第二話「暮らしは見えて、音は見えず」
空は、果てのない藍の海だった。
夏の雲は高く、風の道を忘れたかのように、空に根を張っている。木々は静かに枝を揺らし、土の匂いは陽射しに焼かれて濃くなる。
その高台に立つ三人は、言葉もなく、ただ眼前の風景に視線を注いでいた。
遠く、谷間の平地に、ぽつりと一つの村があった。
それは、一見すればごくありふれた、のどかな山間の村だった。麦を刈る農夫の姿、物干しに洗濯物を干す女たち、駆け回る子ども。煙突から上がる白い煙が、生活の温もりを伝えている。
だが──
「……静かすぎるわね」
セイラの声が、空気をかき乱すように低く響いた。
その村からは、何一つ“音”が届いてこない。どれほど風が吹いても、葉がさざめいても、人々が動いても、鳥が空を横切っても。
そこには、“音”という現象が、まるで最初から存在しないかのようだった。
「聞こえないな……ほんとに、なぁんにも」
アルヴァが腰に下げていた小石をひとつ拾い、軽く放り投げる。石は高台の縁から転がり、岩肌に当たりながら、村の方角に向かって落ちていった。
が──。
何も音がしない。
カツン、とも、ザラッ、とも言わない。ただ、目の前から物理的に石が消えていくかのように、石は静かに、吸い込まれるように、谷へ消えていった。
「今の、聞こえたか?」
「……聞こえるわけないでしょう、アルヴァ。結界ね。しかも、かなり広範囲……」
セイラがローブの袖を翻し、胸元からひとつの水晶を取り出す。光を受けたそれは、まるで凍てつくような青を灯しながら、静かに回転を始めた。
「物理的な“防音”とは違う。音の“原因”そのものが、何かに干渉されてる。……振動すらも、封じられてるの」
「ってことは……あの村、音を出すこと自体ができないってことか」
アルヴァが肩をすくめる。珍しく真面目な顔だ。
「“耳が聞こえない”んじゃなくて、“世界が黙ってる”って感じ、ね」
リリアナが目を細め、村の方角に指先を向けた。
セイラとアルヴァが振り向くと、リリアナはゆっくりと足を運び始める。その所作はまるで舞の序章のように優雅で、風と戯れるかのような柔らかさだった。
──一歩、二歩。
リリアナの呼吸が変わる。
「……これは、ただの結界じゃない」
そう呟いたときのリリアナの声は、どこか遠く、祈りのようだった。
「この空気……“汚れ”を拒んでいるわ」
セイラとアルヴァがわずかに身を固くする。
「“汚れ”?」
「そう。踊り手が舞台に立つとき、空気が“整う”の。音も、光も、視線もすべてが一つの流れになる。……でも、これは違う。これは、“呼吸”してる」
彼女は、薄紅の唇を引き結ぶと、小さく首を振った。
「まるで、村全体がひとつの“生き物”みたいに。音を、意図的に飲み込みながら、生きてるのよ……」
「村が、生きてる……」
アルヴァの声に、空気が震えたような錯覚が走った。
静寂はなお、村の中で深く息をひそめている。どんな音をも呑み込み、排除し、“世界”そのものが、語ることを禁じられたかのように。
セイラはそっと、青い水晶を胸元に戻した。
「──この村、ただの結界じゃない。意思がある。あれは、誰かが張った防壁じゃなくて……“村自身”が築いた沈黙よ」
谷を下り、三人は村へと続く緩やかな坂道を歩いていた。鳥の囀りも、小川のせせらぎも、靴音すらも──すべてが消え失せたような、異様な沈黙。
木々の葉は確かに揺れている。草を踏めば土は沈み、風はローブをなでて通りすぎていく。
だが、その一切が音を伴わない。
足元の砂利を踏むセイラの靴の底が、わずかに白く曇る。けれども、ジャリ、というあの微かな音すら存在しなかった。
「……こんなに音がないと、逆に頭がくらくらしてくるわね」
セイラが口を開く。彼女の声も、耳に届いた瞬間に吸い込まれてしまうかのように、淡く、空気に溶けていった。ただし、それは聞こえないのではなく、響かないのだ。
誰かが意図的に、音が“残る”ことを拒絶している。
「まるで、音に触れようとすると逃げられる感じだな」
アルヴァは試しに、指を弦に滑らせる仕草をして、首を傾げる。
「弓も……使いどころを間違えると、ただの飾り木だな。 音のない世界じゃ、奏でれやしない」
彼が手にした弓の弦は、今は静かに沈黙している。ふだんなら風に触れれば微かに鳴るというのに、今はそれすらもない。
「これ、結界っていうより──禁域だわ」
セイラが立ち止まり、両手で空気をすくい上げる。
空間そのものが、“誰にも触れさせない”ように拒絶している。風の流れはあるが、それが振動として伝わらない。まるで空間の皮膚が、振動そのものを拒否しているように。
「リリアナ。さっき“呼吸してる”って言ったわね?」
呼びかけに応じ、リリアナはゆっくりと目を閉じ、舞うように一歩を踏み出す。その動きに込められたのは、“受け入れられる動き”──攻撃でも侵入でもない、ただ風に添うような所作だった。
ふと、空気の肌理がわずかに揺れる。
まるで、“誰か”が、その所作を一瞬だけ認識したように。
「……この結界、意志を持ってる。誰が入っていいか、誰が入ってはいけないか──“見てる”わ」
リリアナの表情は、いつになく張りつめていた。
「感情を拒む結界ではない。感情の“温度”を測ってる。“穢れ”を許さないのではなく、“穢れようとする心”を拒んでる」
「じゃあ……入るには、心を“澄ませる”しかないってことか」
アルヴァが眉を上げる。
「そうね。……敵意も、疑いも、力でこじ開ける意志も持たないこと」
セイラはひとつ、深く息を吸った。
──風は通っている。音はなくとも、風は、そこに“在る”。
「……入れるかしら、私たち」
「試してみようぜ。旅の占い師さんと、仮面の踊り子と、吟遊詩人──心は、けっこう軽いメンバーだろ?」
アルヴァが笑い、わざとらしく肩をすくめる。
セイラとリリアナも、つかのま視線を交わして、小さくうなずいた。
そして三人は、足を揃えて、沈黙の村へと踏み出す。
音なき境界を越えた瞬間──
空気が、一瞬だけ震えた。
それは風の震えでも、葉のさざめきでもなかった。
結界そのものが、わずかに“まばたき”したのだ。
風の中に、かすかな違和感が走る。音はない。だが、世界が“目を開いた”ような感覚。まるで村そのものが、三人の来訪を知覚したかのように。
──“音のない村”へ、占い師たちは踏み込んだ。
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