第二章『風と仮面と、偽りの街で』
第一話「星の導き、風のままに」
朝靄に包まれた山道を、二つの影がゆるやかに進んでいた。
陽差しは柔らかく、風は静かに吹いている。深い緑を抜ける街道には、初夏の香りが漂い、小鳥のさえずりと、草を踏む音だけが旅路の伴奏だった。
淡いブルーのローブが、差し込む光にうっすらと揺れる。肩に施された星座の刺繍は、まるで天の導きをその身に纏っているかのように煌めいている。
占い師セイラ=ルクレースは、手にした木の杖で草を払いながら、気ままに道を進んでいた。ヴェールの奥にある顔は、歩きながらもどこか夢見心地な表情だ。
「ふふ……今日の風は、悪くない」
そんな言葉を漏らしながら、道の左右の草花に目をやり、時に立ち止まっては何かを占っている様子すらある。
──問題は、それが道に関係ないことも多いという点だ。
「セイラ嬢? ちょっと失礼するよ? そのまま進むと、街じゃなくて山だ。たぶん、次の町に着くのは三日後かな?」
軽やかで、どこか芝居じみた口調のその主は、吟遊詩人アルヴァ=フィーニス。肩に弓を背負い、軽快な足取りのまま、地図を持つ彼女の様子をちらりと見やった。
「星がこっちだって言ってるの。地図の方角より、占いの方が確かよ……たぶん」
「そりゃまた、斬新なナビゲーションだこと。で、その星は道案内もしてくれるのかい?」
セイラはぷいと横を向いた。けれど、その頬にはふっと笑みが浮かんでいた。
「うーん……風は、こっちに進めって言ってる気がしたのに」
「お嬢さんの風は、ちょいと気紛れすぎる。せめて、もう一回地図と相談しようか」
アルヴァは苦笑を浮かべつつも、どこか楽しげにセイラの隣に立った。セイラが鞄から取り出した地図は、ところどころ折れ目とインク滲みで判読困難。それでも、指先でたどりながら、ふたりは進むべき道を確認した。
二人が出会ってどれほどの月日が経つだろうか。その会話は、まるで長年の友人のように砕けていて、旅路の距離と比例して、確実に心の距離も縮まっているのが伺えた。かつての静かな占い師と、皮肉めいた吟遊詩人の間にあった壁は、もう見えない。
「……うん、こっちだね。ありがとう、アルヴァ」
「どういたしまして、お嬢。──にしても、あんたと旅するのは退屈しないな。占いで道を決める旅なんて、ちょっと詩になりそうだ」
アルヴァはそう言って、軽やかに草むらを踏み越えた。
道を正して再び歩き始めたふたり。街まではもう半日の道のり。山の斜面を抜け、小川に沿って続く舗装された石畳が始まる。
「……でも、大丈夫よ。昨日の夜に占ったとき、南南西の風に“城の影”って出たの。きっと、もうすぐだと思う」
セイラは空を仰いだ。風がローブの裾を揺らし、雲の切れ間から太陽が顔を出す。アルヴァも立ち止まり、その横顔を静かに見つめた。
「南南西の風、ね。──ふふん、言うじゃないの。ま、外れたら……そのときは責任とって、詩の題材にさせてもらおうかな」
「えぇ、そっちの方が怖いかも……」
二人は顔を見合わせて笑った。
歩きながら、アルヴァがふと口笛を吹く。軽やかな音が、樹々の合間に響きわたる。
「ねえ、アルヴァ。少しだけ、いい?」
「なんなりと。美しいご令嬢の頼みとあらば、命の一つや二つ──あ、でも弓は一本しか持ってないから、矢の数だけで勘弁してね」
「……ほんとに、口の減らない吟遊詩人ね」
セイラが小さく笑いながらも、目を細めて問いかけた。彼の動きは軽やかで無駄がなく、武器を背負いながらも音ひとつ立てない。旅の中で、何度も命を救われている。
「アルヴァは魔法って使わないの?」
「ん、俺が? ……使えるには使えるけどね。だけどあれ、なんというか、派手すぎるのよ。こう、ぶわーっと、ボカーンって」
彼は大げさな身振りで炎が爆ぜる様子を演じてみせる。
「なるほど……見た目の華やかさはあるかも」
「ま、世間様はそれが好きだろうけどさ。僕みたいに地味に弦を張って、静かに構えて──ってやつは、あんまり目立たないんだよ」
アルヴァは歩みを止め、空を見上げた。口調はふっと変わり、そこにいつもの軽さはなかった。
「魔法ってのは、手っ取り早くて、派手で、そして……お手軽。いまの時代の人間に合ってる。けど、“魔術”は違う。……魂と向き合って、身体を鍛えて、道具に想いを込めて、ようやく手にする力だ」
セイラは目を瞬かせる。アルヴァは、弓にそっと手をやった。その指の動きは静かで、まるで祈るようだった。
「詩も、似たようなもんさ。言葉を飾れば飾るほど、人の心には響かない。……本当に届かせたいなら、静かに、じわりと染みるように紡ぐしかない」
「……そっか」
セイラは、少しだけうつむいたあと、静かに呟いた。
「きっと、魔術は、そういうものなのね」
「その答えは、君が旅の中で見つけるんだろうね。……俺は、せいぜい傍で歌うだけさ」
遠く、風が鳴いた。
「でも、それで救える命もある。俺は、それで十分だと思ってる」
その横顔に、セイラはしばし言葉をなくす。
──仮面のような男。でも、時折、仮面の奥から静かな熱がこぼれる。だからこの人は、ただの軽口屋じゃない。
「……風も、そう言ってる気がする」
やがて街の鐘の音が、遠く、風に乗って届いた。谷の先、地平線の向こうに、白い石造りの大都市が浮かび上がる。
「──あれが、《リュクス・エルマール》?」
「ようやく来たね。星の導き、意外と正確じゃないか。……たまには褒めてあげるよ、セイラ」
「たまには、って何よ……!」
淡い笑い声と共に、二人はその街へ向けて、再び歩き出した。
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