第11話 南雲靖久:追憶
「お兄ちゃん、私のプリン食べたでしょ」
「食べてねぇよ。ぜってぇ食べてねぇし」
「ウソつき!じゃあ誰が食べたの?」
「さぁ。母さんか父さんじゃねぇの?」
「お母さんはそんなことしないし、お父さんは甘いもの食べないでしょ!だから犯人はお兄ちゃんしかいないの!」
「……あーあー。いいだろ、プリンくらい。代わりに次買ってきた時、俺のやるから」
「そんなこと言ってくれないくせに!」
「ホントにやるって。しつこいなぁ」
「だって、帰ってきたら食べようってずっと楽しみにしてたのに……お兄ちゃんのせいで、私の楽しみなくなっちゃった」
「はぁ……悪かったって。謝るから許せよ」
——
***
「…………ス。……ボス!」
——遠くから声が聞こえる。
聞き慣れた生真面目な声。ちょっと怒ってるような、呆れたような声。
それが古い夢と重なり、泡のように弾けて霧散すると——微睡みに沈んでいた意識は浮上した。
「…………あ?」
夢見心地のまま重い瞼を開けば、視界の先にはステージの上でスポットライトを浴び、しっとりとピアノを演奏する白峯あかりがいた。
いつか聞いたことのある、クラシック曲だ。曲名は知らないが、小学校の時の帰りの時間に流れていた曲だった気がする。
……耳馴染みあるメロディが、深い底に沈んでいた記憶が呼び起こしていく。
今よりもヤンチャで生意気で——周りを困らせていた頃のことを。
「堂々と寝ないでくださいよ……ゲネプロ聴くって言ったのボスじゃないですか」
ホールの観客席中央、隣に座る夏目が、俺に苦言を呈してくる。それがさっきまで見ていた夢に触れて、俺は曖昧な反応で生返事をする。
——随分と懐かしい夢を見ていた。
たぶんあれは小学校高学年くらい。妹のプリンを盗み食いした時のことだったと思う。
3つ下の妹の公子は、何かあればいつも俺を叱ってくるヤツだった。生真面目でしっかりとした、いわゆる『いい子ちゃん』。自由で適当な俺と違い、公子は普段の生活も成績も、いつも優等生だった。
——なんでこんな夢を見たんだろう。
もう何年も、小さい頃の夢なんて見たことなかったのに。
ぼんやりと思いながらも、おそらく白峯のピアノが原因なのだろうと結論づける。
郷愁を誘うようなメロディ。ふつふつと感じる懐かしさ。
それが、童心に帰らせたのかもしれない。
普段聴かないピアノ曲なんか聴いてるせいなのか、それとも、白峯あかりの演奏だからなのか。
……後者が理由な気がするのは、それだけ上手いってことなんだろうか。ピアノの良し悪しなんて、俺にはわからねぇけど。
「次の曲で終わりなんですから、ちゃんと起きて聴いててくださいよ」
「わかってるって。……で?ラストはなんて曲?」
「『雪の音色』です。白峯のオリジナル曲で、スノードームのオルゴールに入っている、例の曲です」
「ああ……あの曲か」
ステージ上、白峯の演奏に寄り添うように、ピアノの上にはスノードームがひとつ、ぽつりと置かれている。白峯と一緒にスポットライトを浴びるそれは、石黒が今日のコンサートのためにと用意した物販品だ。
白峯は、バーでの前祝いをしたその時に、石黒からプレゼントされたらしい。
『……石黒さんは、本当にコンサートを楽しみにしていたので。形見というわけではないですけど……見ていて欲しいと思って』
ゲネプロが始まる直前、白峯は手のひらに乗せたスノードームをしんみりと見つめていた。哀悼に暮れた彼女は、何気なくスノードームを逆さにして戻し、器の中でキラキラと舞う雪を眺めていた。
その横顔を思い出すと同時に。
俺は——妹のことを思い出した。
昔、うちの家にあったスノードームは、公子が買ってもらった物だった。たしか旅行先のホテルかどこかの土産屋で売っていたやつだ。
雪だるまと……リスの模型か何かが入っていたもの。公子は「可愛い」とはしゃぎながら、父さんに買ってとねだっていた。
父さんも母さんも、いい子の公子には甘くて。おねだりが成功した公子は、それを喜んで眺めていた。
「見て、お兄ちゃん。可愛いでしょ?」
一体なにが可愛いのか。女の趣味というのは男にはわからないもので、俺は「そうかぁ?」なんて、適当に返事していた気がする。
——公子は、何度も逆さにしては戻し、ヒラヒラと踊る白い雪を眺めていた。
「……綺麗だなぁ」
うっとりとするその横顔は、無邪気で、純粋で。
雪なんて、冬になったらいくらでも降ってるだろ。そんなことを言ったら、「それとこれは違うの!」とか「お兄ちゃんはわかってない!」とか、ぷりぷり怒ってた気がする。
俺たちは、いつもそんな風だった。
どこにでもいる兄と妹。
特別仲が良いわけじゃない、でも悪くもない——そんな、ありふれた家族の関係。
もう、長いこと忘れていた。
——忘れようと、していた。
最後の曲が始まる。白峯が作ったというオリジナル曲、『雪の音色』。一度音の途切れた静寂のホールが、白峰の手によって再び音で満たされていく。
優しくて寂しい、どこか冷たく切ないメロディ。
例えるなら——冬の夜のような、そんな曲。
隣に座る夏目は、真剣にステージを見つめ聴き入っていた。それを一瞥して、俺もまた白峯あかりに注目する。
『……コンサートが終わったら、お話があります。……聴いて欲しいことがあるんです。私と……石黒さんのことについて』
『本当は、今お伝えできればよかったんですが……いま言ってしまったら、コンサートの前に、ピアノが弾けなくなってしまいそうで。だから、すべてが終わったら……ちゃんと全部、話させてください』
先ほど外庭で聞いた、彼女の言葉が浮かぶ。
秘められた覚悟。
それがどんな意味を持つのか、俺も夏目も、もうわかっている。
この事件はもうすぐ終わる——白峯あかりの、自白によって。
彼女の細く白い指が、鍵盤を鳴らし続ける。
滑るように、踊るように、力強く。
一心不乱にピアノへと向かい合い、自分の奥底の叫びを、美しい音へと変えて奏でる。
それはまさに、演奏家という言葉にふさわしい有様で——俺もまた、いつの間にか深く聴き入っていた。
この曲を最後に、ゲネプロは終わる。
コンサート開演まであと、約3時間。
やり終える彼女を待ちながらも、俺たちは俺たちの仕事を進める。
遺体から見つかった、白峯がつけていた手袋と同じ色の繊維片。
白峯のアリバイ証言の嘘。
石黒が結城に送ろうとしていた、手作りのスノードームの意図。
俺たちの仕事はまだ、終わってはいない。
けれど今このひと時だけは、全てを忘れて音楽に浸っていよう。
それが白峯あかりというひとりのピアニストに対する——俺なりの、ささやかな誠意だった。
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