第三話「風の道、命の影」
──風が道を選ぶなら、災厄もまた、それを辿る。
朝焼けの光が丘の稜線を舐めるように照らす頃、セイラとアルヴァは静かに身支度を整えていた。昨夜と同じ火の跡に、灰の匂いがほのかに残る。
互いに一言も交わさず、だがどちらともなく、同じ動作を始めていた。
セイラは草の上に小さな円を描き、その中に掌をかざす。深く息を吸い、目を閉じる。彼女の周囲に微かに光が揺れ、仮面の奥から囁きのような音が響いた。それは幻影魔術の術式──意識と魔力を一致させ、己の気配を薄く、虚像を撒く準備。
一方、アルヴァは自身の竪琴に手を伸ばし、弓のように構えながら一本の弦を指で押さえた。そのまま静かに、風の流れと一致するように音を鳴らす。高くも低くもない音が、空気の波と共鳴し、空間に揺らぎを作り出す。音の反響で敵の注意を逸らす、彼の“陽動の技”。
──互いに、気づいていた。
自分たちは、同じ「修行」を歩いてきた者だと。「気配を消し、気配を読む」術に、それぞれの方法で辿り着いた者だと。
「……気づいていましたか?」
セイラが問いかけた。まだ目を閉じたまま。
「そりゃな。昨日の夜の焚き火、炎の音に合わせて呼吸してただろ」
アルヴァは軽く笑った。
「俺の師匠も、毎朝“音を消す訓練”から始めさせたよ。気配を殺して、逆に“気配に耳を澄ませる”ってな」
「私の師も同じことを言っていました。“静けさを知る者が、動きを読む”と」
どこか照れくさそうに、しかし誇らしげに、二人は仮面越しに視線を交わした。
修行の系譜が違っていても、技は同じ山を目指していた。
──そして今、ふたりは、その技を以って真の脅威を見つけ出す。
村の背後、広がる雑木林を抜けた先に、深くえぐられた谷がある。地図にも載っていない、地元の猟師しか知らないような場所。草木が低く、崖沿いには黒ずんだ岩がむき出しになっていた。
「ここです。風が集まっていた地点をたどると……この谷に辿り着きました」
セイラは地面に描いた簡易な地形図に指を這わせる。
「風はこの谷を抜けて、村に届いていた」
「なるほど、ここには見えざる何かが棲んでるらしい。まるで夜の影が星屑を飲み込むみたいにね」
アルヴァは弓を構えた。だが、森の中はひたすら静かだった。
その時──
ぼぅ、と、空気が歪むような低い音が聞こえた。音でも風でもない、“何か”が、地の底から滲み出るような響き。
次の瞬間、谷底の岩陰から、ねっとりとした白煙が立ち昇った。
「……来ます」
セイラが小さく呟くと同時に、谷の岩肌から、異様なものが姿を現した。
それは、蛇のように長い胴体に、岩のような外殻を纏った異形の魔獣だった。体表はひび割れた火山石のように赤黒く、口の奥には灼けた炉のような光が揺れている。が、火を吐くのではない。吐き出されたのは──白く濁った、有毒の“霧”。
「ガス……」
アルヴァが叫ぶと同時に、セイラが手を振る。数体の幻影が煙の中に現れ、魔獣の注意を引いた。
「陽動します! 弓で、目を狙ってください!」
「了解!」
彼女の幻影が霧をかき乱す。その間隙を縫うように、アルヴァの弓がうなりを上げた。
矢が、一閃──
魔獣の左眼の隙間に突き刺さった。地が震えた。魔獣が咆哮し、煙を激しく撒き散らす。
だが、その動きには法則があった。
「……やはり」
セイラが息を吐く。
「この魔物、“風”に乗せてガスを撒いている」
「つまり──あいつが、村を沈黙させてたんだな」
「風が通るときだけ、村が静かになる──その言い伝えは、真実だった」
二人の目が、仮面の奥で重なった。
これは災厄だ。古代に語られた火山性の魔獣、かつて“噴霧龍”と呼ばれた存在。
力任せに叩いて倒せるような相手ではない。だが、放っておけば次の村が同じ運命を辿る。
ならば──
「セイラ」
「はい」
「仕留めるぞ。俺たちの技で」
「ええ、“静かに”、確実に」
風に乗って来たる災厄を、風のまにまに見送り返す者たちがいた。
谷底に横たわる影──それは生き物というより、地形の一部のようだった。地熱に温められた岩陰に潜み、じわりと白く濁った息を吐く。
セイラは息を殺し、岩の陰からそっと札を取り出した。肌の温もりが移るほどの、よれた札。彼女の術具は、手入れはされていても、煌びやかではない。
「三枚、重ねて。風の影に……」
小さく呟きながら、そっと札を地面に滑らせる。すぐに何かが現れるわけではない。ただ、風がそのあたりを通り過ぎたとき、草の揺れにわずかな“人影”のような形が見えた。
幻影とは、目に見せるものではなく、気配を伝えるもの。木の葉が揺れ、衣擦れのような音がひそかに響く。
噴霧龍が、そちらへゆっくりと顔を向けた。
その隙に──アルヴァが動く。
だが、彼もまた走らない。足音を立てず、斜面を横歩きに移動し、身を伏せながら竪琴を指先でなぞる。
ポン、と低く乾いた音。
風の中にまぎれて、鳥の羽音のような短い残響がひとつ走った。
魔獣の鼻孔がぴくりと動く。風に乗ってきた“音のずれ”が、感覚を曇らせる。谷に響かない音。風が谷の壁に跳ね返って、音像だけが残る。
──それだけで十分だった。
噴霧龍がそちらへ、這うように動く。谷の地形が狭くなっている方へ、誤って入り込んでいく。
「行きます」
セイラが言った。彼女は手に持った札を、そっと風の流れに乗せて放つ。それはまるで、野に咲いた花の種が飛ぶように、音もなく舞い、魔獣の真横を通り過ぎた。
小さな擦れる音。耳の後ろをかすめる風。
魔獣の視線が、そこに奪われた。
アルヴァがその隙に、一本の矢を手にした。弦は引かれず、ただその矢尻に、彼はなにかの草を巻きつけていた。
谷で拾った、毒を吸収する小さな苔草。矢は飛ばされず、ただ高所から風へ投げ落とされる。
ひとつ、ふたつ。矢は“武器”ではなく、“合図”となる。風がその矢を巻き込み、谷へと吹き返した。
そのときだった。
噴霧龍が、ふと動きを止めた。
気流が変わった。毒を吐こうとしていたそれが、風を吸い込んでしまったのだ。思わぬ咳のような動作とともに、噴霧龍がむせた。噴霧龍が見せた、一瞬の隙。
アルヴァが立ち上がった。仮面の奥の目は、夜の底を真っ直ぐに射る。
彼は矢を一本だけ抜いた。
無数の矢筒の中から、一本だけ。その矢は黒く、研がれた音もなく、油も塗られていない。
静かに、弓を引く。
呼吸を一度だけ整え、
そして、
──すぅ、と空気が張った。
風の流れが止まったように思えた。
矢が放たれた瞬間、音はなかった。
風を裂く音すらなかった。
ただ、魔物の吐息が、喉の奥で止まる。
矢は、魔物の眉間に深々と突き立っていた。硬い鱗と苔むした皮膚を貫き、まっすぐにその核心を撃ち抜いたのだ。
ひと息、魔物の巨体が大きく揺れる。毒の霧が空中で巻き起こるが、セイラがすかさず別の札を広げる。幻影ではない。風を斥ける、結界の“かざぐるま”のような簡易結印。霧がすっと、それに弾かれて左右へと割れた。
そして──魔物は、音もなく倒れた。
地鳴りも、咆哮もない。
まるで石が崩れるように、ただ、土に帰った。
谷に、沈黙が戻った。焚き火のような余熱だけが、地表から立ちのぼる。
「……討ったな」
アルヴァの声もまた、静かだった。
セイラは頷く。
「はい。これで、村の風も、戻るでしょう」
ふたりはしばし、魔物の亡骸に黙礼した。敵としてではなく、時を誤って現れた、ただの“地のもの”として。
仮面の下で、風が、そっと頬を撫でていった。
「……この技、やはり、同じ道を通ってきたようですね」
穏やかな風に吹かれて、セイラがそっと言った。
アルヴァが笑う。
「まるで、風に導かれたみたいだ」
小さな笑いが交差する。風は今、ふたりの背を押していた。
下山の途中、アルヴァはふと問いかける。
「……風は、なぜここまで運んできたと思う?」
セイラは足を止め、仮面の奥の視線を谷に向けた。
「それはきっと、まだわかりません。けれど──風は、誰かを選ぶことがあります」
「俺たちを?」
「もしかしたら、そうかもしれませんね」
ふたりの影が、夕陽の中に伸びる。
こうして、谷の魔物は、誰に知らされるでもなく、静かに滅びた。
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