第二話「誘う風の中で」Ⅱ


 射的の景品を片腕に抱えたアルヴァと、ふわふわの綿飴を指先でつまむリリアナ。その横を並んで歩いていたセイラは、ふいに視界の端に違和感を覚えた。


 人の流れとは逆向きに、小さな影が――まるで吸い込まれるように――屋台と屋台の隙間へ消えていく。


 ――迷っている。


 胸の奥で、その確信が静かに形を取る。セイラは足を止め、ヴェールの奥からそっと視線を追った。


「セイラ?」

「……ちょっと」


 短く返事だけ残し、祭りの喧騒を背にして細い路地へ足を踏み入れる。そこは明かりが乏しく、屋台の背板が壁のように影を落としていた。


 その行動に、アルヴァは片腕に射的の景品を抱えたまま、リリアナと視線を交わし、いたずらっぽく口の端を上げた。綿飴を指先でつまんでいたリリアナも、小さく肩をすくめて応じる。


 鈴の音と人々の笑い声が、二人の間を柔らかくすり抜けていった。



 近くで焼く肉の香りも、ここでは遠くに薄まり、代わりにひんやりとした風が石畳をかすかになぞっていく。祭囃子は遠くでくぐもり、音色の輪郭を失っていた。



 少し進むと、路地の奥に、小さな背中がぽつんと立っているのが見えた。


 五歳ほどの男の子。目元は涙で濡れて赤くなり、手には途中までかじられたリンゴ飴。飴の赤が、薄暗がりの中でかすかに光っていた。


「お母さん……どこ……?」


 頼りない声。セイラはゆっくりと歩み寄り、できるだけ足音を忍ばせた。威圧にならぬよう、腰の高さを落として、やわらかな声を投げかける。


「こんにちは……大丈夫、驚かせたりしないわ」


 ヴェールの奥から微笑みを向けると、少年の肩がびくりと揺れ、そして少しだけ力を抜いた。セイラは膝をつき、傍らに視線を合わせる。


「名前を教えてくれる?」

「……リオン」

「リオンくん。――お母さん、きっとすぐに会えるわ」


 そう言うと、セイラは風の音に耳を澄ませ、指先で小さな輪を描く。淡い青の光がひとひらの花弁のように広がり、路地の向こうをすっと指し示した。


「ほら、この風が教えてくれるの。お母さんは、あっちにいるみたい」

「……ほんと?」

「ええ。私、占い師なの。嘘はつかない」


 半信半疑の瞳が、少しずつ和らいでいく。セイラはその小さな手を包み込むように握った。指先は冷たく、心細さがそのまま伝わってくる。


「手、あったかい……」

「そうでしょ。あったかい手をつないでいれば、もう迷わないわ」


 少年の手を引いて、小さな歩幅に合わせて一歩ずつ進みだす。


 アルヴァは射的の景品を片腕に抱えたまま、少し距離を置いて後ろからその様子を見守っていた。その視線はくすぐるように柔らかく、迷いかけた子どもの背中をそっと支えるようだった。


 リリアナも歩調を合わせ、セイラの横へ自然に寄り添う。片手にはふわふわの綿飴。祭りの灯りを受けた砂糖がほのかに光り、柔らかな笑みと共に揺れていた。


 二人の静かな気配が、握られた小さな手を通して、リオンにじんわりと安心を運んでいた。



 やがて、広場のはずれから一人の女性が駆け寄ってきた。

「リオン!」

 名を呼ぶ声に、少年は泣きながら母の胸へ飛び込む。女性は子を抱きしめたまま、セイラに深く頭を下げた。


「この子を……本当にありがとうございます」


 祭囃子が再び耳元へ戻り、光と人波が包み込む。セイラは軽く会釈し、二人が人混みに溶けていく姿を見送った。


 ――数刻後。


「君が、さっき子どもを見つけてくれた人か」


 屋台をみて回っている途中、背後から低く落ち着いた声が響いた。


 振り返ると、背の高い男が立っていた。

 肩には年季の入った革の外套、腰には短剣。鋭い眼差しは人の表も裏も見透かすようでありながら、どこか温かみを帯びている。


「俺はこの街の冒険者ギルドのマスターだ。その子は古くからの友人の孫でね」

「それは……偶然でした」

セイラは控えめに答える。

「偶然でも、礼は言うさ」


 男は口元をわずかに緩め、そしてすぐに表情を引き締めた。


「……ところで、森の道が使えなくなっている話は聞いてるか?」

「屋台で、何度か」

セイラが頷く。

「原因を探る依頼は冒険者に回してあるが、どうにも進展がない。幻覚の噂が本当なら――占い師の目が役立つかもしれないと思ってな」


「へぇ、俺たちをスカウトってことか?」

アルヴァが片眉を上げる。


「半分は頼み、半分は好奇心だ」


「あら、面白そうじゃない」

リリアナが口元に笑みを浮かべる。


 セイラはしばし沈黙し、風の匂いを探る。甘い祭りの香りの奥に、ひんやりと湿った森の気配――。


 同じく、森を探っていたアルヴァが、わずかに眉をひそめた。リリアナもふと口元の笑みを引き締め、視線を森の方角へ向ける。 


 祭りの光と囃子の輪の外――そこから滲み込むように、三人の間へ、言葉にならない小さな警戒が流れ込んだ。夜風が一筋、肩をなぞり抜けていく。



「……話を聞かせてください」


 ギルドマスターは満足そうに頷き、三人を広場の喧噪から離れた道へと導いていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る