第14話 白峯あかり:弾く手
すべての終わりはやってきた。
「コンサートの成功を祈って……乾杯!」
コンサート前夜。ホテルのバーでのこと。
コンサートの前祝いにと音頭を取った石黒さんは、手にしたカクテルグラスを、私のカクテルグラスへと傾けた。
カチンと、小さな音が鳴って。石黒さんのグラスではギムレットが、私のグラスではホワイトレディが、その薄く白い液体を波立たせた。
「リハお疲れ様。準備は残すところ、明日のゲネプロだけだな。夜には本番だから……いよいよだな、あかり!」
ギムレットをぐいっと煽った石黒さんは、すでに有頂天だった。
そんな彼を横目に曖昧に微笑んで、私はそっとグラスを口にした。
石黒さんが私にと選んだカクテルは、想像していたよりも口当たりが柔らかく、弱いアルコールの味と、爽やかなレモンの味がした。
「明日コンサートがあるから、演奏に影響でちゃ困るだろ?だから弱めに作ってもらったんだ」
見せた気遣いは、私のためではなく、私のピアノのためだった。それがもうわかっていたから、私は諦めたように、小さな礼の言葉だけを口にした。
石黒さんは、富良野入りする前から変わらず、ずっと上機嫌だった。
深夜に誘われやってきた、バーラウンジ、『エトワール』。フランス語で星を意味するそのバーは、ホテルの最上階にあった。
一面ガラス張りの窓の向こうに広がるのは、果ての見えない、凍てつく夜空。冬の空気に澄んだ星が深い闇に散りばめられ、静かに、けれど健気に燃えて瞬いていた。
私はその風景に見惚れながらも——胸に抱えたままの決意を、いつ打ち明けるべきか悩み続けていた。
「明日のコンサートが終わったら、次のコンサートのことも考えないとな。コンサートが成功したら反響もあるだろうし、もっともっと動画も宣伝して、あかりのピアノを広めていこうな!」
眩しい笑顔で、石黒さんが未来を語った。
彼の中では明日のコンサートの成功は決まっていて、すでにその先を——次のコンサートまでを考え、彼はその未来予想図に陶酔しているようだった。
彼の中に、私のピアノの終わりは存在しない。
その無邪気な信頼が——私の喉を締める。
私はずっと、彼の話に合わせるように、相槌だけを打っていた。
彼はそんな私に何も言わなかった。何杯もお酒を煽り、自分が話したいことだけを話し、ひとりで楽しそうに笑っていた。
……大好きだったはずの彼の笑顔は、もう、不思議なくらい空虚で。
あれだけ魅力的に見えていたものが嘘のように色褪せ、心持ちひとつでこんなにも人の見え方は変わるのかと、冷めた自分がどこか遠くを見つめていた。
——ピアノをやめようと思っている。
その一言が、いつまでも出てこなかった。
私は、彼に告白をしようとして言えなかった日のことを思い出し、苦い思い出にそっと唇を噛んでいた。
あの頃から、私は変われていないのだろうか。
言いたいことも言えず、ただ彼に流されるまま、本当の気持ちを貫くこともできず。
そんな意志の弱い自分に情けなさが募り、減らないカクテルの水面を見つめていると——突然、石黒さんがそっと、小さなプレゼントボックスを差し出してきた。
「これ、あかりにプレゼント」
細い金のリボンが結ばれた、白い箱。
目の前に差し出されたそれが何かわからず、私は戸惑いながら彼を見返した。
「プレゼントって……私に?」
「そう。今日ようやく届いたんだ。開けてみて」
彼の視線の圧力を感じ、私はリボンを解いた。
直径15センチほどの箱の中に入っていたのは、鳥の巣のように敷き詰められた紙の緩衝材。
そして、その巣に守られるように——ピアノと雪の結晶が閉じ込められたスノードームが、静かに収まっていた。
「これ……」
「今回のコンサートで売ろうって話してたスノードームだよ。あかりの『雪の音色』をオルゴール曲にして、内蔵したやつ。あかりに一番に受け取って欲しくてさ」
純粋な言葉は、たしかに私のための好意だったのだと思う。
だけど私は、箱に収められ、丸いガラスの中に閉じ込められたピアノが、今の自分と重なって仕方がなかった。
ああ、やっぱり。
私はもう——この人と一緒にはいられない。
囚われるような閉塞感に肌を撫でられ、私は作りきれない笑顔で、それでも「ありがとう」と絞り出した。
——嬉しい、とは言えなかった。
だけどそんな私の心の内なんて石黒さんは気にしていなくて、満ち足りた表情で、ひとりその贈り物に酔いしれていた。
——結局、バーにいる間、私はほとんど黙ったままだった。
このままでは言えないまま、ずるずると引きずってしまう。そう恐れた私は、バーを出た直後に、部屋に戻ろうとする彼を引き留めた。
「……石黒さん。あのね、私……実は、言いたいことがあって」
既視感のあるセリフ。
それはたぶん、彼に告白をしようとしたあの時のセリフだった。
けれどこの時伝えようとしていたのは、あの時とは、真逆の想いで。
震える指を隠しながら、私は、怖々と顔を上げた。
彼は——あの時と同じように、優しく笑っていて。
「改まってどうしたの?あかり」
すっかりお酒が回っていた彼は、赤ら顔いっぱいに笑顔を浮かべていた。これから何を言われるかなんて、想像もついていないのだろう。警戒心もなく、まごつく私に、「じゃあ部屋に寄ってく?」と誘いかけてきた。
……私は悩みながらも、こくりと頷いて。
どうしてもコンサート前にケジメをつけたい。そう奮い立たせながら、招かれるまま石黒さんのスイートルームに足を踏み入れた。
***
最上階のスイートルームは、驚くほど豪華だった。わざわざ彼がグレードアップをしてまで選んだ部屋は広くて、リビングにダイニング、バスルームにはジェットバスまでついていた。
そして——中庭向きの、ルーフ付きのバルコニーも。
「あかりもスイートにすればよかったのに」
そう気軽に言われたけれど、私は、彼に余計なお金を出させたくなかった。
今日までの活動も、コンサートの興行も。私には教えてくれないけれど、多額のお金が使われているのは間違いなくて。だからこそ、これ以上、石黒さんの負担になりたくないと思っていた。
……それに、彼のお金でピアノを続けることは、なんだか……囲われているような気がして。
そんな気持ちもあったから、なおさらピアノをやめたいという意思は、固くなったのだと思う。
私はバルコニーと、バルコニーからの景色を眺めていた。
どう切り出そう。そんな風に迷い続けていると、石黒さんは突然、タバコが吸いたくなったと言い出した。喫煙所に行くのかと思ったら、彼は上着を羽織りだし、バルコニーで吸おうとして。私は「こんなところで吸っていいの?」、なんて口を出したけれど、彼の耳には一切入っていないようだった。
彼の手が、ガラス戸を開け放って。
真冬の風が、真夜中の外気が、あたたかだった部屋に忍び込んで。
内と外の境界を跨いで、石黒さんは——「あかりもおいでよ」と、私を手招きしていていた。
——そして、この時、私は選択を間違えた。
行かなきゃよかったのに——私は、誘われるまま、その境界を超えてしまった。
バルコニーに踏み出した私は、手すりに身を預けながらタバコを吸う彼を、ただ静かに見つめていた。
風のない夜。
空にのぼる彼のタバコの煙は——私の背を押す、狼煙に見えた。
「………………石黒さん」
長い時間をかけ、ようやく彼の名を呼んだ。
彼は何も知らずに振り返って、タバコの火を消し——私を見つめた。
その瞳は真っ直ぐで、でも、その真っ直ぐさが怖くて。
私は恐れに負けそうになりながらも……それでも、勇気を出して言葉を繋いだ。
「私……このコンサートが終わったら……ピアノをやめようと思うの」
ようやく、言えた。
そう思って彼の顔を窺うと、見たこともない驚愕を浮かべ、凍りついたような表情で固まっていた。
「………………は?」
長い間の後、彼の口から、白く冷たい息が散った。
彼は凍りついた表情を溶かし、薄笑いに変えて、私に一歩近寄った。
「何言ってんの、あかり。明日、夢だったコンサートをするんだよ?これからだろ。これから、あかりのピアノが羽ばたいていくんだろ?」
いつもの調子だった。
けれど、その声はどこか歪んで——引き攣っていた。
なにかが、崩壊する兆しを感じて。
思わず私は、半歩、距離を取った。
「……もう、いいの。ピアノは好きだけど……私はもう、弾かなくてもいいって……そう思ってるの」
「いや、よくないって。なんでそうなるの?あかりにとって、ピアノは大事なものなんじゃないの?」
「……大事だったよ。今でも、ピアノを弾くのは好き。でも……私の『大事』は、もう、ピアノだけじゃないの」
そう口にした瞬間、晴真さんの陽だまりのような笑顔が浮かんだ。
でも目の前にいるのは石黒さんで——その顔には、深い影が差していた。
「…………もしかして、結城のこと言ってんの?」
軽い調子の——恐ろしく、低い声。
私はその冷酷さに、思わずびくりと肩を震わせた。
「あかり、もしかして結城に好きとか言われて、浮かれてんの?アイツを好きだとか思ってる?」
「……晴真さんは……関係ないよ」
「嘘だね。関係ないはずないだろ。『晴真さん』なんて呼んでおいて」
言い逃れを塞いで断定した彼は、わざと私に当てつけるように、大きなため息をついてみせた。
私を非難するように。眉間に皺を寄せながら。
「……なんでだよ。あかりはピアノを弾かなきゃダメだろ。あかりは、あかりとオレのためにピアノを弾かなきゃダメだろ」
あかりと、『オレのため』——?
彼の口から本音がこぼれ、透けて見えた気持ちに、私は思わずカッとなって唇を震わせた。
「……っ、私はっ……!もう嫌なの……っ!!」
感情的な声だった。
人生で初めて、心が喉を震わせた。
「石黒さんは、私のピアノしか見てない。ずっと前からそうだった!それが、どれだけ寂しかったか……どれだけ空しかったか……!石黒さんにはわからないんだよ……っ!」
「あかり…………」
「もう嫌なの!辛いの!私は……っ、私を見てくれない石黒さんのそばに居ると、苦しくなるの……っ!!」
全部があふれて、止まらなかった。
今日までの私が、石黒さんと出会ってからの日々に抱えていた思いを手離し、何もかもをぶち撒けた。
すべて、すべて、吐き散らした。
「ずっと好きだったのに……なのに突然結婚して、それでも変わらずに私のそばに居て、優しいことばかり言って!!私はそれで……っ、勝手に、期待し続けて……っ!」
——秘めていた恋も。
「……でも、もうわかったの。石黒さんが好きなのは、私のピアノだけだって。私のことなんてどうでもいいんだって。だから……」
——失ってしまった恋も。
なにもかも、私は吐き捨てた。
「だから……もう、無理です。私はもう、石黒さんについていけない。ついて……いきたくない」
決壊が止まり、津波のような感情は衰えた。
途端に沸いた後悔が語気を弱くしたけれど——それでも、私は私の決意を言い切った。
——だけど。
「……オレが、あかりのピアノだけを好きだって?」
石黒さんは、受け止めなんて、しなかった。
「オレは、あかりが好きなんだよ?あかりと、あかりのピアノが好きなんだ。だけどあかりのピアノのために、オレはずっと我慢してた。仕方なく、黙ってたんだ」
——彼が、何を言ってるのか、わからなかった。
「あかりこそわからないだろ?オレが、どんな気持ちで君を想ってたか。君を見つけたあの日から、君と君のピアノに、どれだけオレが惹かれてたか」
遅すぎる告白は——呪いのようで。
「君がオレを好きなのはわかっていたよ。オレたち、本当はずっと両想いだったんだ。でもオレは、君に好きだとは言えなかった。なんでだかわかる?」
問いかけられ、見えない彼の心に、私の全身が震えた。
悴んだ指で、怯える鼓動を抑えて——私は、とぎれ途切れに問い返す。
「……そんな……そんなの、知らないよ……なんで……どうして……?」
泣きそうだった。
どんな感情が込み上げてるのかもわからず、私は涙を滲ませていた。
彼は、答えた。
「あかりのピアノの良さは、あかりの孤独で出来てるからだよ」
私の心に、傷をつけ。
「……気づいてなかったの?寂しいとか、悲しいとか、苦しいとか、そういうのがあかりの音には宿っててさ。だから、みんなの心に響いてたんだよ」
傷を抉り。
「あかりはひとりじゃなくちゃいけなかったんだ。あかりのピアノの素晴らしさを保つために……君は、満たされちゃいけなかったんだよ」
——心を、引き裂いた。
「だからオレは君への想いを諦めて、君のピアノを守った。……なのに、どうしてそこに他の男が邪魔してくるんだよ」
怒りを灯しながら、彼は一歩、また一歩と、私に近づいてくる。
「……あかり。わかってくれるだろう?オレは、結城なんかよりずっと君をわかってる。ずっと君を愛してる。オレのことを好きでいてくれてたんだから、わかってくれるよな?」
じり、じりと。
「……や……っ」
孤独が、私に這い寄る。
「……やめて…………」
——手を、伸ばしてくる。
「触らないでっ!!!」
——拒絶した。
彼の伸ばす手を、私は弾いた。
気づいたら、身体が自然と動いていた。
無我夢中で、力加減なんて頭にもなく、ただ彼を拒むために、力強く両手で突き飛ばした。
「…………え?」
——小さな驚きが、彼の口からこぼれたと同時だった。
嘘のように軽くふらついた彼の体が手すりにぶつかり、よたついた足を滑らせた。
のけ反った体は、虚空に乗り出し——そのまま、手すりを超えていく。
——その瞬間は、まるでスローモーションのようだった。
驚きに見開かれた彼の瞳が、記憶に焼き付いて今も離れない。
——信じていたものに、裏切られた。
そんな被害者のような顔で、彼は私を凝視していた。
けれど、そんな瞳は、すぐに私の視界から消え去った。
声もなく。
音もなく。
彼は、虚空に飲まれるように落ちていった。
——その時、私の時は止まった。
自分が何をしたのか、彼がどうなったのか。
すべて見ていたはずなのに、何ひとつ意味はわからなくて、でも、とんでもないことが起きたことだけは感じていて——私は、霧がかるような恐怖から、微動だにすることもできなかった。
目の前にいたはずの彼が、いない。
一秒が永遠の重さに変わり、時の流れも、私の人生も、そこで何もかもが狂い果てた。
——ドサッ。
淀んだ時間のどこかから、現実を訴える鈍い音が聞こえてきた。
彼が落ちた音。
それが、私の目を覚ました。
「……っ……石黒、さん……?」
半信半疑で名を呼び、恐る恐る手すりに歩み寄った。縋るような思いで顔を覗かせ、真下にある中庭を見下ろすと……ツリーをライトアップする明かりが、雪山に突き刺さる、ひときわ暗い染みのようなものを照らしていた。
——そしてそれは、どれだけ見ていようと、動くことはなかった。
——ああ。
私——殺したんだ。
石黒さんを……殺してしまったんだ。
追いついた現実が、罪という意識に変わる。
胸が爆ぜるような痛みになって、喉を強く締めるような苦しみになって、私の息の根を止めようとする。
呼吸を乱しながらも、必死で息を吸った。
なんで。
どうして。
どうしよう。
どうしたら。
怒涛のように押し寄せる感情に喘ぎながら、私はどうにも出来ずにいた。
——頭の中に、いろんなことが浮かんだ。
石黒さんのこと。
おじいちゃんやおばあちゃんのこと。
ピアノを教えてくれた先生たちや、職場の人たちのこと。
そして——晴真さんのこと。
取り返しのつかない過ちに、生きてきたことのすべてが粉々になった気がした。
——いや、それは、気のせいなんかじゃない。
私はこの瞬間から、ただの殺人者だった。
それが、揺るぐことのない、残酷な真実で。
何もかもを、失ってしまった。
——長い、長い時間が過ぎる。
凍えた身体は動かない。
なのに、現実から逃避するように、頭の片隅が「生きてるかもしれない」と囁いた。
私は、彼の部屋を出て、彼が居る場所に行こうと思った。
この目で確かめなくちゃ。
もしかしたら、まだ助かるかもしれない。
息があったら、救急車を呼んで、それで、それで——
……この時の私は、変に冷静だった。
けれど思考はどこかおかしな方向に飛んでいて、何をしたのか、正直、ところどころ覚えていない。
中庭に降りる前に、一度部屋に帰って——ちゃんと、コートと手袋を身につけたと思う。
そうして、深夜の誰もいないホテルを歩き——私は、彼に会いに行った。
生きていて欲しいと、儚く、祈りながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます