第四話「ひとつの矢、ひとつの願い」
村へ戻ってきたとき、空は澄みわたっていた。谷に巣食っていた魔物はすでに討たれ、風は毒を含まなくなっていた。それでも村に残る静けさは、どこか別の意味を持っていた。
──もう、誰もいない。
セイラとアルヴァは、村の中央、広場の噴水跡に立っていた。水は涸れ、石畳にひびが走り、苔がその隙間をやさしく覆っている。
「……ここで、あの子が、よく遊んでいたんだ」
アルヴァがぽつりとつぶやいた。噴水の縁には、小さな靴跡が風化しかけて残っている。
彼の言葉は誰に向けたものでもなく、それでいて、すべての亡き人々へ向けられているようだった。
セイラは静かに、ヴェールの下で目を伏せた。
残されたものの務めがある。旅立つ前に、ここに住んでいた命に、最後の別れを。
「始めよう」
アルヴァが言った。
「……弔いを」
日が傾き始めた頃、ふたりは村を歩き、静かに家々をめぐった。
倒れたままの椅子、干されたままの洗濯物、開いたままの本。そこにいた人々の気配は、もう見えはしないけれど、確かに残っていた。
セイラはそれぞれの家の戸を閉じ、結界の印を結んでいった。生と死の境を繋ぐ魔導師の印は、村の霊を乱さぬよう、やわらかな光で家々を包む。
一方でアルヴァは、墓の丘へ向かった。そこに新しい墓標を並べる代わりに、石を選び、木の枝を添え、簡素な印を築いていった。
そして、彼は立った。
風の吹く小高い丘の上、村を見渡すその場所で。
仮面の下、彼の唇がわずかに動く。しばしの沈黙──それは、音が満ちる前の静寂だった。
やがて、風のなかに、ひとすじの歌がこぼれ出した。
それは、歌というよりも「語り」だった。
言葉に旋律が宿り、祈りが宿り、思い出が宿る。
――この地に吹いた風は、
かつて笑い声を連れてきた。
焚き火の匂い、夜の子守唄、
そのすべてが、風のなかにあった。
今は、声は消え、灯は絶え、
けれど風はまだ、ここにある。
アルヴァの声は、深く、そしてやさしかった。まるで、耳元に吹く風のように。誰にも届かぬはずの声が、たしかに空に響く。
セイラはそのそばで目を閉じ、手を合わせていた。彼女の祈りは無言だった。けれどその沈黙は、言葉よりも重く、静かで、深かった。
夕陽が沈むころ、丘にはただ風だけが残っている。アルヴァはゆっくりと頭を下げ、そっと歌を終えた。
村の空気が、ふたたび澄んでいた。音が、風が、失われた命を抱いてどこかへ運んでいく。
夜が落ちた村に、灯りはない。だが、満天の星が、まるでこの地の魂を照らすように光っていた。
アルヴァは、焚き火の前で弓を解きながら、ふと呟いた。
「……俺は、あの風に逆らえなかったのかもしれない」
セイラが顔を上げる。仮面の奥、その眼差しは静かだった。
「弔いも、祈りも、遅すぎたかもしれない。だけど──それでも、生き残った俺に、何ができるのかって、ずっと考えてた」
火の揺らめきが、アルヴァの仮面に影を落とす。
「この弓を、誰かを守るために使いたい。歌も、矢も、俺の中に残った全部で。……風が通り過ぎる前に、また誰かが、消えてしまう前に」
彼の声は、小さな焚き火のようだった。熱くはない。だが、確かにそこに灯っている炎のように、消えることなく。
そして、彼は言った。
「……俺も、行く。セイラ。君と一緒に」
風が、ふたりの間を通り抜ける。その音は、もはや呪いではなかった。村に満ちていた不気味な静けさは、今は“安らぎ”としてそこにあった。
セイラはほんの少しだけ、仮面の奥で微笑んだ。そして、言葉をそっと返す。
「……占いには、なかった未来ね」
月が昇り、夜がその深さを増してゆく。ふたりの影は、ゆっくりと並ぶ。
ひとつの弔いを終えたあと、仮面をつけた旅人たちは、次の風を追いはじめる。
それはまだ、物語の始まりにすぎない。
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