカップを置き、ふと窓の向こうを眺める。


 ホテルの建物が描く、円の内側。丸く切り取られた中庭には、ライトアップされたガラスのツリーとイルミネーションの動物たちが、白い雪化粧をした姿で光り輝いている。

 雪は止まない。しんしんと降り続け、夜の静けさを際立たせながら、狭い世界を少しずつ白へ塗り替えていく。


 その光景はまるで、誰かがそっと揺らしたスノードームのようで。


 俺は眼差し遠く、ありし日の幻影を見つめていた。



 ——また積もるんだろうか。そんなことをぼうっと考えていると、窓ガラスの反射にラウンジへと入ってくる夏目の姿が映った。

 振り返ると、俺を見つけた夏目が足早にこちらへと向かってくる。俺の対面のシングルソファに腰を下ろし、手に持っていた端末を軽く確認して懐にしまうと、コートの襟元を正して俺に向き合った。

「今、石黒の遺族への対応が終わりました。妻とご両親には、それぞれ事件の可能性が強まったことを再度電話連絡済みです」

「ん、ご苦労さん。……どうだった?」

「……やはり、驚いていたようです。特に奥さんは意味がわかっていない様子で……最後まで、何度も『ウソですよね』と繰り返してました」

「そうか。……両親もか?」

「はい。……母親はおそらく、初動の連絡からずっと泣いていたんでしょう。完全に憔悴した様子で、こちらの報告もまともには届いていないようでした。途中から父親に代わりましたが、毅然としながらも、必死に込み上げるものを押し殺しているようで……」

 そこで言葉を止めると、夏目は口を噤み、無力さを握り潰すように両手を組む。

「……何度やっても辛いものですね。こういう対応は」

 白くなる指先へと、瞳を落として。

 夏目は悲痛を滲ませながらも、決意に顔を上げる。

「ボス。残された遺族のためにも、この件はきちんと終わらせましょう。……事件の全容は、石黒の隠していた罪を暴いて、遺族に追い打ちをかけるものになるかもしれませんが……それが、僕たちの仕事です」

 覚悟を立て、夏目は背筋を伸ばす。その凜とした姿に、俺は大きく頷いて応えた。

「そうだな。俺たちは事件を解き明かすのが仕事だ。そこにどんな事情があろうと、罪を見過ごすことは出来ない」

 そう言い切っておきながらも、俺は捨てきれない情につぶやいた。


 「……辛い役目だけどな」、と。



 俺と夏目は、ほんの少しの間、沈黙していた。夏目がコーヒーを頼み、運ばれてきたカップに砂糖をひと匙加えたところで、ようやく俺たちは事件について語る心構えを整える。


 すっと一口。夏目がコーヒーを飲み込んだところで、俺は話を切り出す。


「……白峯は、おそらく自白するだろうな」


 結論から述べれば、夏目の眉がぴくりと動いた。カップを音もなくソーサーに戻し、夏目は小さく頷く。


「聴取の時のあの様子からして……その可能性が高いでしょうね」



『……コンサートが終わったら、お話があります』


 ——俺たちに背を向け、白峯は言った。


『……聴いて欲しいことがあるんです。私と……石黒さんのことについて』


 震えた声で、それでも背筋を伸ばし——彼女は告げた。


『本当は、今お伝えできればよかったんですが……いま言ってしまったら、コンサートの前に、ピアノが弾けなくなってしまいそうで。だから、すべてが終わったら……ちゃんと全部、話させてください』



 白峯の背中越しに聞いた、『告白の約束』。

 それはおそらく——自白を示唆するものだ。


 俺と夏目は意見を揃えると、今度は互いにカップを手に取った。

 琥珀色の水面を揺らし、コーヒーの香りをくゆらせ、俺は推論を並べ始める。


「……白峯は、すぐに自首をせず、コンサートをやり切ることを選んだ」


 切り出せば、夏目が静かに続く。


「殺してしまったことを、深く後悔しているようですね。ゲネプロの時、ピアノには石黒からもらったというスノードームが置かれていました。……白峯は、石黒の形見のように扱い、『見ていて欲しいと思って』と言っていました。あの言葉は……嘘だと思えません」

「石黒はコンサートにこだわっていた。……いや、正確には、白峯あかりのピアノにこだわっていたというのが正しいかもな。それがわかっていたから白峯は、罪を『一時的に』隠すことを選んだ」

「その目的は……」

「石黒への贖罪のため、だろうな。事件が明るみになって逮捕されればコンサートは中止になる。白峯は、それだけは避けたかった。コンサートは石黒の夢であり、彼への償いだったから」


 ——死体がわざわざ引き上げられ、埋め直された理由。

 それは己の罪を隠すものではなく——コンサートを開催するための『一時的な隠蔽』だった。


 罪を贖うために。

 石黒が眠る中庭に向け、鎮魂の調べを届けるために。


「事件が発覚しなければ、コンサートは問題なく行われると思ったんだろう。ところが運悪く、死体はすぐに発見された」

「白峯にとっては、予想外だったわけですね」

「おそらくな。遺体を隠すと決めたものの、石黒の持ち物まで頭は回らなかったんだろう。そのままにされていた石黒のスマホから白峯の曲が鳴って発見された、なんて皮肉な話だよな」

 ぬるくなりかけたコーヒーを、ぐっと飲み干す。

 熱を失った液体が喉を通り、消えかけた香りは、冷めた推論と共に腹に沈んでいく。


 ——あたたかさなんて、長くは続かない。


 コーヒーも、現実も、真実ってやつも。


「……遺体が見つかり、事件は露呈してしまった。白峯は自首をする前に石黒の夢だったコンサートをやり切ろうとしていたのに、途端に開催が危ぶまれ——」

「コンサートの中止を取り下げるよう、蓮見に訴えた」


 ——「それが……白峯様から『石黒さんのためにもどうしても開催したい』というご要望がありまして、開催の方向で動いているんですよ」。


 蓮見の言葉を思い返す。

 放っておけば中止になりかねなかった興行を、白峯は自ら頭を下げ、開催を懇願した。

 ……彼女の昔の夢でもあったというコンサートだ。自身にも開催に懸ける想いはあったんだろうが……この時の白峯はもう、石黒の夢の実現が一番の目的になっていたんだろうな。


「……ボス。ひとつ聞いてもいいですか」

 一連の流れを辿り終えたところで、夏目がふいに表情を引き締めた。手にしていたカップをソーサーに置きながら、夏目は視線を上げる。

「ボスは……白峯に、殺意はあったと思いますか?」

 改まった口調。それを受け止め、俺は残りのコーヒーと共に飲み下す。

「さぁな。ただ、石黒の部屋への出入りや深夜に自室を出る姿がカメラに残ってること、それに遺体の持ち物をそのまま放置していた点を考えると、計画的な犯行には見えない。あるとすれば衝動か、それとも、ほんの弾みか——」

 

 ふと想像する。

 最上階、スイートルームのバルコニー。

 ルーフの下、真夜中の冬風に吹かれながら向かい合うふたり。

 言い争いの末、衝動的に伸ばした手。

 酔った石黒は突き飛ばされてバランスを崩し、手すりを超え、そのまま——


 そこまで考えて、走り過ぎた思考にブレーキを踏む。

 

「……殺意の証明は、やはり難しそうですね。となると、動機が気になりますね」

「動機についても確証はないが、石黒周りの話、コンサートの準備と詐欺の首謀、そして白峯から語られた石黒とその変化に、見えてくるものはある」

「——白峯のピアノへの強い執着。まるで、信仰とも言えるような」

「ああ。おそらく、そこが引き金だ」


 歪んだ情は、行き過ぎれば常軌を壊す。

 「愛してる」と言いながら、相手の首を絞めることすらある。

 表と裏。愛が裏返り、憎に変わった時、自分も他人も狂わせ——悲劇を生む。


「自覚してたのかしてなかったのかは知らんが、石黒は表立ってそうした感情を見せては来なかったんだろう。だが、それが崩れ始めた」

「白峯の音の変化を察知し、その影に——結城晴真という存在を知った」


 ——結城晴真。

 白峯の想い人であり、おそらく、この事件の引き金のひとつとなった男。

 俺はその存在を浮かべながら、推理を繋ぐ。


「それまで石黒は、白峯は自分のそばにいるのが当たり前だと思っていたんだろう。だが、それがある日突然脅かされた。白峯を詮索した上、職場にまで乗り込んでるんだから、内心は天変地異でも起きたくらいの衝撃だったんだろうよ」

「図書館で結城が白峯と会っている時に現れたというのは、さすがに出来すぎています。……意図的に接触を図ったようにしか思えません」

「そうだな。偶然っていうにはタイミングが良すぎる。はなから当たりをつけてたんだろうな」

 理解を深めると、夏目が忌々しげに眉を寄せた。


 石黒の、支配的な言動の表層化。

 それによって、結城に心を寄せ始めていた白峯は苦しめられていた。

 そしてコンサートという節目の前夜に——すべての歯車は、狂ってしまった。


「……衝動的な殺意があったにせよ、弾みで起きたにせよ、石黒を突き落とした後、白峯はかなり動転したでしょうね」

「おそらくな。防犯カメラなんか気にせず夜中に部屋を出たのは、自分の目で石黒の生死を確認せずにいられなかったんだろう。そして中庭に入った白峯は——死んでいる石黒の姿を、目の当たりにした」


 ——深夜の静寂の下。丸く切り取られた、煌びやかな冬の世界。

 スノードームの内側に似たその窮屈な場所で、彼女は殺めた石黒と——自分の罪と、どんな思いで向かい合ったのだろう。


 自分が壊したものの重さを抱え。


 犯した罪を、雪で覆い。


 悪い夢であってほしいと——ただひとりきりで、願っていたのだろうか。


「……殺してしまったことを知って、自首を考えたものの、白峯は思い直し、コンサートをやり切ることにした」

 推論の冒頭に戻りながら、夏目が事の流れを確かめるようにつぶやく。

「しかし死体が発見され、事件が表面化したことで予定が狂った。コンサートの開催が危ぶまれることもそうですが、それよりも彼女は、自分に疑いが向くだろうことを察したでしょう」

「ああ。捕まればコンサートどころじゃない。富良野警察が現場入りして気が気じゃなかっただろうが……しかし幸いにも、彼女が犯行を行ったという決定的証拠はなかった」

 天が彼女の味方をしたとしか言いようのない、カメラの死角の動線。熊井と牛田の聴取で自分が犯人と断定されていないことを知り、白峯はおそらく考えたのだろう。


 ——コンサートが終わるまで、隠し通せるかもしれない、と。


「……白峯は、事実を隠すことを選んだ」

「そう。それがあの、『コンサートホールにいた』っていうアリバイ証言だ」



『……緊張で、寝付けなくて。気持ちを落ち着けたくて、2時すぎにコンサートホールに行きました。しばらくホールを見たり、ピアノの前に座ったりして……それで部屋に戻ってベッドに入ったのが、3時近くだったと思います』



 あの証言は、真実に嘘が混ぜられていた。

 時間も本当。コンサートホールに行ったのも本当。だが、中庭に入ったという事実だけが伏せられている。


「……ホールを見たり、ピアノの前に座っていたと言ってましたが、本当は中庭に出ていたんですよね。コンサートホールにある、中庭への扉を使って」

 言いながら、夏目は引き継ぎ資料にあった館内図を取り出した。遺体発見現場の中庭を中心とした一階の見取り図が、テーブルに広げられる。

 俺はその図のホールの位置に、トン、と指を置く。

「だがホール内と中庭にカメラはなく、かろうじて中庭が映るホテル内のカメラにも、出入り口や石黒のいた雪山を映すものはなかった」

「そのせいで、僕たちはまだ、白峯の証言の嘘を暴けてはいない……」

 事実が見えていても、そこに辿り着く道がない。

 足りない証拠に唇を噛み、夏目は館内図の端を指で折る。俺はそんなもどかしげな指先を認めながら、上目で夏目の顔を窺う。

 そして、閉ざされた道に、一石を投じる。

「……今のところ、白峯のアリバイを崩すだけの物証がないのは事実だ。だが、いくつかとっかかりはある」

 「わかるか」と目で問うと、夏目が館内図へと目を落とし、深く考え込む。

「……中庭に続くもうひとつの扉には、パスコード式のロックがかかっていました。扉を開けるパスコードは、石黒が知っていた。白峯がそれを伝え聞いていた可能性は十分にあります」

「そうだな。だが、さっき届いた鑑識結果の速報から、中庭に続く扉の内外どちらにも、白峯の指紋はなかったと判明した。これは一見すると、白峯が扉に触れていないように思えるが——どういうことだと思う?」

「……手袋です。あの、白い手袋。外庭で聴取する時にはめていました。コンサートホールに向かう時のカメラに、白峯が厚着をしていた姿が映っていると言ってましたから、おそらく手袋もはめていたでしょう」

 正答を求めるように、夏目が俺を見つめ返す。俺は優秀な答えに唇の端を上げると、図に落とした指で、丸をなぞってみせる。

「そう。またしても白峯は、意図せず証拠を残さなかったわけだ。運が彼女に味方した……といっても、運は運でも、悲運だろうけどな」

 皮肉げに言いながら、俺はソファの背もたれに身を預けた。肘掛けに頬杖をつき、姿勢をラフに崩すと、さらに口を開く。

「ついでに言うと、石黒の胸元にあった繊維片もおそらく、白峯の手袋だろう。鑑識からまだ結果は来ていないが、見た感じ、あの時の手袋と同じ素材だと見て間違いないだろう」

 石黒の胸元にあった残留物——白い繊維片は、石黒を覆うために雪をかき集めた時に紛れたものだろう。保護色なのが災いして、雪が溶け切るまで発見に時間はかかったが、これはさっき熊井と牛田を通じて鑑識に回してある。


 結果が出るのはまだ先だろうが、判明すれば、それは決定的な証拠になるだろう。


「……鑑識の速報、そろそろ来る頃ですね」

 熊井と牛田に繊維片を渡してから約5時間。そろそろ一次分析結果が出てもおかしくない頃だが——そう考えた瞬間、まるで図ったかのように端末が震えた。


『【南雲班宛】富良野死亡事件:繊維片鑑識速報(証拠品024)』


 夏目と同時にメールを開く。

 そこには繊維の太さ、色、素材について明記され、想定される衣類について記載されていた。


 ウール系の天然繊維で、太さは25〜35μm。

 白色系クリーム色で、想定される衣類は——


 冬用コート、マフラー、手袋等。


 記載を確認し、夏目と顔を見合わせる。それは、今まさに考えていた可能性と合致する結果だ。


「マフラーはつけていませんでしたし、コートはライトグレーでしたから、やはり手袋が有力ですね。白峯に提出を求めましょうか」

「そうしたいところだが、もうコンサートの開演が近い。……今詰めれば、動揺を与えるだろう」

 勇んで腰を浮かせた夏目を、俺は目で制する。夏目はその制止に従うと、仕方なくソファに腰を戻し、居住まいを正した。

「……今は、動かないつもりなんですね」

「そもそも残留物が見つかったことを白峯本人は知らない。手袋を処分する危険性は薄いだろう」

 だから急ぐ必要はないと言外に伝えれば、夏目は無言のまま、俺に付き従った。


 ——ふと、時が膠着する。

 夏目はコーヒーを飲み干し、小さなため息を落とす。


「……そうなると、やはり今の段階では、白峯のアリバイを崩すことは不可能なのでしょうか」

「そうだなぁ……ホール側の扉に、出入りの痕跡もなかったようだしな」

 おもむろに富良野警察からの引き継ぎ資料を取り出し、ペラペラとめくる。ホールの扉周辺について、特記事項は何もない。

「本来なら、扉の開閉時に、雪の吹き込みや足元の水濡れがあってもおかしくないですよね」

 ロビー側の扉を開けた瞬間の、吹き込んだ風の強さを思い出す。夏目の言うとおり、雪や濡れた足跡の痕跡が残ってても不思議じゃない。

 ——だが。

「……事件が発覚して、富良野警が初動捜査をする頃には、扉前の床は乾いていた。暖房の効いた室内と扉脇に敷かれていたマットが、水分を吸って乾かしたんだろう」

「……白峯が中庭を出入りしてから捜査が始まるまで、およそ4時間から5時間。その間に、痕跡は消えてしまった……と」

「ああ。中庭に続く扉は確かに使われたはずだが、確実な証拠は残らなかった。中庭にあっただろう足跡も、朝方の大雪に埋もれて消えてしまった。まさに、自然発生の痕跡消失トリックだな」

 おどけて笑ってみせるが、夏目は乗ってこない。俺の方を見ようともせず、真剣に考え込んだまま、視線を窓の外に移す。

「……これでは、八方塞がりですね。大人しく彼女の自白を待つしかないんでしょうか」

 唸るようにこぼし、悔しさを滲ませた夏目の視線がコンサートホールへと向く。

 何気なくその視線を追ってみれば、俺たちの席からはホールの窓ガラス越しに、艶めくグランドピアノと椅子が見えた。



 その光景に——ピンと閃くものがあった。


 角度的に、完全に見通せるわけではないが——


 もしかして、これなら。



 思い立ち、俺は素早くラウンジ内を見渡した。

 知りたいのはカメラの位置。

 俺たちの目線と同じ方向を向いたカメラがあるかどうか。


「ボス、突然キョロキョロしてどうしたんですか」

「……ひとつだけ、崩せるかもしれない証言がある」

 言って、見つける。

 左斜め後方上部。俺がホールへ向けていた視線と同じ角度を録画する、防犯カメラ。

 それを確かめると、俺は低く指示を飛ばす。

「……夏目。カメラの確認だ」

「カメラの確認ですか……?構いませんが、一体何が知りたいんですか?」

 該当のカメラを指すと、説明のない俺に、夏目が疑問を返した。俺はコンサートホールのピアノにもう一度視線を向けながら、白峯の証言を反芻する。

「……コンサートホールに入った白峯は、ホールを眺めたり、ピアノの前に座っていたと言ってたな」

「はい。それは確かです」

「あのカメラの位置からだと、ピアノと椅子が映ってるはずだ。そこに白峯の姿がなかったとしたら——」

「白峯の嘘が、ハッキリするというわけですね」

 説明の終着地点を先取りし、夏目が前のめりに語調を滾らせる。

「急いで確認します」

「ついでに白峯が自室を出る時と、コンサートホールを出入りする時に手袋をしていたかどうかも頼む」

「わかりました。確認が終わり次第報告します」

 短く強い了承を残し、俄然張り切りだした夏目が即座にラウンジを出ていく。走ってるわけでもないのにその足早さといったら、まるで競歩の選手のようだ。

「ホント、真面目というかなんというか……」

 半笑いでぼやきながら、後に残った俺はソファに身を預けたまま、コンサートホールに再び目を向けた。

 開演に向け、ホールは準備に終われるスタッフたちが行き交い。慌ただしさを見せている。

 スポットライトがステージを照らし、その光の中、黒く艶やかに輝くグランドピアノは、今夜の主役でありながらも、孤独に佇んでいた。



 その姿が——ふと、白峯の姿と重なる。



 ——これで白峯の証言の嘘がひとつ崩れたとしても、事件の全てが証明されたわけじゃない。


 どうして、石黒を殺したのか。

 そのすべては、白峯あかりだけが知っている。


 俺たちも証明を続けるが、きっと、コンサートが終わったその時に、彼女の口から何もかもが語られるのだろう。



 俺たちは、その告白を受け——彼女を、逮捕する。



 ——罪は罪。それは大前提であり、確固たる線引きだ。

 罪は裁かれなければいけない。その裁きのために俺たち刑事は罪を証明し、明るみに引き摺り出す。

 ——たとえ、そこにどんな事情があろうとも。



 だが、ひとつだけ。

 彼女の犯した罪の中に、救いは存在するかもしれない。

 彼女が知らないこの事件の一面。

 それを、俺たちは知っている。



 ——石黒の、手作りのスノードーム。



 鑑識結果はまだ出ていないが、俺の予想が正しければ、このスノードームには大きな意味がある。


 もし予想が当たっていたとしたら、それはきっと——彼女の犯した罪の中で、たったひとつの希望の星として残るだろう。



 俺はひとり、祈る思いで瞳を閉じた。


 石黒がスノードームに込めた想い。


 ——それが、白峯あかりの救いになるようにと。

 

 

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