第12話 白峯あかり:決意の夜
コンサートに向けて、日々は加速するように過ぎていった。
夢の実現を喜び、誰よりも大はりきりしていた石黒さんは、次々と企画やコンセプトを打ち立てては都度私に伝えてきた。
——でも、今になって思えば、そのすべては彼の歪んだ愛のためのものだった。
興奮気味に語られる内容は、何もかもが決まった後の事後報告ばかり。私の意見を聞いてくれるような素振りなんてほとんどなく、私は置き去りのまま、徐々に形になっていくのを見守るだけだった。
唯一、セットリストにだけは意見を反映してくれたけれど……トリの曲は『雪の音色』にするのだという意思だけは頑なで、絶対に譲ろうとはしなかった。
「『雪の音色』はあかりの代表曲で、最高傑作だから!もっとこれを売り出すべきだって!」
石黒さんのことを思って作った曲は、彼の一番のお気に入りになっていた。
私が思うよりも、もっと重く、深く。彼は『雪の音色』に心酔し、溺れきっているようにすら見えた。
「コンサートが終わったら、すぐにコンサート音源を販売しよう。あと、コンサートの物販品としてオルゴールにしたらどうかな?雪の景色がイメージできるような……そうだ、オルゴール付きスノードームがいいな!『雪の音色』のオルゴールを作って内蔵してもらってさ!!」
彼の意向は止まらなかった。私は口を挟む隙すらないまま、ただ黙々とコンサートに向けてのピアノ練習だけを続けていた。
——晴真さんに会いたい。
石黒さんが借りた音楽スタジオで毎日ピアノを弾きながら、私は時折、そんなことを考えていた。
コンサートに向けて石黒さんと過ごす時間が増える中、ふとした瞬間に彼の笑顔が浮かんだ。
知らない間に心の中にはもう晴真さんが住み着いていて、目の前に石黒さんがいるというのに、私は今そばにいない彼のことばかり考えてしまって。
——そんな時、石黒さんが言った。
「……なんか音が変わったね。あかり、最近何かあった?」
石黒さんの表情からは、いつもの笑みが消えていた。
何気ない会話のように取り繕ってはいたけれど、口調はどこか冷たく、まるで強く責められているようにさえ感じた。
柔く問い詰められ、真っ先に頭に浮かんだのは、晴真さんのこと。
けれど私は——晴真さんのことを、石黒さんに伝えはしなかった。
彼が気にするほど私の音は変わっていないと思っていたし、「気になる人がいる」なんて、ずっと好きだった石黒さんに言えるわけがない。
それに、なんとなく。
今の石黒さんに、晴真さんのことを伝えたくないと……思ったりもして。
だから私は、「特に何もないと思うけど」と誤魔化した。「もしかしたら、コンサートに緊張しちゃってるのかも」なんて紛らわすように答えたら、それが余計だったのかもしれない。
納得がいかなかったらしい石黒さんは——翌日、図書館で働く私の元に、姿を現した。
間の悪いことに、ちょうど晴真さんが来ていた時だった。人気の薄い夕方、本を持って貸出カウンターにやってきた晴真さんが話しかけてきたその時、私たちの間に、やけに明るく軽い声が割って入った。
「あかり。お疲れ様」
私に向けて手を挙げ、声を掛けてきた石黒さんはいつもの笑みで——それに、なぜかぞくりとした。
今まで私の職場に来たことなんてなかったのにどうして、とか、よりにもよって晴真さんがいる時に、とか。
悪いことをしているわけじゃないのに心臓はバクバクして、私は固まったまま石黒さんの笑みを見返していた。
「もしかして、あかりの知り合い?」
晴真さんに視線を移した石黒さんが、さも自然に問いかけた。晴真さんは石黒さんの私に対する気やすさで、名乗らずとも誰だかわかったのだろう。一瞬視線が険しくなったけれど——すぐに、にこりと人懐っこい笑みを浮かべた。
「結城晴真といいます。白峯さんとは、図書館を利用しているうちに話すようになりまして。今では仲良くしてもらっています」
さらりと自己紹介をしながら、結城さんが石黒さんと向かい合った。なんてことない態度で、初対面の挨拶をして。晴真さんは、「あなたは?」と石黒さんに問い返した。
「オレは石黒智哉っていうんですよ。あかりとはずっと一緒にピアノの動画配信してるパートナーでして。な、あかり?」
話を振られ、びくりとしながらも私は頷いた。事実なのに、なんだか肯定が重い。そう思いながら。
「結城さんっていいましたっけ。結城さんはあかりのピアノ、もちろん知ってますよね?動画観ました?」
世間話のように切り出した石黒さんの会話が、どこか上から目線に聞こえた。どうしてそんな嫌な言い方するんだろうと思ったけれど、この時の私は謂れのない後ろめたさを感じていて、そのせいで変に聞こえているだけかもしれないと思っていた。
気になって、こっそりと晴真さんの顔を窺ったけれど——晴真さんには怯んだ様子もなければ、強い敵対心を持った様子もなかった。
「白峯さんがピアノを弾くって、つい最近教えてもらいました。動画も撮ってるって聞いたんですけど……実はまだ、あまり観れていなくて」
その答えに、石黒さんが一瞬、たしかにひりついた。
口角が少しだけ下がり、頬がぴくりとして、瞳の奥には暗い揺めきが灯って。なのに、彼は一切調子を変えようとはしなかった。
「そうなんですか。なら是非じっくり観てみてください。あかりのピアノは、本当に素晴らしいんですよ」
誇る彼に、晴真さんは素直に「はい」と答えて——けれど、どこか否定的に言葉を繋いだ。
「でも俺、ピアノって全然わからなくて。それに俺は、白峯さんのピアノを聴くより、一緒に話してる方が好きなんですよね」
その優しくも力強い言葉に、私の胸が高鳴った。
嬉しかった。石黒さんにピアノを褒められた時よりも、何倍も嬉しかった。
でも同時に、目の前の石黒さんの気配がわずかに変わって——
「あぁ、そうなんですね。まぁ、あかりはすごく優しくていい子ですからね。結城さんがそういうのもわかりますよ」
深まった笑顔に、云い知れぬ怖さを覚えた。
細められた瞳に、ひどく冷めた光が宿っている気がした。
言っていることは普通のことなのに、空々しく、刺々しく聞こえるのはどうしてだろう。
呪縛のような視線から逃れたくて、私はそっと石黒さんから瞳を逸らした。なのに外れた視界からもまだ縛り絡めるような気配がして、私はそのまま顔を伏せ続けた。
「なんだか結城さんって面白そうな方ですね。よかったら今度、飲みにでも行きません?オレ、良い店知ってるんですよ」
——彼は、晴真さんに話しかけ続けた。持ち前の押しの強さで誘いかけては、まるで意気投合したかのように振る舞って。
そして晴真さんもまた、それを受け入れようとして。
私はそんなふたりを前にして、蚊帳の外から見ていることしか出来なかった。まるで、目には見えない応酬に弾かれているようで。
私を不在にしたまま進んでいく話に、ふつふつとした歯痒さとやるせなさを感じていた。
そしてその日を境に——石黒さんとの時間は、さらに増えていった。
……いや、増や『されて』いったと言った方が、正しいのかもしれない。
コンサートが近づいたせいもあるけれど、それだけじゃなく、どこか私の時間を奪おうとしているような気がした。
彼は結城さんのせいで私がコンサートに集中していないのだと思っていて——それを少しでもコントロールしたかったのだ。
この時の私は、思い過ごしだと自分に言い聞かせていたけれど——それが真実だったと知るのは、もう少し先のことだった。
……私は、石黒さんにいつ「ピアノを止める」と告げるか、ずっと悩み続けていた。
言えば、彼の態度が急変するんじゃないか。否定され、罵られ、深く失望されるんじゃないか。
そんな恐怖じみた想像のせいで、私は顔色を伺ったまま、いつまでも打ち明けることが出来ないでいた。
そんなぎくしゃくとした間のまま——会場であるホテルへと向かう日は、あっさりとやってきてしまった。
重い気持ちのまま迎えた、富良野入り当日。車を走らせる石黒さんは、いよいよという段階に朝から上機嫌だった。
……いつも通りなのに、彼の吸うタバコの煙が、ひどく煙たく感じた。私は逃げるように顔を背け、窓の外を見ながら相槌を打つことで時間をやり過ごした。
——約3時間の、長い旅路。
車という密室での時間を耐え、辿り着いたホテル・ルミエールヴェールは、説明を受けていた通り本当に素敵なホテルだった。
大きなガラス窓と、蔦状に飾られたイルミネーションが、晴れた空の下できらきらと輝いていて——それが雪のような白い壁面に映え、まるで昼の空に輝く星のようだった。
そして案内されたイベントホールもまた、広く綺麗で美しかった。ステージ上のグランドピアノは傷ひとつなく艶めき、完璧に調律されていた。
そしてなにより特徴的だったのは、ピアノがあるステージ上の壁面が、ガラス張りの窓になっていること。ピアノの背景に、クリスタル製のツリーや動物型のイルミネーションが飾られた中庭が映るように設計された舞台は、滅多に見ない斬新な試みだった。
もし、雪が静かに降る夜に演奏出来たなら——そんな想像をして、私の胸はときめいた。
こんな立派なホテルでピアノを弾いて、コンサートをするなんて——
そんな実感は、重い気持ちばかりだった私を前向きにした。
最後にピアノを弾くのがこんな素敵な場所なら、悔いなんてない。
そう思えたからこそ、私は石黒さんにハッキリと伝える決心がついた。
——伝えるなら、コンサートの前夜にしよう。
前祝いをしようと誘われていたから、その時にキッパリと伝えよう。
私は、このコンサートを最後に、ピアノを弾くのはやめるのだと——
ピアノは、ずっと私を支えてくれていた。
ひとりぼっちだった私の、一番の友達だった。
受験や大学時代の苦い記憶もあるけれど、思い返してみれば、どんな時も弾くことに夢中になっていた記憶ばかりだった。
——きっと私は、ピアノと出逢うために生まれてきた。
私が私であるために、ピアノが必要だった。
でも、あの頃の私と、今の私は、もう違う。
ピアノに頼らなくても誰かと——晴真さんと心を通わせて生きていける——そう思いたかった。
私は、もう終わらせると決めた。
自分の意思で。
私は本当の私になるために、前へ進みたかった。
——私は、信じていた。
この夜を越え、コンサートが終われば、私は自由になれると。
——そう、信じていたのに。
その夜を越える前に——すべての歯車は、音もなく、狂い始めていった。
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