第二話「風の通り道」


──風は、語らない。だが、痕を遺す。


 翌朝、空は抜けるように晴れていた。雲ひとつない青。けれど、澄み切った空の奥に、何かがあるような気がして、セイラ=ルクレースは仮面の奥の目を細めた。


「今日は、村の周囲を調べたいと思います。地形や風の通り道……“なにか”が、この沈黙に繋がっているはず」


「了解。案内役は任せてくれ」


 アルヴァ=フィーニスは、肩から竪琴ではなく弓を下げていた。革製の鞘に収められた木弓は使い込まれていて、吟遊詩人というより、どこか狩人のような印象を与える。


 二人は村を出て、裏手の丘陵地帯へと向かう。鳥も虫も声を潜める静寂のなかで、足音だけが地面に刻まれていく。 


「……このあたりの地形、少し妙ですね」

セイラが立ち止まり、足元の地面に手を触れた。

「斜面の向きが均等でない。風雨の侵食にしては、やけに整っている」


「整ってる?」


「“風が通りやすい”地形……とでも言えば良いでしょうか。ここ、谷ではないのに、自然に風が集まるように削れている」


 彼女の指が、地面に沿ってゆっくりと動く。苔が一方向に伸び、木々は皆、同じ角度で僅かに傾いていた。


「……風に、形がある」


「形、ね」


アルヴァは腕を組み、目を細めて木々を見渡した。

「確かに、風が通った跡って言われれば、そう見えなくもない。でも、それだけじゃ──」


「ただの風ではないのかもしれませんね」

セイラは静かに言った。

「目には見えないけれど、“流れ”を持っている。そして、それに触れたものは……消えていく」


 彼女の言葉は柔らかかったが、その奥にあるものは鋭かった。アルヴァはふと、自分の仮面に手をやった。


(見えている。目を覆っていても、彼女は見ている)



 やがて丘を登りきると、小さな古墓地が現れた。苔むした石碑が並び、風が通るたびに小枝が鳴った。セイラは一つの墓標の前に膝をつき、周囲を見回す。


「──これらの石碑、角度が微妙にずれています」


「ずれ?」


「地震か、地形の動きかと思いましたが……」

セイラの指が、一本の石碑の天辺をそっと撫でた。


「いえ、これも“風”です。一定方向から吹く、強い風が何年も何年も、墓石を傾け続けた。その痕跡」


「……つまり、死者の上を、何度も何度も、風が撫でてきたってことか」


「ええ。語られなかった歴史が、ここにあります」


 ふいに風が吹いた。セイラのヴェールが揺れ、アルヴァの仮面の縁が、微かに鳴った。


「今夜は、この丘の近くで野営をしましょう」


「墓場の隣で?」


「風は、記憶の上を通るとき、最も静かになります。静けさを聴くには、ここが最適です。……ここが、“風の中心”に近いと思います。何か掴めるかもしれません」 


 そして、日が落ちていく。小さな焚き火が、風除けの岩陰で揺れていた。


 


 夜が、音もなく降りてきた。丘の中腹、風除けの岩陰に、ひっそりと小さな焚き火が灯っている。木の枝を組んだ簡素な焚き火台。赤く燃える炎が、周囲の影を柔らかく揺らしていた。 


 セイラは黙々と、鉄鍋の中身をかき混ぜていた。干し肉と豆、それに野草のスープ。香りは地味だが、しっかりとした旨味があった。


「あれ?意外だ。旅人占い師と言えば――闇色の果実に月の涙を垂らして、夜毎に魔法みたいな飯を炊く……そんな幻想を抱いてたんだけどな」


「野営で魔力を消費するのは、非効率です」


「効率か」


「ええ。食事は“修復”の儀です。体を戻すことで、術の精度も保たれる」


「占い師の修行にそんな教えがあるのかい?」


「……あります」

 セイラは少しだけ間を空けて、答えた。それは占術師にとって、最初に叩き込まれる教えだった。


「師は言いました。体は魔術の器。器を欠けば、言葉も歪む、と」


 彼女は食器を手に取り、火を眺めながらゆっくりとスープを啜る。アルヴァもそれに倣った。


「……うまい」

「どうぞ、おかわりもあります」


「ありがたく」



 夜風が火の端をなでていく。そのたびに、セイラの黒紗のヴェールがふわりと揺れ、火の光が仮面の奥に影を落とした。


 アルヴァは、彼女の静かさに改めて目を留めた。彼女は、語らずに語る。火があれば熱を知るように、彼女といれば“風”を感じる──そう思った。


 言葉が少ないわけではない。だが、発さぬ言葉が多すぎる。彼女の“静けさ”は、ただ無口なのではなく、「内側に深く沈む」静寂だ。


「なあ、セイラ。お前、何を見てきた?」


「……旅をしていれば、誰でも、“見なくてはいけないもの”に出会います」


「なるほど。言わないのも、答えか」 


 アルヴァは、弓の弦をゆっくり撫でた。小さな音が、火の揺れる音に溶ける。弦が小さく震え、まるで、風が応えるように、草がわずかに揺れた。


「俺は、音の流れで風を読む。弓も、竪琴も、“響き”があれば応える。昔、師匠にそう叩き込まれた」


「私も、風を読む。ただし、風そのものではなく、風が残した痕を」


「痕か」


「風は語らない。でも、遺すんです。痕跡を」


「──変な占い師だな」

アルヴァはふっと笑った。

「普通は“未来”を読むもんだ。お前のは、“過去”を掘る占いだ」


「過去を知らなければ、未来は誤ります」


 その答えに、アルヴァは少しだけ、目を細めた。


「……いい言葉だな」



 しばらく、火の音だけが続いた。虫も鳥も鳴かない夜。だが、その静けさは怖くなかった。


「……なあ」

「はい」


「明日も、同行していいか?」


セイラはほんのわずかに首を傾げ──


「ええ。こちらこそ、力を貸してほしい」


 小さな炎が、仮面の奥でふたつ、頷いた。


 その夜、風は何も語らなかった。だが、焚き火の温もりだけが、確かにふたりを包んでいた。


 


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