第五章『お祭りゆきの道すがら』 

第一話「秋の匂い、森の湿り気」


 秋空は高く澄み、青がどこまでも広がっていた。

 悠々と風が街の上空を渡り、頬にひんやりと心地よい感触を残す。夏の余韻はまだ少しあるが、確かに空気は秋の色になっていた。


 道沿いの並木は、赤や橙の衣をまとっている。落ち葉が風に舞い上がり、足元できゅっと鳴った。


「……この香り、秋だね」

セイラが顔を上げ、鼻先で一息すくった。焼き栗の甘さ、蜜漬けの果実、香辛料のきいた肉串の匂い──胸が少し弾む。秋の収穫祭が近い証拠だった。


 街の中心には大きな広場が広がり、その周りには露店が立ち並んでいた。客を引き込むための呼び声が賑やかに飛び交う。飾りつけられた提灯の灯りが、これからの祭りの熱気を予感させていた。


「占い一回、いかがですか?」

 通りの片隅、セイラの声が響く。屋台の隙間に小さな卓を出し、手相や星占いで客を迎えていた。


 隣ではアルヴァが竪琴を弾く。軽やかな旋律を風に乗せ、人波を眺める。小銭が投げ込まれるたび、片目を細めて礼を返している。


「セイラ、あまり稼ぎ急ぐと詩にならないよ? 物語の前奏はゆっくりがいい」

「祭り前だからこそよ」

セイラは淡く笑う。

「みんな、不安を解いてから祭りに臨みたいの。今のうちに占っておけば、安心して祭りを楽しめるって思ってくれるでしょ?」


 アルヴァは肩をすくめて、弦をより賑やかに爪弾いた。途端に、リリアナが舞い出る。


 秋風を受けたように軽やかなステップ。視線が吸い寄せられていく。


「おや、また舞台を横取りか? まるで夜空に咲く一番星みたいに、どこにいてもスポットライトをさらってくよな」

「光を浴びるのは好きなの。せっかくなら楽しむほうがいいでしょう?」

仮面の奥の瞳が、祭りの光をきらりと反射した。


 踊りの手のひらがくるりと舞い、リリアナはその美しい姿を披露しながら周りの人々に視線を送ると、少しずつ、集まる人々の数が増えていった。やがて人垣は厚くなり、笑い声が広場に満ちる。


「……こうしてると、旅の疲れも風に溶けるな」

「たまには休むのも悪くない」

露店の向こう、子どもたちが走り回っている。幸せの匂いが空気に混ざっていた。


 占いの結果をひと段落つけたところで、周りに目を配る。空気の中には幸せな気配が漂い、祭りを待つ気分が次第に高まっているのが分かる。


 しばらくその光景に目を奪われていたセイラは、再びアルヴァとリリアナの様子に目を向けた。


 リリアナは踊りながら客を引き寄せ、アルヴァは軽い冗談を交えながら堅琴を弾いている。

 

 その楽しげな様子を見て、セイラもまた心が穏やかになった。



「でも──この平和、長くは続かないかも」

セイラのつぶやきに、リリアナが舞を止めて振り返る。


「どうして?」

「直感よ。……風が変わったから」

アルヴァが弦を止め、指で軽くリズムを取る。

「なら、その風の曲を一曲……だが今は祭りを楽しもうじゃないか。美味しい食べ物と楽しい時間は、嵐の前の必需品さ」

軽口に、セイラもリリアナも笑みを返した。


「そうね、今日はそのための日だわ」

 セイラは占いのテーブルの準備を整えながら、空を見上げる。金色の光が街を照らし、その中で楽しい音楽と共に祭りが盛り上がるのを感じていた。



 石畳を踏むたび、落ち葉がからりと鳴る。両脇の屋台からは、焼き栗の弾ける音、煮詰まる蜜の泡の音──通りのすべてが誘惑だった。


 商売を一段落させた三人は、お祭りをより楽しむために、のんびりと歩いていた。


「ほら、あれ見て!」

淡い青の半面仮面をつけた彼女は、踊り子らしい軽やかな仕草で人混みをすり抜け、露店の前に立った。木箱一杯のガラスが陽を受けて煌めいている。


 

「……光が溶けてるみたい」

ガラス玉をそっと持ち上げ、光を透かす横顔は、祭りの喧騒の中でもひときわ目を引いていた。


 ふと背後から軽口が飛んだ。

「おや、見るだけなんて、君の物語に“傍観”なんて単語、あったとは思えないけどな?」  

 堅琴を背負い、口元だけを覆う仮面越しに笑う声は、軽やかで少し挑発的だ。


「あら、我慢できる女じゃないって知ってるでしょう?」

 リリアナはさらりと返し、店主と値段のやり取りを始めた。その横で、セイラは淡いブルーのローブの袖を押さえ、肩にかかる星座の刺繍を揺らしながら、別の棚を静かに見ている。


「……細工が細かい。これ、熱で曲げるだけじゃなくて、削って形を整えてる」

ぼそりと呟いたセイラに、店主が誇らしげに頷いた。

「お嬢さん、よく分かるねぇ。父親の代から続く職人仕事だよ」


 そんなやり取りを背中で聞きながら、アルヴァは別の露店に視線を向けた。香ばしい匂いに、ふらりと反応する。

「……ちょっとご用だ」

言うが早いか、彼は人混みに紛れて消えていった。



「やぁ、占いのお嬢さん。今日のお客は、すっかり恋色に染まってたらしいじゃないか。」

焼き串を片手に戻ってきたアルヴァが、からかうような声をかけてくる。

「季節のせいかしら。秋は人の心も色づくものよ」

ヴェールの端を押さえるセイラ。その肩では金糸で縫い取られた星座が揺れていた。


 広場から鈴の音。リリアナだった。いつの間にか、買い物を終えて、どこかへ行っていたようだ。


「お二人とも、こっちこっち。出店で蜂蜜酒の試飲をやってるみたい」

踊り子の仮面が午後の光を受けている。左半分だけを覆う白磁の面の向こうで、瞳は楽しげに細められていた。


「昼からか?」

アルヴァが笑いながら言う。

「祭りだもの。私たちはジンジャーエールだけど」


 腰の鈴を鳴らしてリリアナは、誘導するように、先を歩き始めた。


 三人は香辛料の匂い漂う通りを進む。干し葡萄の陶器、琥珀色の飴細工、小さな護符──目移りする物ばかりだ。


「村でお世話になった子に似合いそう」

セイラは薄紫の布包みを手に取り呟く。

「じゃあ俺も何か──」

「アルヴァはすぐ調子に乗るから、また荷物が増えるわよ」

リリアナが笑って言った。


 笑い声と秋の風が交じり合う中、ふと耳に重い響きが届いた。祭りの喧噪をかき分けるような、低く湿った声。


――泣く森、また……。


 わずかな言葉。だが、耳に引っかかる響きだった。声の主は、露店の奥にいる老人たち。音は人波に紛れて消えた。 


「泣く森……?」


「何か言った?」

アルヴァが振り返って、首を傾げた。

「……気のせいかも」

そう笑ったリリアナの胸に、ざらつきだけが残った。


 その後も、通りはにぎわいを増していた。

 大道芸人が皿を宙に放り、笛吹きが軽快な調子で人の足を誘う。子どもたちの笑い声と、樽酒を傾ける大人の声が混じり合い、まるで街そのものが呼吸をしているようだった。


 しかし、その隅に、灰色の影が落ちている。

 子どもたちのひそひそ声が、落ち葉の擦れる音にかき消されていた。


「――あの塔、今は入っちゃいけないんだって」

「行った人、戻ってこなかったらしいよ」 

 

祭りの色彩の中で、その噂だけが静かに根を張っていた。


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