第一話「日々はにぎやかに、音は遠く」Ⅱ


 町の外れ。草むらの陰に腰を下ろし、セイラは汗ばんだ額を拭った。リリアナは水筒をアルヴァに放り、アルヴァはそれを受け取りながら空を仰ぐ。


「暑い……これはもう旅というより、干されてる気分だな」


 誰に言うでもなくつぶやくアルヴァに、リリアナが肩をすくめる。


「だからって、そんな顔しないで。汗だくの詩人って、想像以上に夢がないわ」


「それは光栄だな。夢を壊せるほどには、抱かれてたってことだろ?」


「……よく言うわ」


 セイラは草を指先で弄びながら、黙って二人のやりとりを聞いていた。今日の仕事は薬草の採取。採れたての葉の匂いが、汗と陽射しに混ざる。


 この町の宿は涼しく、食事は温かい。

 人々の目には、親しみと感謝がある。


「……こんな日も、悪くないわね」


「こんな日“だけ”が続いてほしいって、たまには思うよな」


 アルヴァの声は、いつになく穏やかだった。




 だが、その日の午後。


 市場の隅に腰かけていた老人が、若者に向かって何かを囁いていた。


「……叫び声も、笑い声も、鶏の鳴き声も聞こえんのさ。あそこは“音のない村”だからな」


その言葉に、セイラの指が止まった。


「音のない……村?」


気づけば彼女は、無意識に立ち上がっていた。


「それって、どういう意味……?」


近くの果物売りが口を挟む。


「ああ、それなら俺も聞いたことある。北西の森を越えて、谷を渡った先だな。昔は“エンティアの集落”って呼ばれてたが……今じゃ誰も近づかねぇ。静かすぎて、気味が悪いってさ」


「静かすぎる……」


 リリアナが手にしていた桃をそっと台に戻した。仮面の奥の片目が、静かに細められる。


「人は、住んでるの?」


「らしいな。でも、話しかけても返事はないし、近づくと頭が痛くなるとか。とにかく“音”が消えてるんだと。鶏も犬も、何も鳴かねえ。しかも――」


果物売りは声を落とした。


「音を出すと、よくないことが起きるって話だ」


 市場の喧騒が、わずかに遠のく。


 セイラの脳裏に、かつての占いで見た“黒い静寂”のイメージがよぎった。


 音も気配も届かぬ、凍りついた空間。


 思わず、ローブの袖を強く握りしめた。空気の緊張をふとほぐしたのは、リリアナだった。


「……でも、今は果物が先よ。暑いんだもの。水分補給は、生き延びるための基本よ」


「まったくだな。俺は“音のない村”より、氷の入った果実酒のほうがずっと魅力的に思えるぜ」


「アルヴァ、それ未成年には売ってくれないわよ」


「おい、俺は吟遊詩人だぞ? 年齢なんて詩が許すかぎり、いくらでも曖昧になるんだ」


「つまり老けて見えるってことじゃ――」


「やめて、セイラ! それ以上言うと、人として戻れなくなる!」


 三人は笑いながら、市場の通りを抜けていった。笑い声が夏の空に溶け、店主たちが目を細める。



 その夜、宿では冷たいスープと甘い果物がふるまわれた。狩人の娘が焼いた素朴なパン、湖の小魚の揚げ物が並び、旅の疲れがゆっくり癒えてゆく。


 広場には紙灯籠が浮かび、子どもたちが願い事を囁いている。セイラは窓辺に座り、それを見下ろしていた。隣では、アルヴァが弓を磨いている。


「……ねぇ、アルヴァ」


「ん?」


「このまま、少しだけ立ち止まっててもいいかな」


「おう、いくらでも。風が止むのも、旅のうちだ」


リリアナが、ぽつりと呟く。


「……だけど、“音のない村”は気になるわ。怖いくらいに」


仮面の下の微笑みは、どこか影を帯びていた。


「わかるわ。その静けさ、自然のものとは思えない」


 セイラの声が、かすかに揺れた。彼女の指が、革袋の中のカードをそっと撫でる。


「占ってみようか?」


「いや、今日は休め」


アルヴァの声は、いつになく優しかった。


「占いは、明日も逃げないさ。今日は“音のある町”の、最後の夜かもしれないしな」


その言葉に、セイラは微笑んだ。



 風はなく、蝉の声も止んでいた。だがその静けさは、今はただの――穏やかな休息のように思えた。


彼らはまだ知らない、

“沈黙”が孕む真の意味を――


それが、旅路に再び影を落とすということを。



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