第7話 南雲靖久:スノードームの夢 前編

 2月7日、午前11時半。

 夏目の運転で富良野を目指していた俺たちは、当初の予定通り昼前に現着した。

 ホテルの駐車場に車を停め、夏目がエンジンを止める。俺はそれと同時に、スマートフォンで流していた動画を止めた。

 車中で流していたのは、石黒がプロデュースしていたというピアニスト、白峯あかりの動画だ。有名なクラシックから今流行りのポップス、アニソンにゲーム音楽など、演奏動画はいくつも上がっていた。

 約2年ほど活動しているようだが、動画サイトやSNSを見る限り大成してるとは言い難い。そんな彼女が、どうしてホテルでコンサートなんて開けることになったのか。プロデューサーである石黒のツテ、もしくは営業努力なんだろうか。

 ……詐欺の関連もあるから、そこらへんも調べてみる必要はありそうだな。

「ここに先ほど動画で見た、白峯あかりが居るんですよね」

「ああ。コンサートをする予定で石黒と滞在してたらしいな。一番の関係者だし、付き合いもそれなりに長いだろうから、詐欺の件も含めてなんか知ってるかもしれんな」

 車を降りた夏目がホテルを見上げる。俺もまたそれに倣うが、車から出た瞬間、車内のあったかさと氷点下の温度差をマトモに食らってしまった。

 富良野の寒さは札幌とは一味違う。芯から冷えるようで、思わず身震いしてしまう。

「……白峯あかりも、詐欺に関わる一員の可能性がありますよね。それにもし殺人だと断定された場合、有力な容疑者になりそうなのも彼女でしょう」

「気が早いね、陸くんは。いつも言ってるだろ?余計な先入観は持つなって」

「……すみません。先走りました」

「ん。まぁ疑うのは調べてからにしようや。容疑者立てんのは、殺しの線が強くなってからな」

「はい」

 夏目が素直に返事をする。相変わらず捜査の時だけは聞き分けがいいな。さっきまでの小言はどこ行ったんだ。

「しっかし寒いなぁ。さっさとホテルに入るか」

「そうですね。まずは富良野署と合流して引き継ぎを受けましょう」

「その前に一服してもいい?」

「ダメです」

「……だよな」

 即座に却下され、仕方なく足早にホテルのエントランスを目指す。


 富良野リゾートホテル・ルミエールヴェールは、大手観光会社が母体の比較的新しいホテルだ。その名はフランス語で『光とガラス』を意味するらしい。

 白を基調とした円形の建物はポストモダンという様式らしく、かなり特徴的だ。外壁には蔦模様のイルミネーションが飾られ、大きなガラス窓がずらりと並んでいる。

 その光景はまさに名前の通りといった趣だ。名は体を表す、というやつか。

 ここの客層は観光目当ての客と、静かに過ごしたい富裕層がメインらしい。2月の北海道はスキーシーズン真っ只中だが、このホテルは市街地からもスキー場からも少し離れていて、比較的静かなようだ。客の姿もちらほら見かける程度で、富良野署の第一報にあった宿泊客数は思ったほどではなかった。

 ホテルにとっては商売上がったりだろうが、俺たちにとってはむしろ好都合だ。調べる人数が少ないに越したことはない。


「一次聴取は終わってる頃ですよね。参考人はどの程度残っていますかね」

「ほとんど残ってねぇんじゃねぇか?チェックアウトの時間も過ぎてるし、そもそも客も少なかったろ。ましてや、まだ事故の線も残ってる段階だ。大半はもう帰ってるだろうよ」

 そう言いながらエントランスに入ると、予想通りフロントやロビーは閑散としていた。白い大理石の上に敷かれたワインレッドの絨毯を踏み締め、俺と夏目はカウンターに立つフロント係へ声をかける。

「お忙しいところすみません。北海道警察・捜査一課の南雲と申します」

「同じく夏目です。ホテル敷地内で発見されたご遺体について、お話を伺いに参りました」

 懐から警察手帳を取り出して開けば、フロント係が俺たちの顔と手帳を交互に見た。そして、すぐにスッと背筋を伸ばし声を潜めた。

「例の件についてですね。ただいま責任者をお呼びしますので、少々お待ち下さい」

 ロビーで待つよう案内された俺たちは、中庭がよく見える窓際のソファに腰を下ろした。曇りひとつないガラスの向こうに目をやれば、ちょうど正面にきらきらと光る中央のオブジェが見える。

「ガラスのツリーに動物型のイルミネーションか。シカにウサギに……あれはキツネか?子供が喜びそうだな」

「森の風景みたいですね。夜にライトアップされて雪でも降ってたら、まるでスノードームみたいに見えるでしょうね」

「スノードーム?」

「透明な球体の中に水が満ちてて、その中に模型や人形、雪を模した白い粉が入ってる飾りです。逆さにすると、雪が舞うように見えるんですよ。雑貨屋なんかで見たことありませんか?」

「ああ、アレか。そんな名前だったんだな」


 ——そういえば小さい頃、家で見たことある気がするな。たしか雪だるまかなんかが入ってたっけ。アレ、誰が買ったんだっけな。


 ぼんやり昔を思い出しながら、俺はツリーの奥に視線をずらす。

 ツリーの向こう、北東側の壁際には、遺体発見現場である雪山があった。遠巻きに張られた黄色いテープとブルーシートが一枚、踏み荒らされた雪の中で弱い風に揺れている。その周囲には鑑識が立てたと思われる番号札とカラーコーンがあり、その一部分だけがやたらと物々しい。

「雪と風が落ち着いてよかったですね」

「だな。この後見に行くのに吹雪だったらたまんねぇもんな」

「そうじゃなくて、現場保全的にって意味ですよ」

 真面目か。某芸人のようなツッコミが頭を掠めたが、本人はまさに本気で言ってるので飲み込むことにした。触らぬ神に祟りなしだ。

 そうこうしていると、程なくして位の高そうなホテルマンがやってきた。俺たちは席を立ち、軽く会釈する。

 黒のダブルスーツに臙脂色のネクタイをした、白髪混じりの男性。歳は50前くらいだろうか。紳士然とした品のある姿で、男は深々と一礼する。

「ルミエールヴェール支配人の蓮見と申します。本日はご足労いただき、ありがとうございます」

 渋く落ち着いた声で名乗ると、蓮見は胸ポケットから名刺を取り出し、丁寧に差し出してきた。


『富良野リゾートホテル・ルミエールヴェール 総支配人 蓮見隆之』


 受け取って確認した後、俺は手帳を軽く提示して返礼する。

「北海道警察・捜査一課の南雲です。お時間を取らせてすみません」

「同じく捜査一課の夏目と申します。富良野署から話は通っていると思いますが、少しお時間よろしいですか」

「はい。富良野署の方々はバックヤードにおります。どうぞこちらへ」

 蓮見は迷いのない動きで俺たちをフロント奥の通用口へと案内する。

 扉を隔てた向こう、従業員専用バックヤードは白を基調とした表と違い、ブラウンを基調としたシックな造りになっていた。円形の通路には更衣室や休憩室、事務室などが並び、あちこちで従業員が行き来をしている。

「遺体は救護室に運んであります。富良野署の方々もそこにいらっしゃいますので、捜査の方、よろしくお願い致します」

「はい。なるべくご迷惑かけないようにしますので、ご協力よろしくお願いします」

「もちろんです。こちらとしてもお客様のご不安を早く払拭したいので、出来る限りのことはさせていただきます。何でも仰ってください」

 力強い言葉に動揺はない。ベテランとしての矜持ってやつか。

「助かります。こちらも早期解決に向けて尽力しますよ。あとで蓮見さん含め、従業員の方に聴取の時間をいただくと思うので、その時はよろしくお願いします」

「はい。私は事後処理で少し動き回っておりますが、何かあればフロントスタッフにお声がけください」

 蓮見とのやり取りを終え、救護室と書かれた部屋に辿り着く。

 室内へと足を踏み入れれば、窓のない閉鎖的な白の空間には備品棚や洗面台、救急セットが並んでいる。そして2台並ぶ簡素なベッドのうち片方には、ブルーシートに包まれた遺体が静かに横たえられていた。

 その近くには、富良野署の刑事、ベテランと若手とみられるのが2名。俺たちに気がつくと、ふたりは揃って頭を下げた。

「道警捜査一課の方ですか。私は富良野署の熊井といいます」

「同じく牛田です」

「北海道警・捜査一課の南雲です」

「同じく夏目です」

 簡単に挨拶を交わし、遺体が横たわるベッドのそばへと合流する。蓮見はそれを見計らって、一礼して静かにその場を離れていった。


***


 ——石黒智哉。まだ状況は詳しくわかっていないが、転落死した割に損傷は少ない。頭頂部には明らかな陥没があったが、それ以外に目立った外傷はなく、四肢の欠損もない。雪のクッション効果ってのはすごいもんだな。


「捜査状況に進展は?」

「あれから遺体状況や現場の確認、一次聴取を行いました。おい、牛田」

「はい。被害者は自称プロデューサー・石黒智哉32歳。死因は転落死による頭蓋骨骨折および脳挫傷と見られます。転落現場は石黒の宿泊していた7階701号室、スイートルームのバルコニー。こちらは手すりに石黒の指紋をはじめとした痕跡がありました。落下位置から見ても、おそらくここで間違いありません」

「7階か。結構な高さだな」

「雪山に落ちたのと、雪が柔らかいのが幸いしたんでしょうな。長いことこの仕事やってますが、こんなに損傷のない転落死体を見たのは初めてですよ」

 しみじみと言う熊井に賛同する。たしかに低層階からならまだしも、7階から落ちてこれは奇跡に近いな。


「第一発見者は施設管理担当・菊田信一40歳。通報は本日早朝5時25分頃、菊田から報せを受けたホテルのフロントマンから入電。菊田と同じく施設管理を担当している主任・笠島英紀51歳も、第二発見者としてほぼ同時刻に目撃しています」

「富良野署からホテルへは6時頃に着いたんですが、ガイシャが道警二課から警戒指示を受けていた石黒だとすぐにわかりましてね。死亡の確認と現場状況だけ簡単にまとめて、まず第一報を旭川本部と道警本部に入れたんですよ」

「そのおかげで二課は大慌てだったみたいですよ。本当なら今日富良野入りして、石黒を引っ張るつもりだったらしいんで」

 明原の不機嫌そうな顔が浮かぶ。連絡を受けた時の顔は直接見てないが、苦虫を噛み潰したような顔してたんだろうな、絶対。

「いやぁ、そうですよねぇ。ウチとしては事前にホテルに石黒の様子を聞き込んでたんですが、特に変わった様子はなかったんで、コッチも驚きでしたよ。それも事故かと思ったら、どうもそうとは言い切れない感じですし」

「死後遺体を動かした痕跡があると伺いましたが、発見現場はどのような状況だったんですか?」

 夏目が尋ねると、若い刑事——牛田が手帳を開き目を走らせた。今どき手帳派か。古風な若者だな。

「落ちた遺体は、頭から雪山に刺さったものと見られます。遺体のすぐ横の雪面には不自然なへこみがあり、穴を雪で埋めた形跡がありました。転落した石黒はそこに頭から刺さったものの、何者かの手によって引き上げられ、仰向けにされた後、雪で覆われたものと思われます」

「……何者か、ねぇ。そこら辺の調べはどこまで進んでるんです?」

 熊井に視線を移すと、あまり進捗は芳しくないのか、やや曇った顔で濃い顎髭を撫で付けた。

「まず、事件の目撃者はいませんでした。その後ホテル内のカメラを確認したんですが、残念ながら中庭にカメラは設置されてなかったんですよ。中庭に面した部屋の出入口や窓に向けた室内カメラも一応チェックしましたが、中庭に入る専用口や遺体発見現場の雪山は完全に死角でして。おかげで、遺体を誰が動かしたのかは映ってなかったんです」

 なるほど。中庭は観賞用って記載があったし、防犯カメラがないのは景観重視か。


「死亡推定時刻は?」

「死後硬直や直腸温などから、死亡時刻は午前4時前後と推定されています。ただし外気温の影響で、2〜3時間程度の誤差はあり得るとのことです。石黒は深夜1時20分に自室へ戻る姿がカメラに映っていましたので、実際は1時20分から午前4時頃になるかと思います」

 代わった牛田は、手帳に視線を落としたままよどみなく答える。

 その横では夏目が支給端末を取り出し、メモアプリを素早く起動していた。いつもの癖だ。口頭で得た情報と、それに対する自身の所感を自分なりの言葉で記録していく——そういうやり方を、夏目はずっと続けている。

「カメラに映ってたのか。深夜1時20分から4時頃ね……それでも広いっちゃ広いな」

「どちらにせよ深夜なので、宿泊客のほとんどは寝ている時間ですね」

 端末から顔を上げた夏目に、牛田が強く頷く。

「宿泊客に関しては、客室階廊下のカメラを確認し、0時以降に動きの無い者は一旦参考人から除外しています。その結果、ほとんどの宿泊客は0時以降の出入りはなくシロでした。一部該当時間に宿泊部屋を出入りした宿泊客もいましたが、7階のバーに被害者である石黒と同行者の白峯あかりがいたと証言していて、バーの店員にも確認済みです。その客はふたりが飲んでいる間に部屋に戻ったので、こちらもシロとしています」

 ——白峯あかり。

 その名が出た瞬間、ふと車内で見たあの演奏の光景と、美しい旋律が脳裏に蘇った。


 鍵盤を力強く叩く、雪のように白い指先。

 音と共にやわらかく揺れる黒髪。

 演奏の途中、ふと視線を上げた彼女の儚げな横顔が、妙に胸に残っていた。


 ——あの静けさは、何かを抱えた人間の音だ、と。


「死亡前の石黒を目撃してるのか」

 気づけば、声が低くなっていた。私情に思考が逸れたのを自覚したが、牛田は気にする様子もなく、淡々と説明を続ける。

「その客がバーに入ったのは0時15分頃で、石黒たちはその少し後からやって来たようです。客は1時前にはバーを出て部屋に戻ったとのことですが、こちらは証言通りだとカメラで確認済みです」

「なるほど。さっき言ってた、カメラに映ってた石黒の自室に戻る姿ってのは、バーから戻ったとこだったんだな」

「仰るとおりです。白峯あかりとふたりで石黒の部屋に戻る様子が映っていました。石黒は酒に酔っていたようで、やや足取りが覚束ない状態でした。その後白峯が石黒の部屋を出る姿はありましたが、石黒が部屋から出た様子はないので、転落現場は石黒の部屋と見て間違いないでしょう」

 酒に酔っていたとなれば、事故の可能性は上がる。

 しかし、白峯は生前最後に石黒と共に部屋に入っている——その事実だけが、胸の奥に小さな刺のように残った。


「では、参考人はそう多くないということですね」

「はい。今のところ参考人は、石黒がプロデュースしていたピアニストの白峯あかりと、勤務しているホテルの従業員数名です。中でも重要参考人として、白峯あかりはマークしています」

「白峯あかりを……?それはなぜですか?」

 夏目の目が細まり、声にわずかな緊張が滲む。目つきを変えて問い返した夏目に、牛田の視線もまた鋭さを増す。

「白峯は1時40分に石黒の部屋を出て自室に戻った後、そのおよそ30分後に、コートを着て再び部屋を出ているんです。その動きが目立って怪しく……特に夜中にコートを着て再外出、という点が気になっていまして」

 ——白峯あかりが、部屋を出ている?

 その情報に、俺の眉間がピクリと動く。

「行先は?あと、本人はなんて?」

「本人の証言では、緊張で眠れずコンサートホールを見に行ったとのことです。実際、カメラにコンサートホールに入る姿は映っています。その後40分程してまた自室に戻るところが映っていました」

「コンサートホール内での様子は?」

「それが、ホール内にはカメラが設置されていないんです。コンサートなどを定期的に行うため、肖像権などに配慮してとのことで……なので、白峯がホール内で何をしていたかまではわかりません」

 牛田が口惜しそうに肩を落とす。歯痒そうに唇を噛んだ夏目に、俺も心の中で同じ感情を飲み込む。

「ただ、コンサートホールには中庭に続く扉があります。ロックはかかっていますが、パスコードさえ知っていれば開けられるようになっていますので、白峯が知っていれば、あるいは——」


 一瞬、場の空気が止まった。


 ——映っていないコンサートホール。中庭に通じる扉。そして雪山。


 それらは、すべてが見えない動線だ。

 だからこそ——可能性は浮上する。


「……白峯が、石黒を中庭で掘り起こして、埋めることもできるってことか」

 俺が呟くと、牛田が強く頷いた。

 まだ確証はない。けれど、点と点が線になる気配が、確かにあった。


 頭に情報を叩き込んでいると、牛田が「バーで目撃した客はまだホテル内にいる」と補足する。

 ……そいつはあとで聴取に行く必要がありそうだ。俺は目撃者である客の詳細を聞くと、夏目に後で呼び出すように指示を出す。

「ここまでの話だと、最後に生きてる石黒を見たのは白峯あかりってことか。遺留品や残留物なんかはどうです?」

「それなんですがね……朝方の大雪があったでしょう?ほとんど雪に埋もれてて、調べがあまり進んでないんですよ。残念ながら、今のところは何も」

「まぁそうなりますか。この時期の屋外の厄介なとこですね」

 仕方ないこととはいえ、手がかりが少ないのは心許ないな。だがまだ捜査は始まったばかりだ。後からわかることもあるだろう。

「ということは、まだ事故か殺人かは断定できていないんですね?」

「ええ。転落以外の外傷なし、争った形跡もなし、オマケに酒を飲んでたってことなんで、事故の線も捨てきれないんですよ。生きてる石黒と最後まで一緒にいた白峯あかりも、『石黒の部屋を出る時にはまだ生きていた』と言ってまして」

 白峯あかりの姿を、再度思い浮かべる。

 状況からして、殺人であれば一番疑わしいのは彼女ということになるのだろうが——深く考えるのは、聴取してからだな。


 しかし——あのピアノの音を奏でた指で、誰かを殺すことができるのだろうか。


 そんな疑問が、ふと胸の中に残っていた。


***


 ある程度聞いたところで、牛田から事件概要メモと一次報告書が手渡された。夏目がそれを受け取ると、熊井は俺たちを遺体の方へと促しだす。

「どうぞ遺体は好きに調べてください。あと、中庭や石黒の部屋に行く場合はホテルにお願いしてください。我々は一度旭川本部に定期報告入れてきますんで、少し席を外します」

「了解しました。何かあればこちらからご連絡します」

 端末の番号を交換し、夏目は去ろうとするふたりにきっちりと敬礼をする。それを見たふたりも、軽く敬礼を返して部屋を後にした。


「さて、始めるとするか」

「はい」

 手袋をはめ、俺たちは石黒の遺体に向かって静かに手を合わせた。

 ただ目を閉じ、ほんの数秒、沈黙のまま祈る。

「……失礼します」

 夏目が目を開け、ふっと息を吐いた。


 まずは頭部だ。頭頂部には陥没創があるが、雪の緩衝により顔面自体の損傷は軽い。少し額に打撲痕が出ている程度でキレイなものだ。

 顔色はすでに青白く、血の気を失っている。唇は紫に近く、死斑は首筋から耳下にかけてうっすらと現れ始めている。

 そして、両目のまぶたは完全に閉じられていた。仰向けに寝かされた石黒の顔は苦痛を知らぬ静けさで、まるで寝ているかのように安らかだ。 

「この両目、誰かが閉じたんでしょうか」

「その可能性は高いな」

 同じところを見ていた夏目が疑問を口にする。

 今回のような転落死の場合、目が閉じられているというのはあまりあり得ることじゃない。自ら閉じたというより、誰かがそうしたのではないか——そんな印象を受ける。

「身元確認は終わってるんだよな」

「一次報告書には『所持品に財布・免許証・クレジットカードあり』と記載があります。宿帳のチェックや関係者の証言も取れているようです」

「石黒の家族構成は?」

「札幌で妻と二人暮らし、とありますね。両親も健在で、同じく札幌在住のようです」

「ん。じゃあこの後、被害者対応頼むな」

「了解しました」

 夏目が頷く。俺はそれを確認して、もう一度じっくり石黒に目をやる。

「にしても、32歳の割に若いな。柊木とほぼ同年代とは思えねぇな」

「プロデューサーを名乗りながら精力的に宣伝活動をしてたようですし、白峯あかりと一緒に映ってる動画を見る限り、エネルギッシュで若々しいタイプだったみたいですね」

 石黒の顔立ちは年齢よりも若く整っていた。伸びた鼻筋は形が良く、上がり気味の口角は愛想の良さを彷彿とさせる。動画でのノリといい、かなり外交的なタイプに見えるな。

 雪に埋もれていたからか、髪やまつ毛、顔の表面は湿っている。付着していた雪が室温で溶けたんだろう。よく見れば、コートも中の衣服も、全身がしっとりとしている。

「この厚着からして、自分からバルコニーへ出たのは間違いなさそうだな」

「そうですね。でも、なぜこの季節にバルコニーなんかに出たんでしょうね」

「まぁ、理由はこれだろうな」

 言って、石黒の右手を手に取る。人差し指と中指の内側にはうっすらと変色があり、俺はそれを夏目に見せつける。

「ヤニ染みだ。若いのに珍しく紙タバコ派だったんだな。今時の若いのはみんな電子吸ってんのかと思ったんだけどな」

「……タバコですか」

「そ。ここのホテル全館禁煙なんだろ?てことは客室も禁煙。でも今すぐに吸いたいってなったら?」

「バルコニーで吸う、と」

「たぶんな」


 石黒の手を戻し、今度は着衣に注目する。

 羽織っただけの黒のウールコートの下は、白いワイシャツと紺のスラックス姿だ。水分を含んだコートは色を濃くしていて、服は上も下も体に張り付いている。

「遺体の残留物については何か記載あるか?」

「衣服全体に雪の結晶溶解跡あり。左手首の腕時計付近に黒の繊維あり。これは着用しているウールコート由来のようです。他は……特に気になるものはありませんね」

「ふーん……」

 ——目立ったものはなし、か。

 物足りなさに腰をかがめ、俺は目線を近くしてさらに観察する。

 コートの表裏、各ポケット、襟元や袖口、スラックスの裾。何か残ってないかと全体をくまなく調べれば、ふと、胸元に気になるものがあった。


「……ん?」


 ワイシャツの上に微かに存在する——小さな繊維片。それはワイシャツと同じ白色で、目視すら難しいほどにか細い。


 ——石黒の服のものではないな。

 直感した俺は、繊維片から目を離すことなく夏目に手を差し出した。

「陸」

「はい」

 夏目がポケットから滅菌済ピンセットを取り出し、俺の手に乗せる。俺は慎重に繊維片を摘むと、夏目の持つ無菌チューブに収める。

「白い繊維……これは死体を埋めた人間のものでしょうか」

「どうだろうな。……ただ、富良野署の鑑識が採取してないところをみると、もしかしたら雪が溶けて出てきたのかもな」

「雪が溶けて、というと……」

「石黒を覆うために、雪をかき集めた時のものかもしれないってこった」

 夏目の目が鋭くなる。重要な証拠と見た夏目は、手早くラベルに情報を記載する。


『現場番号24-A、被害者右胸部、白色繊維片』


 チューブにラベルを貼りキャップを閉めると、俺はそれを受け取り、目線の高さに持ち上げる。

一見白に見えるが、よくよく見ると、ごくわずかにクリームがかっていた。

「……毛羽立ってるな。綿か麻の天然か、アクリルとの合成か。下手すりゃウールも混じってるかもな」

「そこまで……見ただけでわかるんですね」

 覗き込んでいた夏目がわずかに目を見張る。純粋な驚きと、敬意。時々こんな反応されるから、なんだかんだ憎めないんだよな。

「長いこと現場見てると嫌でも身につくさ。見え方も触り心地も、素材によって全然違うからな」

「化繊じゃないって、どうしてわかるんですか?」

「光の反射の仕方が違う。ホテルの制服手袋みたいなナイロンやポリエステルなら、もっとツルッと艶がある。けどこいつは、光を吸い込むようなマットな質感してるだろ」

 光に当てるように掲げると、中で繊維片がわずかに揺れる。俺はチューブを指でつまみ、わずかな光の反射を確かめる。

「ホテルの制服用手袋はナイロンとかポリエステルが多い。あれならもっと光沢が出る。けど、こいつは反射が鈍いし、毛羽立ちの出方も天然系だ」

「つまり……遺体に触れたのは、ホテル従業員じゃない可能性が高いと」

「そこまでは言いきれねぇな。あくまでこれは、『ホテルが着用する白い手袋じゃない』ってだけだ」

 そこまで確かめると、俺は夏目にチューブを返した。夏目は内ポケットから取り出したジッパー付きの透明ポーチに入れ、胸元に戻す。

「これは鑑識に回しておきましょう。熊井さんと牛田さんには後で追加の残留物が出たことを報告します」

「ん。頼むわ」

 その後も調べを進めたが、追加の収穫はなし。俺と夏目は遺体調査を一旦終え、次の捜査に移ることにする。

 

***


「次は現場だな。まずは一階の中庭から行くか」

「はい。ではフロントに声をかけてきます」

「あ、どうせなら第一発見者に同行してもらってくれ。その方が聴取の手間も省ける」

「了解しました」

 救護室を出た俺たちは、そうして遺体発見現場である中庭の調査へと向かうことにする。


 夏目がフロントに声をかけ、程なくしてやってきたのは第一発見者の菊田信一だった。菊田は俺たちの前で一礼すると、「菊田信一です」と短く名乗りを上げた。

「北海道警察・捜査一課の南雲です」

「同じく、夏目です」

 名乗り返せば、菊田は消沈した様子で「こちらへどうぞ」と先導する。死体を見つけた動揺が抜けきっていないんだろうか。顔色は良くないし、そわそわとした様子だ。

 まぁ無理もないか。人生で死体を見る機会なんて、そうあるわけじゃないし。

 不憫に思っていると、菊田はあるひとつの分厚い扉の前で足を止めた。レバーハンドル式で、ハンドルの上にはパスコードを入れるデジタルキーロックが取り付けられている。

「……ここから、中庭に通じています。中庭への道はもうひとつありまして、もうひとつはこのロビー側の反対、北側にあるイベントホールの中にあります」

「出入口はふたつね。菊田さんは今日、どちらから中庭に?」

「このロビー側です。除雪作業する時はバックヤードで防寒着を着てから行きますので、利用するのはいつもこちら側になります」

「このロックは数字を入れるタイプですよね?」

「はい。4桁の数字が決まっていて……少々お待ちください」

 菊田が慣れた様子でキーパッドを押す。ピッと軽い電子音がして、続けてガチャリ、とロックが外れる音が響く。

「開けると風が吹き込みますので、お気をつけください」

 事前に声掛けされ、扉が開かれる。瞬間、言葉通りびゅう、と凍える風が室内に飛び込んだ。

「さっむ!」

 思わず声を上げれば、菊田が驚いた。俺の締まりがない様子に緊張が解れたのか、菊田は緩い笑顔で中庭へと足を踏み入れる。

 歩道はロードヒーティングが入っているようで積雪はないが、溶けた雪で湿っている。足元に気をつけるよう促されながらぐるりと北東側へ歩けば、石黒が発見された雪山はすぐに見えてきた。

 保全されたままの現場は、そこだけ異様だ。なるべく人目に触れないようにブルーシートで覆ってあるが、それがかえって目立っている。

 夏目と一緒になってシートを外す。菊田は数歩下がりながら、俺たちの様子を見守っている。発見時のことを思い出してしまったのか、視線はどこか沈みがちだ。

「菊田さんが遺体を発見したのは、午前5時過ぎってことでしたね?」

「……はい。笠島主任と中庭の手入れに入ったのがちょうど5時でした。主任は中央のツリー周辺を担当して、私は外周の雪を除雪しようと思ったんですが……」

 言い淀んで、もう一度口を開く。

「……どこかから、音楽が聞こえてきて。耳を澄ませてみたら、ピアノの曲のようなものが鳴ってることに気がついたんです」

 鮮明に思い出しているんだろう。菊田は語りながら、行儀よく重ねた自分の手をギュッと握りしめる。

「……音が聞こえる場所を探してみたら、この雪山から鳴ってるのがわかって。それで、その……雪を掘ってみたら……」

 言葉が途切れる。どけたブルーシートの下、いくつかの簡易フラッグが象る跡を見つめながら、菊田はそのまま沈黙する。

「なるほど、ありがとうございます。では、その『音』について詳しく聞いてもいいですか?」

 質問を変えれば、菊田の強張りが少しだけ解ける。「はい」という返事を確かめてから、俺は再度質問する。

「音はどの程度聞こえたんですか?」

「最初は、本当に微かに鳴ってるくらいでした。でも近づいてみたら、雪の下からだとわかるくらいには鳴っていました」

「結構な音量だったってことですね」

「はい。雪をよけて……見つけた時の音量は、かなり大きかったです。ただ、その後自然と音は止んだんですけど」

 音はスマホのアラームって話だったが、数分で止まる設定だったみたいだな。石黒のスマホはロックがかかっていてまだ詳しく調べられていないが、おそらく5時頃に鳴るようにセットされていたんだろう。

「聞こえたのはピアノの曲ってことでしたけど、どんな曲でした?」

「私はあまり音楽に詳しくないので曲名までは……あぁ、でももしかしたら、今来てるピアニストの方が弾いてた曲かもしれないです。今思えば、少しだけ聴いたことがある気がしたので」

「それは、白峯あかりが弾いていたということですか?」

 夏目が食い気味に質問を重ねる。菊田は考え込み、慎重に思い出すように言葉を選ぶ。

「……たぶん、ですけど。一昨日、ホールにコンサート用の機材が搬入されて、軽くリハーサルをしていたようなんです。私はたまたまその時間にホールの近くを通ったんですが、扉が開いてたんでちょうど聴こえてきて。聴いたことのない曲だったんですけど、なんとなく切ない曲だなぁって思って……なので記憶が確かなら、その時の曲だった気がします」

 自信はなさげだが、それでもどこか確信めいたものも感じる。受けた印象ってのは馬鹿に出来ないし、思ったより心に残るものだ。事件への関わりは薄いかもしれないが、あとで一応調べてみるか。

「遺体に手は触れてないんですよね」

「はい。ただ、雪を払った時に少し表面に触れてしまったかもしれませんが」

「……ちなみに、その時手袋は?」

「していました。スキー用の厚いものをいつもつけているので」

「色は何色ですか?」

「紺色です」

 繊維片の色と一致しない。てことは、あれは菊田のものではないということか。

「その手袋、後で見せてもらってもいいですか?」

「はい。更衣室にありますので、この後お持ちします」

 了承を得ると、俺はマーキングされた辺りへと注目する。

 雪山は、1.5メートルほどの高さがあった。朝方の吹雪によって積もった雪は吹き溜まりに寄せられ、表面は新雪状態になっている。

「この雪山は、元々どのくらいの高さなんですか?」

「1.2メートル程度です。それ以上積もった場合は手入れをして整えています」

「では昨夜も?」

「そうですね。雪が降り出したのがたしか0時頃で……その時はまだ雪も風も弱かったはずです。その後は一旦止んで、朝方にかけて荒れ出しました」

 つまり、転落時は約1.2からせいぜい1.3メートルってことか。

 思い浮かべていると、夏目が横でメモアプリに素早く記載をしていた。自分なりに考えながら書き留めてるんだろう。深く考え込んだような顔で端末とにらめっこしている。

 俺は気を取り直し、遺体があったマーキングのすぐ横、別のマーキング箇所へと目を向けた。

 どうやらここが転落した場所のようだ。たしかに他の雪面に比べて表面にやや凹凸があるし、雪の密度にも違いがある。誰かの手によって埋められたってのは間違いなさそうだ。

 夏目は、横で菊田に質問を続けている。

 何を使って掘ったのか、どれくらい掘ったのか、死体はどんな状態だったか——再確認を含めて、情報を引き出している。

「中庭は一般客の立ち入りが禁止されていて、従業員だけが入れると伺いましたが、出入口ふたつの施錠状況はどうなっていますか?」

「先ほど見てもらったように、出入口はふたつとも常にキーパッド式のロックがかかっています」

「パスコードは、どれくらいの人が知ってるんですか?」

「私たち施設管理担当は全員知ってます。あとはイベント担当と支配人ですね。フロントや清掃は基本知らないはずです」

 ——思ったより少ないな。そう思ったのは、夏目も同じだったようだ。

「……では、一般客が知るのは無理ってことですか?」

「はい。……あぁ、でも、石黒さんは知ってたかもしれないです。コンサートの準備で会場設営するために、中庭に出入りしてた様子だったので」

「石黒が知っていた……?」

 夏目が重く呟く。おそらく、頭の中で白峯あかりに繋げているんだろう。石黒からパスコードを聞いていたら、彼女は中庭に入れることになる——そう思ってるはずだ。


 他にもアリバイ確認や発見時に身につけていた服装、石黒との接点などを聞き、一通りの聴取は終わった。

 菊田からの石黒情報はほぼなく、ホールや中庭で見た、といったくらいの話しか出てこなかった。石黒に関しては、支配人の蓮見やコンサート設営に関わったイベント係の方が詳しそうだな。

「お時間いただきありがとうございました。ボス、そろそろ戻りましょうか」

「そうするか。いい加減寒すぎてトイレ行きたくなってきたし」

 大げさに身を縮めれば、菊田がわずかに笑った。

 現場の空気は緩み、非日常は日常に帰ってくる。そして、俺たちもまた、ホテルの中へと戻っていく。


 ——次に目指すのは、石黒が宿泊していたという7階スイートルーム。たくさんの『名残』があるだろうその現場に、俺たちは無言で向かっていった。

 

***


「ここが石黒の部屋ですか」

 ホテル7階。スイートルームとバーラウンジのみのフロアに降り立った俺たちは、ホテルの客室係に開けてもらい、石黒の部屋に足を踏み入れた。

 最上階のスイートルームは流石に豪華だ。広々としたリビングに、ミニバーや専用コーヒーメーカーのあるダイニングスペース、キングサイズのベッドルームに景色が見えるバスルーム。付いてるジェットバスなんか、大人何人入れるんだよってデカさだ。

 内装は言わずもがな。部屋のデザインだけでなく、置かれている調度品までシャレていて高級感がハンパない。

「すげぇなぁ……一泊いくらするんだ、こんな部屋」

 リビングをぐるりと見回せば、客室係が事もなげに答える。

「こちらは今のシーズンだと、一泊14万円となります」

「14万!?カツ丼何杯分だ、それ!?」

 あまりの高さに思わず叫んでしまった。普段金を使わない生活をしてるせいか、貧乏性が根深くて仕方ない。

「……ボス」

 そんな俺を、夏目は即座に睨んでくる。「恥ずかしいからやめろ」とでも言いたいんだろう。……まぁ、たしかに少し大人げなかったか。

 客室係はくすりと笑いをこぼしながら、「仕事がありますので、これで」と退散していった。あとには、俺と夏目だけが残る。

「……ああいう恥ずかしい態度はやめてください。いい大人なんですから」

 やっぱり言われたか。想像通りの小言に、俺はそっぽを向く。

 夏目はわざと深いため息をつくと、すぐに手袋をはめ、捜査モードに切り替える。俺も併せて手袋をはめると、まずはリビングの端に積まれているダンボールの山に注目した。

 豪華な室内に不似合いで、正直部屋に入った時から気になっていた。

 ダンボールは全部で15箱。印刷会社のロゴが入ったもの2箱と、『雪城クラフト』と書かれた箱が13箱。いずれも開けた形跡がある。

「雪城クラフトって会社、聞いたことあるか?」

「いえ。あとで調べてみます」

「ん。頼むわ。とりあえず、中身を確認するか」

 夏目がまず、印刷会社のロゴの箱をひとつ開ける。

 ——中身は、コンサートのパンフレットだ。

 もうひと箱も続けて開けてみると、そっちはピアノや雪景色が映ったポストカードセットと楽譜が入っていた。

「コンサートの物販品のようですね」

 パンフレットを手に取り、夏目がパラパラとめくる。内容は白峯あかりのプロフィールやインタビュー、グラビアページだ。15ページ程度の小冊子だが、紙質といい構成といい、やたらと気合いが入った作りになっている。

「パンフレットは300部ありますね。……白峯あかりの人気を考えると、少し強気な数ですね」

「今後も見越して発注したんじゃないか?こういうのってストックも必要だろ」

 言いながら、俺は『雪城クラフト』と印字されたダンボールを開く。


 ——そこから出てきたのは、さっきロビーで話題に上がったばかりのスノードームだった。


 オーダーメイドなんだろうか。全体を包んでいるエアパッキンを開いてひとつ取り出してみれば、四角い箱には『Akari Shiramine』と金箔で銘打たれたロゴがあり、グランドピアノと雪の結晶がモチーフになったスノードームの写真がプリントされていた。

 そして箱の隅には、『オルゴール内蔵』の一文がある。書かれた曲名は——


「……雪の音色」


 聞いたことのない曲名だなと思っていると、パンフレットを読んでいた夏目の目がこちらを向いた。

「白峯あかりのオリジナル曲のようですよ。パンフレットにも載っています」

 差し出してきたページはインタビューのページだった。そこには『オリジナル曲・雪の音色について』という章題があり、どのような経緯で作ったか、どのような想いを込めたかなどが語られていた。

「へぇ……作曲もするんだな」

「そのようですね。わざわざオルゴールを内蔵したスノードームの音源にするくらいですから、石黒としては売り出すつもりだったんでしょうね」

「金かけてんなぁ。安くないだろ、こういうグッズって」

「オルゴール内蔵、それもオリジナル曲となったら、結構な単価じゃないでしょうか。パンフレットにしてもポストカードセットや楽譜にしても、質の低い物じゃなさそうですし、製作費はかなり注ぎ込んでいる気がしますね」

 試しにひとつ、スノードームの箱を開けてみる。

 ——西洋のアンティークのような飾り土台に、直径10センチ程度のガラスの球体。透き通ったガラスの中には、精巧なピアノの模型と、クリスタル製の雪の結晶が収められている。

 土台の底に付いてるのは、ゼンマイ式のパーツだ。オルゴールを鳴らすために巻くやつだろう。

 試しに鳴らしてみようかと思ったが、未開封品ゆえにゼンマイには小さなタグがついていて、固定されている。剥がせはするが、まぁそこまでしなくてもいいか。多少興味はあるが、今はやめておこう。

 同じロゴの他の箱も見てみたが、全てスノードームのようだ。発注数はざっと100個ってとこか。

「結構な数だな。他にポストカードとパンフと楽譜しかグッズがないのを見ると、これが目玉なんかな」

「普通なら缶バッジやクリアファイルといった、もう少し低コストで安価なグッズをメインにするのがセオリーな気がしますけど……これだと、採算は度外視しているとしか思えませんね」

 手のひらに乗せたスノードームを、じっと見つめる。試しに逆さにして戻してみれば、雪を模した白い粉末が舞い、水の中でヒラヒラと、キラキラと輝いた。その幻想的な様子はまるで、雪の中でピアノがぽつりと佇んでいるような——そんな光景に見える。


 俺は、夏目の言葉に考え込んでいた。


 高級な部屋。

 コンサートの興行。

 採算度外視のグッズと発注数——

 そこに関わってくるのは、当然『金』だ。


 その金の出所は——例のアレに、繋がっているのかもしれない。


「……雛形に、石黒が金を使用した形跡を追うよう頼んでおいてくれるか。私的利用と、白峯あかりのプロデュースにかけたものと、出来れば比較も欲しい」

「了解しました。……ボス、もしかして」

「ああ。俺の勘が正しければ、これが『動機』な気がしてな」

 石黒の犯罪——NPO詐欺事件。ここに来て、石黒の『金』についてが見えた気がする。


 おそらく石黒は、白峯あかりに傾倒している。


 利益関係じゃない。金が目的ならもっと売り方を考えるはずだ。しかしこの物販商品を見る限り、白峯あかりに対する深い敬意のような——強いこだわりを感じる。

「……石黒は、既婚者でしたよね」

 夏目はそれを痴情と読んだのか、確かめるように呟いては眉を顰めた。倫理観の強い夏目からすると、想像した関係性に嫌悪感があるんだろう。わかりやすいヤツだ。

「不倫だって決めつけんのは早いだろ。そこら辺はちゃんと調べてからな」

 走りがちな夏目を諫めると、微妙に納得いかなさそうな顔で「はい」と頷いた。

 俺はスノードームをダンボールに戻すと、今度はダイニングテーブルに目をやった。

 ナチュラルウッドのテーブルには、書類が何枚も広げられている。そして書類の他にはもうひとつ。

 ——さっき見たばかりのスノードームが、開封された状態で置かれていた。

「書類はコンサート関連のものですね。進行表にコンサートスタッフ派遣契約に関するもの、あとはホテルとのイベント契約に関する書面です」

「で、またスノードームか」

「届いた商品のサンプル確認ですかね」

「んー……」


 何か、違和感がある。


 直感的にそう思った最初のキッカケは、スノードームの近くに置いてある梱包箱だ。スノードームが入っていただろうその箱は白い紙箱で、先ほどの商品箱よりも大きく、形状が違う。表面にプリントがされていないのはサンプル品だからかと思ったが、パッと見『サンプル品』の印字はない。

 俺は紙箱を手に取り、念入りに調べてみる。すると箱の側面には、『組立前』という印字があった。箱の中には小さな空のビニール袋がいくつか入っていて、各パーツが入れられていたのだろうと予想がついた。

 つまりこのスノードームだけは未完成品のまま仕入れて——石黒が、手作りしたということか。


 一体、何のために?


 俺は紙箱をテーブルに戻すと、今度は石黒の手作りらしきスノードームを手に取った。


 すると、すぐに気がついた。

 さっきの商品よりも、わずかにずっしりとした”重み”があると。


 強まる違和感を覚え、ざわつく予感を確かめるように、俺はつぶさに目を光らせた。

 球体の中にはピアノと雪の結晶の飾りがあるが、やはり手作りのせいか、正規品に比べて歪みがある。球体と土台の接着面もやや雑だ。そして中の水の量も、先ほどと違う気がする。こちらの方が、少し”多い”気がする。


 そしてさらに目を凝らせば——球体の中の水には、うっすらと不自然な”層”があることにも気がついた。


 逆さにしてみれば、ヒラヒラと舞うはずの雪の動きが水の中を鈍く漂った。まるで沈むのをためらうような、抗うような——そんな動きだ。


「……夏目。これ、すぐに鑑識に回せ。至急だ」

 低くなった俺の声に、夏目が背筋を正す。

 「陸くん」でも「陸」でもなく、「夏目」と呼ぶ俺の剣呑な様子に空気がひりつき、夏目の視線が鋭さを増す。

「何か気になるんですか?」

「重さがさっきのと違う。あと、中の液体もただの水じゃない。……なにか、混ぜられてる」

 違和感を伝えれば、夏目が中の液体に注目し、顔を強張らせた。

 逆さにして戻した液体は一瞬混ざり合っていたが、数秒もせずに、境界がじわりと分かれていく。わずかに色味が異なって見える下層と、その上で舞う雪。——何かが沈んでいるのだ。


 これはただの水じゃない。

 それは、一目瞭然だった。


「……ボス。これは、どういうことでしょう」

「さぁな。ただ、手作り品を贈りたいって目的なら中の水を変える必要はない。……そこが引っかかる」

 目の色を変え、「すぐ鑑識に回します」と夏目が逸る。支給端末を手に取り熊井に連絡を取ると、受話口の向こうからは「すぐに手配をする」との応答が返った。


 通話を切り、俺と夏目は目配せをする。


「この感じだとまだ何かあるかもしれん。手分けして、しらみ潰しにいくぞ」

「はい、ボス」


 頷き合い、俺たちは二手に分かれることにする。

 ベッドルームやバスルーム、そして転落現場とみられるバルコニー。まだまだ調べる余地はある。


 ——事故か、事件か。


 暗雲の気配に窓の向こうを見渡せば、バルコニーの先の広大な空は、鈍色の雲を広げ始めていた。

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