第五話「崩れゆく声、こぼれゆく想い」


 足もとの石が――かすかに、呻いた。


 微かな音が、湿った地下の空気を伝って広がる。天井から吊り下がる鍾乳石がわずかに震え、そこから粉雪のような石片が静かに降り落ちた。


 セイラはゆっくりと顔を上げた。

 岩肌に走る細い亀裂。そこから、白く細かい粉が、まるで吐息のように漂い出している。


「……長くは、もたない」


 低く落とした声は、妙に広がって壁に吸い込まれた。アルヴァもすぐに気づいたのだろう。亀裂を一瞥して、小さく頷く。その瞳は、戦場で死を予感した兵士の色をしていた。


 ほんの少し前まで、祭壇の上には途切れぬ祈りの唄があった。


 しかし今、その音は消え――代わりに、石の軋む不吉な響きが、耳の奥でじわじわと広がっている。


 足元には、祭壇の周囲に山のように積まれた遺品があった。煤で黒ずんだ布、折れたランタン、指先の破れた手袋……。セイラはひとつひとつ確かめるように拾い上げる。


 革紐の切れたロケットペンダント。

 錆びた鉱夫のツルハシ。

 そして――掌ほどの小さな鉱石。


 暗がりでも、その鉱石は淡く脈打つように光を返していた。まるで地中に封じ込められた小さな太陽が、息をしているかのように。


 セイラの心臓が跳ねる。

 ――陽晶石。

 この村の坑道では採れないはずの鉱物。古い伝承では、太陽の波長を持ち、どんな病でも癒すとされる“神の贈り物”。


「……持っていく気か?」


 アルヴァの声は、囁きなのに刃のようだった。セイラは一瞬だけ躊躇し――だが、その輝きを懐に滑り込ませた。


「必要になるかもしれない」


 次の瞬間だった。

 地の底から、土と石がきしむような低い呻き声が響いてきた。足元が、ごくわずかに震えている。


 ――崩れる。


 最初にそれを感じ取ったのは、リリアナだった。仮面を押さえ、壁際の影たちを一瞥する。祈りを捧げていたはずの地底の民が、ざわりと動き始めている。仮面の奥の瞳に、崇拝とは異なる光――獲物を逃すまいとする、飢えた捕食者の光が宿っていた。


「……来るぞ」


 地鳴りが、背骨を震わせるほど近づいた瞬間、セイラはアルヴァの腕に引き寄せられていた。


 天井が唸り、岩が裂け、重い空気が渦を巻く。濁った風が吹き抜けるたび、灯火が揺らめき、視界の端で何かが蠢く。


 ――何かが笑った気がした。


 岩が崩れ、音が飲み込まれていく混沌の中、アルヴァの矢が放たれた。


 通路の天井に打ち込まれた魔導式の光が炸裂し、白い閃光が一瞬だけ世界を照らす。


 その光が映し出したのは――地底部族の異形の輪郭。骨の装飾を纏い、肌に刻まれた無数の印。


 瞳だけがぎらぎらと光り、口元には笑みとも痙攣ともつかぬ歪み。


 セイラは息を呑む。それは生き物でありながら、まるで闇そのものが形を持ったようだった。


「今だ、走れ!」


 アルヴァの声が、土煙と轟音を切り裂いた。

 三人は一斉に駆け出す。背後では影たちの喚声と、崩れゆく岩の咆哮が重なって響く。


 通路は狭く、壁にまとわりつく闇が肌を撫でる。けれど崩落は幸いにも、地底の民の進路を塞ぎ、追跡を遅らせていた。


 石片が頭上をかすめ、冷たい風が頬を打つ。

 息は苦く、肺の奥まで埃が入り込む。

 それでも――前に進むしかなかった。


 そして、微かな冷気が頬をかすめた瞬間、闇が破れた。


 崩れた岩の隙間から差し込む光は、夜明けのように柔らかく、それでいて泣きたくなるほど遠かった。


 地下迷宮――信仰の闇が澱むその奥底から、セイラたちは、どうにか地上へ辿り着いた。


 不安定な地盤に響かせた音が、崩落を誘う。リリアナが選んだその賭けは、わずかな狂いがあれば全員を呑み込むものだった。


 それでも、奇跡のような間隙が生まれ、粉塵と轟音の幕を抜け、三人は夜の森に吐き出された。


――生きている。


 その事実だけで、胸の奥が締め付けられる。安堵と、言い知れぬ苦さとが絡まり、息が深く吸えない。


 森の高みから、夏の風が吹き下ろしてくる。焦げた粉塵の匂いを拭い去るように、柔らかく、けれど確かに。


 視界の端に、土と煤にまみれた小さな布袋が落ちていた。ほどけた紐から覗く鉱石の欠片――あれは、彼が命を懸けて取りに行ったものだ。


 セイラは膝をつき、そっと袋を拾い上げる。掌に感じる重みは、ただの石の質量ではなかった。そこには物語が、祈りが、命の温度が詰まっていた。


「……帰ろうか」

アルヴァの声が背後から届く。


 光矢に照らされた“彼ら”の影が、まだセイラの脳裏から消えない。そこにあったのは、怪物でも、ただの狂信者でもなかった。曇りのない瞳をした、人間の姿だった。


 リリアナは黙って仮面をつけ直す。あの偶然――仮面が“神の印”と見なされた一瞬がなければ、今ここにいる三人はいなかっただろう。


 偶然は、風と同じだ。

 ひとたび吹けば、運命の向きすら変えてしまう。



 村に戻ったとき、湿った地上の空気が肺を満たした。迎えに来ていた鉱夫の娘、ミーナが、三人を見つけるなり駆け寄ってくる。


「お父さんは……?」

問いは、祈りと怯えがせめぎ合う声だった。


 セイラは懐から遺品を取り出す。革紐の切れたロケット、錆びた道具、そして――陽晶石。

 

 鉱石を見た瞬間、ミーナの唇が震えた。


「……やっぱり、あったんだ」

 彼女は、父が病の母のためにこの石を探していたと語る。陽晶石は、病を癒す力を持つと信じられ、祈祷や薬にも用いられた。だがその鉱脈は“神の領域”とされ、踏み入ることは禁じられていた。


「母さんを……助けたかったんだと思う」

ミーナは鉱石を抱き締め、俯く。


――彼は、恐怖を承知で闇に潜った。


 それは神への供物でも、信仰のための犠牲でもなかった。ただ、愛する家族を救うために。


 セイラの胸が痛む。占断の必要などない。答えは、この温もりの中にあった。


 人の優しさは、ときに誰かを危険へと導く。

 それでも、人は願わずにはいられない。

 その想いが、命を動かしてしまう。


 気づけば、涙が頬を伝っていた。それは恐怖の涙ではない。あまりにも優しく、脆く、そして尊いものを見てしまったがゆえの涙だった。


 仮面の内側で、心が震える。

 風のように届いた想いが、誰かを動かし、運命を変える――その力を、知ってしまったから。


 遠くで、アルヴァの詩が響く。


『 風よ 通り過ぎよ

 願いと共に

 涙は いつか 誰かの光になる』



 リリアナは焚き火のそばで無言のまま、詩に耳を傾けていた。仮面の奥で、わずかに睫毛が揺れるのを、セイラは見逃さなかった。


 それでも――地底で聞いた祈りの唄は、胸の奥に残っている。あの仮面の民は、今も闇の中で呼び続けているだろう。名ではなく、存在そのものを。


 その呼び声は、またいつか誰かを引き寄せるかもしれない。そしてその時も――闇は、口を開けて待っている。



 夜が、深く降りてくる。

 三人は再び旅支度を始めた。

 風が、遠くで誰かを呼んでいる。


 セイラは思う。


 ――願いの行方を知るために、私はまだ旅を続けるのだと。


 仮面とともに、風とともに。

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