第二話「誘う風の中で」
蜂蜜と炭酸のやさしい甘さがまだ舌に残る。三人は人波の中をゆっくりと進み、陽を反射する提灯の列を眺めながら、再び屋台通りを歩き出した。
通りの一角、バターの香りがふわりと漂ってくる。小さな鉄板屋台の上で薄い生地が焼かれ、溶けたバターがジュウ、と音を立てた。
「旅の人、祭りに間に合ったとは運がいい」
快活な店主はクレープを紙に包み、笑顔で差し出す。その笑いの奥に、一瞬だけ翳りが差したのを、セイラは見逃さない。
「……とはいえ、この季節はあんまり商売繁盛とはいかないがな」
不思議そうに首を傾げるリリアナに、店主は小声で続ける。
「街の外れの森道が、今じゃほとんど使えなくなっちまってる。馬車は遠回りだし、商売人は困り果ててるさ」
アルヴァが肩越しに振り返り、何気なく問いかける。
「崩れた橋でもあったのか?」
「……いや、そういう単純なもんじゃねぇらしい。通い慣れた奴らでさえ、妙に道を外すんだとよ。歩いてるはずが、気づけば森の入口に立っているって話だ」
「道に詳しい人でも?」
セイラは、世間話の調子で尋ねた。
「ああ、馬車曳きのベテランでもだ。森が道を拒んでるみたいだ、なんて冗談を言う人もいるね」
祭囃子がどこか遠く、風に混じって消える。セイラは言葉を挟まず、手の中の温かな紙包みを少し握りしめた。
角を曲がれば、香ばしい胡麻とパンの匂いが迎えてくれる。籠に山積みの丸パンが午後の日差しを受けて輝き、皮の割れ目から湯気を立てていた。
袋詰めの間、パン屋の店主は世間話のようにこぼす。
「森ってやつは、昔から妙な話が付きまとうが、今はさすがに笑えないね。……近頃は、『森が生きてる』なんて真顔で言う人間まで出てきた」
セイラは軽く笑みを返すが、その視線は何かを計るように深く落ち着いていた。
「まったく、森のせいで粉の仕入れが減っちまって……。商人が何度も同じ道を歩かされるなんて、聞いたこともないよ」
通りを進む途中、アルヴァがふと足を止めた。
木の台に色とりどりの景品が並び、その奥には少し色褪せた的が立てられている。屋台の主人がにやりと笑った。
「おや、旅の詩人さん。腕前、試してみないかい?」
「試そうじゃないか。詩だけじゃ腹は膨れんからな。たまには的も射抜くさ」
軽口を返すと、木製の銃が手渡される。アルヴァは肩に構え、片目をすっと細めた。祭囃子がほんの少し遠のき、視界には的だけが鮮やかに浮かぶ。
――パァン。
乾いた音とともに、一つの的がふらりと倒れ、隣の小さな鈴が揺れて澄んだ音を鳴らした。
「ほう、見事だねぇ」
「俺の腕はまだ詩に歌われるほどじゃないさ…けど今日は、風が俺に惚れてくれたみたいだ」
笑いながら銃を返すと、店主は小さな紙袋を差し出した。中には、干し果実を蜜で固めた金色の飴玉が、陽を受けてほのかに光っている。
「おまけだよ、詩人さん。旅の途中で甘いもん食えば、いい詩も浮かぶだろ」
アルヴァは軽く会釈し、袋を指先で揺らして鈴の音を真似た。だが次の瞬間、背後から吹き抜けた風が妙に冷たく、甘い香りの中にどこか湿った匂いを運んできた。その風は、森の方角からだった。
通りの先、八百屋の店先が秋色で溢れていた。朱と橙の柿、艶やかな林檎。店主が籠を揺らしながら、「ほら甘いよ」と試食を勧める。
リリアナが甘い果汁に目を細める横で、店主は低くつぶやく。
「森を抜けようとして、幻を見たって話もあるらしいよ」
「幻?」
アルヴァが眉を上げる。
「家族や懐かしい景色が見えた、とか……。中には、今はもう会えない顔を見たなんて話もね。森が人を選ぶ、なんて昔話があるだろ? これじゃあ、本気で信じる人が出てきたのも無理ないね」
「占いで見る夢は美しい方がいいけど……道で見る夢は趣味が悪いわね」
リリアナが皮肉めいた笑みを浮かべ、アルヴァは肩をすくめる。
「詩になるかもしれないが、口ずさむ気にはなれんな」
三人は再び賑わいの中へ紛れ込む。香辛料と甘い果物の香りが入り混じる祭りの空気は、変わらず温かく、人々の笑い声も絶えなかった。
けれど、旗越しに見える森の奥は、陽を浴びているはずなのに、どこか遠く霞んで見えた。その静けさだけが、セイラの胸の奥にそっと影を落としていた。
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