第8話 白峯あかり:失恋

 それはある初夏の日。

 次の動画の撮影日を決めようと、行きつけのカフェで話し合っていた時だった。

 何気なく、「この日はどうかな」と示した週末。いつもなら曜日関係なく予定を合わせてくれる石黒さんが、「その日はちょっと」と言いだした。


「何か予定でもあるの?」


 そう、気軽に聞いたのが間違いだった。


「式場見にいく約束が入ってるんだ。ずっとすっぽかしてたから、いい加減付き合えってうるさくてさ」

「………………え?」


 私は、その言葉の意味が一瞬、よくわからなかった。

 理解することを拒否するみたいに思考が停止して、言葉を失くしたまま彼を見つめていた。


 ——彼はいつも通り、優しく笑っていて。


「……石黒さん、結婚……するの……?」


 長い時間をかけてようやく回りだした頭で、言葉の意味を理解した。そして、ぎこちなく問いかけながら、私は否定してくれるのを待った。

 ——もしかして、兄弟とか友達の話なのかも。だって今までそんな話、一度も聞いたことがないし。

 気のせいと言い聞かせても、動揺に声が震えた。

 胸がざわついて、嵐みたいで。

 ジクジクと強まる痛みを感じながら、私は瞬きもせず、彼に縋るような視線を向けていた。

 彼はタバコに火をつけると、ゆったりとした動作で煙を吐いた。


「うん。大学時代からくっついたり別れたりしてるようなのがいてさ。腐れ縁みたいな感じなんだけど、なんだかんだ付き合い長くなってきたし、結婚するかって話になって」


 ——それは、肯定だった。気のせいなんかじゃない。悪い夢でもない。


 ただの、冷たい現実で。


「ああ、でも心配しなくていいよ。あかりのピアノを広めるのも、コンサート目指すってのも辞める気はないからさ!」


「オレにとって大事なのは、あかりとあかりのピアノだよ。だから安心してあかりはピアノを弾いてていいんだよ。これからも変わらず、オレについて来てくれればいいから」


 次々と伝えられる想いは、それまでの私にとってはどれも甘い夢の言葉だった。

 だけどこの時の私にとっては、色も無い、味もしない、空虚な言葉で。



 涙さえ、出なかった。



「…………おめでとう」


 ——心にもないことを言った。でも、あの時の私に、他に何を言うことができただろうか。


 だって私は、彼の恋人じゃなかった。


 「好き」と伝えることもなく、手を繋いだだけで、「ピアノが好き」と言われただけで——ずっと、一緒にいただけで。


 そんな時間を、私は、何よりの繋がりだと勘違いしていた。



 ——胸の奥で、何かが壊れる音がした。



 脆いガラスの器が割れるような音。

 夢と愛しさを込め、大切にしていたその中には、初めから何も入ってなんていなかった。


 キレイに見えていたのは、すべて幻で——


 そう感じた瞬間、遅れた涙はやってきた。


 私は慌てて席を立って、「化粧室に行ってくるね」とその場を離れた。トイレに逃げ込んで個室にこもると、途端に涙はボロボロと溢れてきた。



 ——あの時の胸の痛みは、今も忘れられない。



「……っ、……あ…ぅ…っ!」


 口元を抑えた指の隙間から、押し殺しきれない嗚咽が漏れた。大粒の涙がまつ毛と頬を濡らして、マスカラやチークを洗い流していく。


 ——彼のために覚えた化粧が、剥がれていく。


 私はそのまましばらく泣き続けた。頭の片隅に彼を待たせてしまっているという事実が浮かんで、こんな時でも彼のことを気にしている自分がバカみたいだと思った。


 ——私はなんだったんだろう。

 彼にとって私は、なんなのだろう。


 何度も真っ直ぐ伝えてきた「好き」や「大事」という言葉は、私のものじゃなかった。今思えば、それらは全て私ではなく、私の「ピアノ」に向けられていたのだ。

 

 ——彼にとって大切なのは、私じゃなく、ピアノだったんだ。


 ただ、それだけだった。


 そう気がつけば、これまで優しく大切にしてくれていたのは、私を好きだからじゃなく、私が彼の好きな音を奏でるからなのだと気がついた。

 私がそこにいるかどうかなんて、どうでもよかったんだ——ピアノさえ鳴っていれば、それで良かったんだ。


 ——死んでしまいたいと思った。消えて無くなりたいと思った。勘違いしていた自分が恥ずかしくて、舞い上がってドキドキしていた自分があまりに愚かで、惨めで。

 

 もう——ピアノなんて、弾きたくないと思った。


 彼の元に戻りたくない気持ちだけが膨らんだ。でも、戻らなくちゃいけない。必死に涙を拭いながら、私はその時を引き延ばした。


 彼は言った。

 これからもついて来てくれればいいと。

 これからも私のピアノを広めるのだと。

 ——コンサートをするのだと。


 初めて出会った時と何も変わらない、きらきらと輝いた瞳で、彼は夢を語り続けた。


 彼の——彼のため『だけ』の夢を。


 胸に狂いそうな痛みがあるのに、頭は理解して現実を受け入れたのだろうか。なぜか涙が収まって、私はようやくトイレの個室から抜け出した。

 鏡に映る、酷い顔。ぐずぐずに崩れた化粧姿はひどく醜くて、滑稽ですらあった。

 ——私は、必死に化粧を直した。彼のためじゃない。自分を偽るために。失った恋を隠すために。

 そうして、彼の元に戻ったら、ピアノをやめようと思っていると伝えようと思った。


 もう彼のそばにいられない。いたくなんてない。他の女の人と結婚して、幸せそうにする彼を見たくない。あの笑顔が私以外のものになるなんて堪えられない。


 ——はやく、石黒さんから離れよう。

 今日限りにするって、もう会わないって伝えよう。


 そう、思っていたのに。



「あかり、遅かったね。……大丈夫?目が赤いよ?」



 ——触れないで。



「頬も少し赤いよ。ほら、ここ」



 ——心配そうな顔で、優しくしないで。


 


 私の決意は、いとも簡単に揺れた。


 ——彼の冷たい指先が頬に触れた時、ふと、誕生日に繋いでもらった手を思い出した。


『いいよ。繋ごうか』


 私の手を大きく包んだ手。冬の夜の空気みたいに冷たい指。

 忘れなければいけないあの日の想いが、鮮明に蘇ってしまった。


『あかりの手って、こんなに細かったんだな』


 ——恋が叶ったと思った、あの瞬間の幸せが、息を吹き返した。

 

 もうピアノはやめると決めていたのに。

 けれど私は、変わらず真っ直ぐに見つめてくる彼を、見つめ返してしまった。


 まるで、あの日の続きを夢見てしまうみたいに。

 甘い夢の幻を求めるように。

 

「……大丈夫。なんでもないよ」


 ——気がつけば、私は嘘をついていた。

 笑顔を作って、いつもの私を演じていた。下手くそな演技だったと思う。でも、彼は何も言わなかった。

 ……きっと、気づかないふりをしていたのだと思う。私の好意は、彼にとって都合の悪いものでしかなかったから。


 ……結局、私は彼のそばを離れることができなかった。


 ピアノをやめると言おうと思っていたのに、最後まで言葉になることはなかった。それどころか、「次の撮影、いつにしようか」なんて次の約束を結ぼうとして、その未練がましさに自分で笑うしかなかった。


 ——どうしてこの時、彼から離れなかったんだろう。

 そうしていたら、私は彼を殺したりなんてしなかった。たとえ夢なんてなくたって、慎ましく平穏に生きていくことができたはずなのに。



 ……悔いても、何もかもが遅い。

 時間は巻き戻らない。私の罪は消えない。


 たとえ——殺すつもりなんてなかったとしても。

 


 ——途切れていた記憶を戻す。


 その後の私は、変わらず彼と過ごす日々を選んだ。

 ——結婚した彼は、何も変わらなかった。私への態度も、ピアノへと尽くす行為も、変わるどころか一層熱が入っているように思えた。


 私は、彼の好きなピアノを弾き続けた。いつも通りいっぱいの賞賛を受けながら、心の片隅では、いつか私に振り向いてくれるかもしれないという淡い期待だけが燻り燃えていた。

 

 そんな私を、常に戒めるものがあった。

 彼の左手の薬指に光る結婚指輪。銀色に光り輝く真新しい指輪は、彼が私のものにならないことを知らしめ続けた。

 でも……私はそれでも、現実から目を逸らしながら彼が欲しいと願い続けた。


 それがどれほど愚かしいことかとわかっていても——初めての恋は、呪いのように私を縛り続けた。



 そんな時、初めて、私はひとつの曲を作った。



 彼と過ごし続ける中で、ある時ふと、頭の中に流れるメロディがあることに気がついた。私は何気なく、そのメロディを五線譜に綴りだした。

 

 作曲については音大時代に学んだ知識があったし、授業の一環で曲を作ったこともあって、作れることはわかっていた。


 ——私の作った曲を、彼は喜ぶだろうか。


 邪な思いが掠めながらも期待は止まらず、私は胸に沸き立つメロディーを慎重に書き記していった。


 冬の夜。

 澄んだ空気と、煌めく街の光。

 繋いだ手と、強まる鼓動。

 雪を踏み締める音は、まるで胸を締め付ける音のようで——


 その源泉は、全てあの冬の誕生日のことだった。

 私は、彼への恋心をひとつの曲に閉じ込めた。

 


 『雪の音色』



 そう名付けた曲には、初めての恋の喜びと、いずれ雪が溶けるように失われていく恋の切なさを織り込めた。

 ……自分で作った曲は、特別だった。自分で弾こうとすると自然と感情が高まって、いつもよりもピアノ以外見えなくなる感覚が強くなった。


「…………あかり。すごいよ、この曲」


 初めて披露した時、彼は心から感嘆し、茫然自失としていた。いつも飛び出る多様な賞賛はひとつもなく、ただ感動に打ち震えている——そんな彼を見るのは、初めてだった。


「これ、絶対みんなに聴いてもらおう!!こんな良い曲、聴いてもらわないと損だって!!」


 正気を取り戻した彼は、ひどく興奮していた。絶対に広めてみせると豪語しながら、スケジュールやこれからの計画の見直しを慌ただしくし始めた。

 ——喜んでくれた。

 そんな満足感を得たけれど、曲に込めた想いを受け取ってもらえることはなかった。

 ……気づいて欲しいと、密かに思っていたけれど。それは贅沢な願いだと、私はまた本当の気持ちを飲み込み続けた。


 彼を想って生まれた曲を、彼が良いと言ってくれる。「私」が込められた音を、好きだと言ってくれる。


 今はもう、それだけでいい。


 ——私の願いは次第に、ささやかな祈りに変わっていった。


 静かに波紋を揺らすようにと。


 誰かにこの切なさが届くようにと。



 そして——その祈りが届いた時。


 交わってはいけない想いと想いが、静かに重なってしまう。


 そんなすべての終わりが、訪れるのだった。





 

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