第一話「沈黙の歌」Ⅱ


 ──風が吹くたびに、村は眠った。

 

 昔、そんなふうに言っていた気がする。意味なんて、分かってなかった。けれど、確かに誰かが言っていた。風は、すべてを連れていくと。


 アルヴァ=フィーニスは、竪琴の弦をゆるく弾きながら、ぼんやりと遠い記憶をたどっていた。


 夕風に揺れる野草の音と、琴の響きが重なる。静かな旋律。それは祈りでもあり、弔いでもあった。


 小屋は村の外れにあった。

 傾いた屋根、軋む床、空になった薬瓶──気ままな暮らしだったが、今となっては、この村にただ一人残された人間の住まいとなった。


 数日前から、村人たちが次々と倒れはじめた。誰も騒がなかった。悲鳴も、呼びかけもない。ただ静かに、一人、また一人と命の音が消えていった。


 最初は老人だけだったが、そのうち、若い者も、幼い子も、順に沈黙へと沈んでいった。


 死因は分からない。傷も、病の徴候もなかった。ただ、まるで夜明けの前に灯がふっと消えるように──。


そんな村に、風とともに、ひとりの少女が現れた。


 


 名は、セイラ=ルクレース。占い師だという少女は、仮面の奥で何かを見据えていた。風のように静かで、だが、芯の通った声をしていた。


「──村で、何があったのか、教えていただけますか」


 そう問われて、アルヴァは肩をすくめる。


「確かなのは、ここに“結果”だけが残ってるってことさ。原因? 知らないね。けど、全員、まるで夢の泡みたいに消えたんだ。……不気味なくらいキレイにな」

 言いながら、仮面の縁に手をやった。鋳型いがたから起こした金属製。両目を完全に覆うそれは、無表情で、冷たい。まるで、何も映したがらない鏡のようだ。


「でも、あんたの言葉は旅人のそれさ。その背中――未来の重みを抱いてる。君は、運命をただ眺めるだけの傍観者じゃないんだろ? 占い師さん」


「……はい。わたしは“見る”ために、ここに来ました」


 セイラは静かに札筒を解き、数枚のカードを抜き出した。


「この村に残された“沈黙”の意味を、明らかにするために」


 


「そういえば」

 アルヴァが、ぽつりと呟いた。


「昔な、婆様がこんなふうに呟いたんだ。“風が村を撫でるとき、すべてがまどろみに沈む”ってな。まるで詩だろ? ま、誰も耳を貸しちゃいなかったけどさ」


 セイラの指が、かすかに止まった。


「“風が村を撫でるとき、すべてがまどろみに沈む……?」


「意味なんて俺にも分かっちゃいないよ。ただの昔のオハナシってだけ。……たまたま今、風に運ばれてきただけさ」


 だが、その言葉は、確かに空気を変えた。

 ──風。それはすべての隙間を通り抜ける、無形の来訪者。


 セイラは一歩、足を前に出し、手の中のカードを空へと投げた。


 風が、吹いた。数枚のカードが宙に舞い、見えない手に導かれるように空中に留まる。風が揺らし、カードが揺れ、それでも崩れず、五枚が正面に展開された。


「《五象の展開》。問いは、“この村を覆う沈黙の正体”──」


 一枚目:《冷たい森(フロストウッズ)》

 二枚目:《喪われし口(マウス・レス)》

 三枚目:《偽りの太陽(サン・オルタナ)》

 四枚目:《逆位置の導き(ルート・ロスト)》

 五枚目:《風の虚(エア・ホロウ)》


 アルヴァが、低く息を吐いた。


「フフッ、まるで呪いみたいな響きばっかだな……。どれも口にすれば運が逃げそうだ」


「……“語られぬ真実”と“断たれた導き”。そして、“虚無の風”」


 セイラの声が、わずかに揺れた。だが、それは恐れではなく、確信の手前に立つ者の声だった。


「何かが、確かにこの村を覆っています。姿も形もなく、ただ空気に紛れて……何かが」


「……なら、確かめに行こうか」


 アルヴァが口角をゆるく上げた。その笑みに、飄々とした皮肉と、わずかな熱が混ざっていた。


「さっき言ったろ。俺は旅する詩人……でも、気まぐれに物語の続きへ足を伸ばすのも、性分ってやつさ」


「占い師として、わたしも同行を願います」


 セイラが小さく頭を下げた。そしてふたりは、村の中心へと向けて歩き出した。風が、またそっと、二人の間をすり抜けていく。



 村の通りは、奇妙なほど整っていた。瓦が落ちているわけでもなく、扉が壊れているわけでもない。なのに、気配がなかった。空虚だった。


「人がいた痕跡は、そこかしこにあるのに」

 セイラが、小さな声で言う。


 石畳の上に落ちた籠には、干しかけの薬草。子どもが描いたらしい落書きが、まだ地面に残っている。鍋の中には、固くなったパン。焼いたままの状態で。


 日常が、ある一瞬で断ち切られたように。


「まるで、ひと吹きの風で、すべてがさらわれたようね」

 セイラがつぶやいた。アルヴァは、うなずくでも否定するでもなく、ただ歩みを進めた。その足取りは慎重だったが、慣れている。この沈黙の村を、すでに何度か巡ったことがあるのだろう。


「真っ先に目に入ったのは、誰も寄りつきたがらない井戸さ。けどほら、危なっかしいって分かってるほど、気になるのが俺の悪いクセでね?」

 アルヴァが指を差した先、村の中央に井戸がある。古い木枠の蓋が、半分開いていた。


「水を求めて走ったあの子が、影を落としたまま帰らなかったんだ。……その日を境に、村は静かになったんだ。まるで霧でも降りたみたいにね」


 セイラは井戸の縁へと近づき、そっと覗き込んだ。澄んだ水面。だが、底知れぬ深さ。


「……風、感じますか?」


 セイラの問いに、アルヴァは首をかしげる。


「井戸から?」


「いいえ。空気の流れが、おかしい。──どこからか、戻ってくるような……そんな風を、感じる」


 風はふつう、抜けていくものだ。

 だがこの風は、引き返してくる。

 ひとの形をして、村を巡っているかのように。

 


 二人は、村の奥の家々を調べた。セイラが一枚、カードをかざすたび、結界のように魔術の残響が小さくきらめいた。


「ここには……誰かが、抵抗しようとした痕跡があるわ」

 囲炉裏のそば、床に刻まれた微細な紋様を指差しながらセイラが言った。


「魔法の結界。だが不完全」


「急だったんだろうな。備える間もなかったんだ」


 アルヴァの声に、怒りや哀しみはなかった。ただ、受け入れた者の静けさがあった。全員の死を見届けた者の声だ。


 ──やがて日が傾き、赤い光が村を染めはじめたころ。


 セイラが、もう一度沈黙の星(ステラー・ノート)を引いた。今度は、その札が微かに振動した。


「なにか……変わってきてる」

 彼女が呟いた。


 空気の層が、わずかに裂けたような、そんな感覚。それは風ではなかった。だが、風のように通り過ぎていった。


「夜の帳に巻き込まれる前にさ、いったんおいとましとこうか。また来れる場所なら、それでいいだろ?」

 アルヴァが言った。

「この村、夜になるとヤな空気になるんだよ。理由? 知らないけどさ~……ただ風がね、おかしいくらい強くなるんだ。まるで何かを告げたがってるようにな」


 二人は、村の外れの小屋へと戻った。


 風は、まだ吹いていた。

 高く、澄んだ空から、なにかを告げようとして。


 だがその言葉を、まだ人は理解できない。


 理解するには、まだ──何かが、足りない。


 

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