第四話「闇の祭壇、偶然の救い」
空気が違っていた。肌を撫でる冷たさでも、嗅ぎ慣れぬ鉄の匂いでもない。
――祈るような、沈黙。
それが洞の奥に満ちていた。
「……あれは……」
セイラが小声で漏らした先、岩肌の狭間に並んでいたのは、人の持ち物と思われる金属片だった。
煤にまみれ、錆びついた懐中時計の鎖、破れた布切れ、くすんだ名前の縫い取り――。確かに、この村から消えた鉱夫の名だ。
「遺品、だな……」
アルヴァが慎重に屈みこみ、片手で矢を抜く。触れれば崩れそうな布きれに、音を立てぬように指を這わせる。
「なぜ、ここに?」
問いかけたリリアナの声には、かすかに震えがあった。仮面の下、その瞳が鋭く洞奥を見据えている。
セイラが首を振る。
「置かれたものではない。集められたの。何かの“意図”で、ここに」
遺品たちは、円を描くように並べられていた。中央には石の台座があり、奇妙な線刻が走っている。それは言葉にも見え、絵のようでもあった。信仰の、痕跡。
と、不意に。
――コツン。
背後、闇の向こうで小石が転がる音がした。
三人の身体が一瞬にして固まる。リリアナの指先が、仮面を押さえた。アルヴァは弓を引きかける。
……しかし何も見えない。ただ、音だけがある。
その音が――まるで、三人の心を探っているようだった。
沈黙を破ったのは、低く囁くような声だった。
「……ナーサ、ナーサ……」
それは言葉だったのか、風の音だったのか。けれど確かに、誰かが呼んでいた。ただし、それは名ではなかった。
“それ”は、存在そのものを呼ぶような響きだった。
セイラがとっさに幻術を張った。目に見えぬ靄が三人を包み、視覚の印象を撹乱する。
しかし――
「……効かない……?」
光の揺らぎが、霧の中で吸い込まれていく。まるでこの場そのものが、幻術の上位にあるように。
「おい、来るぞ!」
アルヴァが矢をつがえ、放つ。矢は一直線に飛び、岩壁に当たって光の火花を散らす。
その一瞬、光の中に何かが浮かび上がった。
――褐色の肌。金属ではなく、骨のような装飾。顔を覆う、土の仮面。
それは人のようでいて、人でない何かだった。
部族の、影。
「逃げて!」
リリアナの声と同時に、三人は踵を返して走った。
闇の中を、風もなく、足音だけが響く。
……そして突然、開けた空間に出た。
そこは、儀式の空間だった。粗末な石造りの祭壇、壁を這うような線刻、そして――
複数の影が、三人を囲んでいた。
顔を覆う仮面。全員が異なる形の仮面を身につけている。布で口元を覆う者、獣の骨の冠を被る者、目元だけを隠した者。まるで、仮面によって「意味」が分かたれているようだった。
囲まれた空気の中、最初に動いたのはリリアナだった。彼女が無意識に、仮面に触れた瞬間――
周囲の影たちが、一斉にひれ伏した。
「……え?」
リリアナが戸惑いに仮面を見下ろす。
「……“ナー=シャ”の印……?」
影のひとりが、そう呟いた。
セイラは息をのんだ。
「仮面……リリアナの仮面が、この部族にとって“聖なるもの”と見なされた……?」
静寂の中、リリアナが一歩、前に出る。その姿を、部族たちは膝をついて仰いでいた。
セイラは、その光景に――ぞっとした。
仮面とは、本来、自らを隠すものだったはずだ。けれど今、それが「意味を与える神性」になった。
この地底の民にとって、仮面は「名」ではなく「存在そのもの」だった。
――偶然か、必然か。
リリアナは、たまたまその形をつけていたに過ぎない。だが、偶然とは、信仰の世界において最も恐ろしい運命の歪みを呼びこむ。
それは、セイラの胸に言いようのない不安を刻んだ。
リリアナの仮面が、この部族にとって何を意味するのか。そして、「仮面をつける」という行為そのものが、この洞の“闇”に、どんな意味を与えてしまったのか。
深く、静かに、祈りが始まった。
岩の壁に手をあて、何かを捧げるように、部族たちは呻くような声を上げていた。
「ナァ……ナァ、ル=ナーシャ……」
その声の奥に、何かが“呼ばれている”。
まだ、姿を見せぬ“何か”が――
仮面の聖印、闇の信徒。その像の前に、失踪した鉱夫のものと思われる――煤けた革帽と、小さなペンダントが置かれていた。
セイラはそっと歩み寄り、周囲を確かめながら、指先で革帽を持ち上げる。煤と土にまみれているが、金属の留め具には、確かに家族の名が刻まれていた。村で見せてもらったものと一致する。
「……彼は、ここで」
声を震わせそうになりながら、セイラは口を閉ざした。遺品がここにある――つまり、それは帰ってこなかったということ。
リリアナが像を見上げる。その仮面の奥、目ではなく、何かの“穴”が刻まれているような顔。
「これ……神の像、なのよね。彼らにとっては」
呟きながら、リリアナは無意識に自分の仮面に手を触れる。その時だった。
――ザザ……
奥の通路から、何かを引きずるような音がした。生きものではない。何かが、這っているような。空間の中で反響する音が、一定のリズムを乱している。
セイラがそっと手を上げ、アルヴァが弓に矢を番える。闇の中を注視する。
だが、そこに姿はなかった。代わりに――
「……声が、する」
リリアナが囁いた。
その声は、確かに響いていた。どこかから、誰かが、言葉にならない音を囁いている。
音ではない、意味でもない。“存在そのもの”が、そこに語りかけているようだった。
セイラは占いの術式を組もうとしたが、またしても幻術は効かない。視界が揺れ、形を結ばない。まるで、“この空間そのものが視えない”ような、異質の歪み。
「――来たぞ」
アルヴァの矢が、光を灯しながら放たれた。矢は天井に当たり、わずかに反射して――
その瞬間。
岩陰から這い出た“何か”の影が、一瞬だけ浮かび上がった。
仮面のような顔。皮膚か布かわからぬもので包まれた頭部。胴は人のようで、人でなく。細く長い指先が地面を這っている。
その異形は、矢の光に焼かれるように後退し、やがて闇に沈んだ。
一行は一気に警戒を高め、像の裏へと身を潜めた。
その時――
足元の地面に、円形の文様が浮かび上がった。
石に刻まれた複雑な紋。その中心に、リリアナの足がわずかに触れていた。
同時に、空間の音が変わった。
風が吹かぬはずの地底に、渦巻くような気配が生まれる。
――ゴォ……
周囲の壁に描かれていた線画が、ゆっくりと、光を帯びてゆく。それはまるで、古の儀式の発動を知らせる灯火。
「なにこれ……!」
リリアナが下がろうとしたが、地の文様は彼女の動きを“歓迎するように”輝いた。
すると、闇の中から無数の気配がにじみ出た。
さきほどの異形たち。数ではなく、“密度”で迫る者たちが、儀式の場に集まってくる。
しかし――彼らは、リリアナに一歩も近づこうとはしなかった。
否。
彼女を、崇めるように跪いた。
仮面をつけたまま、沈黙の祈りを捧げるように。その様は、まるで……リリアナを神の使いと誤認しているかのようだった。
「……え?」
リリアナ自身も戸惑いを隠せなかった。だが、アルヴァが低く笑った。
「ふ……どうやら、お前の仮面が、神の顔に見えたらしいな」
「それって、つまり……」
「救いだよ。今はな」
セイラが冷静に答える。
「信仰によって助けられた。ならば、こちらも、それを利用するまでです」
彼女はリリアナに目配せし、小さく囁いた。
「仮面を、外さないで」
リリアナはうなずいた。
異形たちの祈りの中、一行はその中央を、静かに、神の使いの“行列”として通っていった。音もなく、ただただ仮面が、導く光となって。
地底の大空洞には、音が満ちていた。だがそれは、耳に届く音ではなかった。
岩を伝って震える足裏の感覚。仮面越しに頬を撫でる、乾いた息のような気配。そして、誰かの声が――頭の奥で、囁いていた。
「……セイラ、大丈夫か?」
アルヴァの声に、セイラはかすかに頷いた。視界はぐらつき、幻術を張るには魔力の流れが乱れすぎていた。光も、音も、形を成さない。理が通らない場所だった。
「音が……歪んでる……空間そのものが、まるで……逆流してるみたい」
「神の器……その顔、聖なる印……御遣い……」
奇妙な言語が混じる囁きが、次第に輪郭を持ちはじめる。リリアナが前に出ると、彼女を囲むように現れた影たちが、ふいに距離を取った。
「え……?」
その瞬間、空洞を包んでいた狂気のような気配が、わずかに鎮まった。
リリアナの仮面――左半分だけを覆い、無表情に微笑むその仮面を、地底の民たちは「聖なる印」として見ていた。
誰かがひれ伏す。
誰かが祈るように震える手を伸ばす。
誰かが、号泣する。
「……なんで……?」
リリアナは後ずさったが、影たちはそれ以上は近づかない。ただ、ひたすらに崇めるような視線を仮面に注いでいた。
セイラは息を整え、懐から探知の紙片を取り出す。静かに魔力を流し込むと、淡い光の残滓が、地面に残された痕跡を照らした。
「……あった」
それは、村で行方不明となった鉱夫のもの――ぼろぼろになったランタンの欠片と、家族の名前が書かれた護符。
すでに、主はここにいなかった。
だが、それが何を意味するかは明らかだった。
「彼は……“神に捧げられた”んだ。信仰の犠牲として」
セイラの声が、硬く、静かに響く。アルヴァが矢を半ば引きつつ、静かに目を細めた。
「――ここから出よう。この“崇拝”が、いつ“捕縛”に変わるか分からない」
リリアナは仮面を押さえながら、小さく頷いた。
そして、彼らは静かに退いた。音を立てず、敵意を見せず、崇拝の中にまぎれるようにして。
背後に、誰かの呻きと、祈るような唄が重なった。
「仮面を持つ者よ……風の神の、御使いよ……お戻りを……」
誰かが、泣いていた。
だが、それが哀しみなのか、歓喜なのか、それとも何かまったく別の感情なのか――
誰にも、わからなかった。
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