第6話 白峯あかり:初めての音

「あの!弾いてるところ見させてもらっていいですか!?」


 楽器屋の扉を勢いよく開け飛び込んできたのは、同じくらいの歳の男性だった。張り上げられた声に店長さんと私がビックリしていると、彼——石黒さんは、ツカツカと私のそばにやってきた。

「たまたま通りかかったら音が聴こえてきて、見てたらなんかこう……すげぇいいなって思って!もう一目でファンになりました!!」

 熱くて、きらきらとした瞳と言葉。私はぶつけられた突然の熱量に、目を丸くしたまま固まってしまった。

 すると困った私を見かねた店長さんが、わざわざカウンターからやって来た。ナンパはお断りだよと注意したけれど、石黒さんはキッパリと言い返した。

「ナンパじゃないですって!ホントに良い演奏だなって思ったんですよ!」

 なおも熱弁する彼に、私は戸惑いながらもおずおずと口を開いた。

「でも……その、きらきら星ですよ……?子供向けの、簡単な曲で」

「曲の難しさは関係ないですって!むしろよく知ってる曲だからこそ、この曲ってこんなに良い曲だったっけ?って思ったくらいで。あ、途中からしか聴けなかったんで、出来ればもう一回最初から聴きたいんですけどいいですか?」

 彼は押しの強いタイプで、驚くほどトントンと話を進められた。断りもなく近くのドラムセットの椅子に座り、その無遠慮な態度に店長さんは終始呆れ顔だった。

 「白峯さん、いいの?」と聞かれ、悩みながらも「練習を聴くだけなら」と答えれば、石黒さんはパッと満足そうに微笑んだ。

 白峯さんがいいならいいけど。そう言って、店長さんは渋々引き下がった。練習の邪魔をするんじゃないよと釘を刺されても、彼は全く気に留めた様子はなかった。

「もちろんですよ。安心してください、オレはピアノが聴ければ満足なんで!」

 冷やかしは困るんだけど、と苦い顔をした店長さんに、「じゃあなんか買いますよ。カスタネットとか」と、彼はあっけらかんと笑った。店長さんはガシガシと白髪を掻いていて……今思えば、かなりイライラしていたんだろう。店長さんはそれからも、石黒さんが来るたびに面白くない顔をしていたから。

 結局、「なんかあったらすぐ声かけて」とため息を残しながら、店長さんは店番に戻っていった。


 すると、その場に残された私と彼の目が、なんとなく合ってしまって。

 瞬間、ニッと大きく笑う彼に、私は思わずびくりとしてしまった。


「白峯さんっていうんですか?オレは石黒智哉っていうんですけど、白峯さんは下の名前なんていうんですか?」

「え、と……あかり、です」

「あかりさん!あ〜、なんかぽいですね!」

 何が「ぽい」のかわからないけれど、石黒さんは、うんうんと頷いた。

 その時の私は、完全に彼の勢いに圧倒されていた。

 ピアノばかりで友達なんていなかったから、突然距離を詰められてもどうすればいいのかわからなくて。

 ——まるで、宇宙人みたい。

 そう思うと、丸くて妙に輝いた目と、ヘラッと笑った口元に、「ぽさ」を感じた。スーツ姿はキリッと着こなして洗練されていたし、少し長めの茶髪を無造作風にセットした見た目はスマートなのに、話す印象とはちぐはぐで、どこか現実味がない人だった。

 たぶん私は、品定めするみたいに見つめていたと思う。でも彼は気にした様子もなく、ただ笑顔を返してくれた。

「ピアノ、弾かないんですか?」

「あっ……弾きますっ」

 慌ててピアノに向き直り、鍵盤に指を置いて。けれど指先が少しだけ震えて、滑り出しに迷ってしまった。

 私は、なぜか緊張していた。今まで人前で弾く経験は何度もあったはずなのに、たったひとりの観客にこれほど動揺するなんて思ってもみなかった。

 心臓が勝手に走った。乱れたリズムを整えるように、私は深く呼吸をした。


 そして——意を決して、鍵盤を叩いた。


 きらきら星。私が弾けるようになった初めての曲。その曲を弾く私を、きらきらとした瞳が見つめていた。

 意識をすると、指が少しだけ強張った。それでも私は鍵盤に集中し、視線を楽譜から逸さなかった。そうして平常心を心掛けたけれど——内心、穏やかではいられなくて。


 ——どう思われているんだろう。つまらなくないのかな。あ、今の音の飛び、おかしくなかったかな。


 なんだかごちゃごちゃしていた。落ち着かなさに音が乱れて、たったひとりの視線がどうしてこんなに演奏を揺らすんだろうって、すごく不思議だった。

 よくわからない気持ちのまま、私はラストまで弾き切った。……だけど、演奏は案の定酷い出来だった。

「……ごめんなさい。その、なんだか緊張して、あまり上手く弾けなくて」

 鍵盤から指を離し、音が途切れた瞬間、私は思わず謝ってしまった。


 ——その時、私の頭には、じわじわと苦い記憶がよみがえっていた。


 思うように指が動かず、酷い演奏ばかりだったあの頃。人の音で頭がいっぱいで、自分の音がわからなくなっていたあの頃。


 重く暗い思い出が、鍵盤に視線を縛り付けた。


 けれど——彼が、たったひと言でそれを吹き飛ばした。


「十分上手でしたよ?あ、もう一回いいですか?」

「……え?」

「緊張しなくなるまで弾いてください。オレ、何回でも聴きますんで!」


 ——まさかアンコールされるなんて。思ってもみなかった反応に驚き、私は鍵盤から顔を上げた。弾かれたように彼へと目を移し、思わずじっと見つめてしまって。そんな私に、石黒さんはきょとんとしていた。

「あ、もしかしてもう終わりですか?なら次いつ弾きに来ます?オレあと一週間くらいこっちにいるんで、近いうちにまた弾きに来るなら、オレも来たいんですけど」

 私がやめると勘違いしたのか、石黒さんはスラスラと次の予定を確認してきた。

 ——あと一週間だけ、って……札幌の人じゃないのかな?仕事なのか休暇なのかはわからないけれど、そんな限られた時間を私のピアノを聴くために使いたいだなんて……本当に変わった人。

 私は、信じられない気持ちで彼と見つめあっていた。でも、彼の言葉は真っ直ぐで、嘘が感じられなくて。本当に私のピアノを聴きたいと思ってくれているのが、すごく伝わってきて。


 それが——なんだか、胸の奥をくすぐった。


「……今日は、もう少し続けます。明日からは、仕事終わりに時々来ようかなと」

「そうなんですね。じゃあ明日も来ます?明日の夜は空いてるんで、あかりさんが来るならオレも来ますよ!あ、よかったら晩飯でも食います?仕事何時終わりなんですか?」

 何も言っていないのに話がドンドンと進んで、私はただただ唖然としていた。

 ——というか、ご飯?ふたりで?

 意識をしたら、心臓がどくんと跳ねた。

 演奏は終わったのにまだ緊張しているみたいで、頭がついていかない私に、彼はなおも話を進めようとした。するとまたも固まった私を察知して、店長さんが慌てて間に入って来てくれた。

「ちょっと!ナンパじゃないって言ってなかったっけ?それはもう立派なナンパだろ!」

「え?普通に演奏のこと聞かせてもらいたかっただけですけど。どんなこと考えて弾いてるのかなとか、どうしてピアノを弾くようになったのかなって」

 彼は、私のピアノに興味があるのだと言った。

 ……それは本当だった。実際、下心は本当になかったから。


 ——いっそ、下心だったらよかったのに。

 つまらない女で遊ぶつもりだったなら、私はきっと——あなたを、殺さずに済んだのに。


 呆れ果てる店長さんを気にもせず、石黒さんは私と次の約束を結ぼうとした。店長さんはよく考えた方がいいって言ってくれたけど……私は、迷いながらも頷いてしまった。

 興味を持ってくれたことが、自分でも驚くくらい嬉しくて。

 気がつけば、私は彼と翌日も会う約束をしてしまっていた。



 そして——全ては、そこから始まってしまった。



「あかりのピアノ、もっとみんなに聴いてもらおうよ」


 彼は、私のピアノは唯一無二なのだと言った。


「あかりのピアノはもっと広く知れ渡るべきだって。オレ、なんでも手伝うからさ。仕事辞めてコッチに帰ってくるから、ふたりでやってこうよ」


 彼は今の生活を捨て、私に尽くすと言った。

 やっぱりピアノが好きだと言った私に、もう一度ピアニストを目指そうと。諦めるのは早いと、そう言ってくれた。


「まずはYouTubeとかSNS使って広めて、ネット発のピアニストとしてデビューしよう。こう見えてもオレ、コンサルの仕事してるからあちこち顔が効くし、広く拡散出来ると思うんだ」


「でさ、いつかあかりのピアノコンサートを開こうよ。オレ、コンサートホールの舞台でスポットライトを浴びて、たくさんの人の前でピアノを弾くあかりの姿が見たいんだ」


 彼は夢を語った。

 彼の夢は、私の夢にもなった。

 私はピアノが好きで、そんな私のピアノを、こんなにも好きだって言ってくれる人がいて。


 だから——



「オレの事、信じてついてきてくれない?」



 その言葉に、どうしようもないほど惹かれた。


 そして——そんな言葉をくれた、彼自身にも。



 私はこの時、気づいてしまった。初めて会った時から感じていた気持ちが、恋の始まりだったことを。

 ドキドキして、ソワソワして。

 意識した時にはもう止まれないくらい、心が速くなってた。アッチェレランドってこんな感じなのかな、って思った。



 初めての胸の音に、私は知った。

 

 誰かを好きになるって、こんな気持ちなんだって。



 ——彼と一緒に過ごす日々は、幸せだった。


 ネットにピアノ動画を載せてから、石黒さんは思ったより伸びていないと悔しそうにしていたけれど、それでもじわじわと視聴数や評価コメントは増えていった。他の人気投稿者には全然敵わなくても、目に見えて「良い」と思ってくれる人がいるだけで私は嬉しかった。だから、ゆっくりやっていこうと私は励ました。

 

 春に出会ってから、私たちはずっとそばに居た。夏を過ごして、秋を過ごして、そしてやって来た冬——彼は、私の誕生日を一緒にお祝いしようと誘ってくれた。


「あかりの誕生日は大切な日だろ?誰よりも祝いたいから、その日は一日オレと出掛けようよ。行くとこ考えておくからさ」


 その誘いは相変わらずちょっと強引で。でも……すごく嬉しくて。


 日に日に膨らんでいく彼への気持ちを、私はもう、抱えていられなかった。

 すっかりデートのつもりになった私は、思い切ってその日に好きだと伝えようと心を決めた。


 ——背が低くてガリガリな私なんてとか、綺麗でも可愛くもない私なんてとか。足を引っ張り続けるネガティブな自分を変えたくて、私はその日に向けて美容室に行ったり、メイクを頑張ったりした。普段は着ないような明るい色のワンピースも買った。彼の好きそうな香水も買った。


 少しでも彼に気に入ってもらいたくて。


 「可愛い」と思って欲しくて。


 ——彼の、一番になりたくて。


 そうして迎えた誕生日。ドキドキしながら待ち合わせ場所に行くと、彼は私の姿にすごく驚いていた。


「……いつもと違うね。すごく似合ってる。可愛いよ」

 

 優しい微笑みと望んでいた言葉に、私は天にも昇るような気持ちだった。慣れないオシャレを頑張ってよかったって、心から思った。


 石黒さんはその日、私をいろんなところに連れていってくれた。

 楽器屋さん、オシャレなカフェ、美術館、夜景が見えるレストラン。……どこも素敵だった。でも賑やかな場所ばかりで、ふたりきりになりたい私には小さなもどかしさがあった。

 そんな私を、最後に連れていってくれたのは——夜景の見える、旭山記念公園だった。

 雪が静かに降る夜の公園をふたりで歩き、一日楽しかったねと言いあった。でも私は、話しかけられてもどこか上の空のまま、ずっと告白のセリフを頭でぐるぐると回していた。


 ——ここで伝えるしかないと思った。夢のような一日が終わる、その前に。


 幸いにも公園は人が少なくて、私はバクバクとする心臓を抑えながら、思い切って震える唇を開いた。


「……石黒さん。あのね、私……実は、言いたいことがあって」

「ん?どうした?」


 足を止めて真っ直ぐに彼を見つめれば、彼も同じように私を見つめてくれて。


 今なら言える。そう思ったのに——土壇場になって、勇気は出てこなかった。

 「好き」の言葉が、喉に詰まった。私は見つめるだけで何も言えず、彼は不思議そうに瞬いた。

「どうしたの、あかり。何でも言ってよ」

 優しく背を押され、焦りが募った。そして、出てこない「好き」の代わりに、私は思いもよらないことを口走ってしまった。


「……手を、繋いでくれませんか……?」


 それは、彼としてみたかったことだった。

 恋人みたいに手を繋いでデートをしてみたい。

 彼に触れてみたい。

 そんな渇望が、思わず溢れてしまった。


 なんてバカなことを言ってしまったんだろう。言った瞬間に顔と体が熱くなり、今すぐ時間が巻き戻って欲しいと思った。

 目を合わせていられなくて、雪を踏むブーツの足先に視線を逃した。心臓が爆発しそうで、喉が震えて、どうしていいかわからなくて。


 そんな、長い一秒の先。


「いいよ。繋ごうか」


 ——彼が、私の手を取ってくれた。


 私の骨ばった手を、彼の大きな手が包んだ。

 しっかりと握りしめられて、「これでいい?」と微笑まれ、私は火照る顔で力なく頷いた。

 初めて触れた彼の指は、とても冷たかった。冬の夜の空気のせいなのか、彼の体温が低いのか。それとも——私が浮かれて、熱くなってるせいか。


「……ありがとう」


 涙が滲む瞳を見せられないまま、それだけを口にした。好きと伝えられなくても、想いが通じ合った気がした。



 この日、私は人生で一番幸せだった。


 大好きな人が誕生日を祝ってくれて。


 手を繋いで夜景を観て。

 

 絶対にコンサートをしようねと約束して。


 

 幸せの絶頂にいた私は、彼との夢のような日が、いつまでも続くと思っていた。



 ——彼が、結婚すると言い出す、あの日までは。




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