第三話「森は静かに呼び寄せる」


 広場を抜けると、背後の喧噪は少しずつ遠ざかり、代わりに夜風が葉をすり合わせる音が耳に届いた。提灯の灯りもまばらになり、祭りの匂いに混じって、土と木の湿った匂いがひそやかに漂う。


 ギルドマスターは足を止め、周囲を一巡だけ確かめてから口を開く。その声は、賑わいから離れた空気の冷たさを伴っていた。


「森の調査には、これまで何組もの冒険者が向かった。だが──戻ってきた者は皆、口を揃えて“何もなかった”と言う」


「何も、ねぇ?」

アルヴァが鼻で笑い、肩を片方だけ上げる。


「森は静かだが……道は一歩ごとに景色が変わる。木の位置も、陽の傾きも……足跡すら掻き消える。まるで歩く者を迷わせるために形を変えているようだ」


「それは……魔獣や魔物の仕業ではないのですか?」

セイラが静かに問う。

「可能性はある。しかし、痕跡が何ひとつ残っていない。森の入り口で足がすくみ、引き返した者も多い」


 短く言葉を区切ったあと、ギルドマスターの瞳に一瞬だけ深い懸念が走る。


「……君たちの占い。幻や気配を見抜くその術が、やつらを破れるかもしれない」


 その瞬間、森の方角からひやりとした風が吹き抜け、遠くの太鼓が霞んだ調べに変わった。


「つまり、あたしたちは森相手に化かし比べってわけね」

リリアナが腕を組み、にやりと口元を歪める。

「気が進まねぇが……」

と、アルヴァがぼそり。

「行くんでしょう?」

セイラが穏やかに微笑むと、彼は視線を逸らし、小さく肩をすくめた。


 ギルドマスターは口元をわずかに緩め、一枚の地図を取り出す。紙面には森の入口と、調査が途絶えた地点が赤い印で記されているようだ。


「明日の朝、ギルドで詳しい準備をしよう。……今夜は祭りを楽しんでくれ」


 その声には、街を守る者としての安堵が、かすかに滲んでいた。



 ギルドマスターと別れたあとも、街は灯と笑い声で満ちていた。屋台の灯籠が風に揺れ、色とりどりの影が石畳をやわらかく流れていく。香ばしい匂いと甘い蜜の香りが、通りの空気にとけていた。


「さて……明日は森か。だったら、今夜くらいは遊んどかねぇとな」

アルヴァがそう言って、的あての景品に目を細める。弓を引く姿は板についており、屋台の客から「おお」とやんわり歓声が上がった。


 その横で、リリアナは輪投げに挑み、軽やかな手つきで金の鈴を射止めると、腰のあたりでちりんと鳴らして笑った。セイラはそんな二人を眺め、小さく息を吐く。


──そのときだった。


 賑わいの外縁に、沈むような静けさがあることに気づく。視線の先は、遠く森の方角。祭りの灯が届かぬ闇の底で、枝が揺れる音がやけに規則的に響いていた。


 それは、風の気まぐれな囁きではない。

 何かが、そこに身を潜め、こちらを計るように息を潜めている──。


「……セイラ?」

アルヴァの声が、その感覚を断ち切った。

「……いえ、なんでもありません」

ローブの裾をそっと握りしめ、セイラは笑みを繕う。


 戻ってきた太鼓の音が、祭りの輪の中心へ引き戻す。振り返ったときには、あの規則的な揺れも影も消えていた。


 ただ、森の闇だけが、まるで祭りを遠くから見下ろす者のように、静かに呼吸を続けていた。


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