【第8章】決戦前夜、愛の誓い

「王太子軍、およそ三万。冬の領地へ向けて進軍中との報せです!」

 伝令兵の切羽詰まった声が、辺境伯の館に響き渡った。

 領地の主だった役人たちの間に、深刻な動揺が走る。相手は王国の正規軍。しかも、我々の兵力の六倍もの大軍だ。勝ち目などあるのだろうか。誰もがそう思った。


 しかし、玉座に座るゼノだけは、微動だにしなかった。

 彼の灰色の瞳は、氷のように静かに、そして鋼のように強く、目の前の一点を見据えている。

「うろたえるな。敵は寄せ集めの烏合の衆。我らには、守るべきものがある」

 ゼノは立ち上がると、居並ぶ者たちを見渡して言い放った。

「この領地も、ここに暮らす領民も、そして、私の妻も。その全てを、俺が守る」

 その言葉には、絶対的な覚悟と自信が満ちていた。その気迫に押されるように、役人たちの動揺は鎮まり、代わりに「領主様と共に戦おう」という固い決意が、彼らの顔に浮かび上がった。


 私は私で、恐怖を感じていないと言えば嘘になる。けれど、ただ震えているだけの女ではいたくなかった。私にも、できることがあるはずだ。

 私は書斎に籠り、前世で趣味で読み漁った世界史、特に籠城戦やゲリラ戦の知識を総動員した。この領地の詳細な地図を広げ、地形を活かした防衛戦略を、夢中で紙に書き出していく。

「ゼノ様。私からも提案があります」

 私は、籠城に備えた食料の効果的な配分計画、敵を誘い込む谷間に設置すべき罠の場所、兵士たちの士気を維持するための交代制のシフト案などをまとめた書類を、ゼノに提出した。

 私の提案書に目を通したゼノは、「……素晴らしい。すぐに採用する」と、私の肩を力強く叩いた。彼の信頼が、私の恐怖を勇気へと変えてくれた。


 そして、決戦を翌日に控えた夜。

 緊張感に満ちた城内で、私は一人、自室の窓から出撃準備を進める兵士たちの姿を眺めていた。

 不意に、部屋のドアが静かに開かれ、ゼノが入ってきた。

 彼は私の隣に立つと、同じように窓の外に広がる、彼が愛する領地を見つめた。

「君がここへ来てから、全てが変わった」

 静かな夜に、彼の低い声が響く。

「この無彩色だった世界に、色が灯った。領民たちが、腹の底から笑うようになった。そして……俺もだ。俺自身も、君によって変えられた」

 彼はゆっくりと私の方に向き直ると、私の冷えた両手を、その温かい手で優しく包み込んだ。

「イザベラ。これはもう、契約じゃない」

 真摯な灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。

「俺は、心から君を愛している。だから、必ず君を守り抜いてみせる。俺の、全てを懸けて」


 不器用で、飾り気のない、けれど何よりも誠実な愛の告白。

 その言葉が、私の心の奥深くまで染み渡っていく。ああ、私もだ。私も、この無愛想で、誰よりも優しくて、頼りになる辺境伯を、心の底から愛している。

「私も……」

 涙が頬を伝う。

「私も、あなたを愛しています、ゼノ様」


 言葉と共に、私たちの唇が自然に重なった。

 それは、初めて交わす、優しくて、温かいキス。

 明日への不安を溶かし、未来を誓う、力強い愛の誓いだった。

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