9.光芒

 まぶたの向こうで、一筋の光が閃いた。

「……」

 陽光に霞む視界。何度か目を閉じ開きして、精彩を取り戻す。

 煉瓦の冷たさが、密着した背中を突き刺す。路地裏を吹き抜ける涼やかな風が、少年の前髪を通り過ぎた。僅かに肌寒さを覚える。

 水のせせらぎ。

 鳥の鳴き声。

 周囲に人の気配は無い。

 ズキと痛む頭を支える為に左腕を持ち上げ……ようとして、遮る物に気付く。半身に感じる暖かさへ視線を向けると、少女がすぅすぅと寝息を立てていた。頭髪から甘やかな匂いがする。

 黄金こがねの髪を追って、睫毛、鼻筋、唇、首の根元に視線を流す。知らず喉を鳴らし、ベニーは右手を伸ばした。

「フィーネ、起きて」

「んぅ……」

 細い肩を優しく揺らす。小動物のような愛らしい呻きだった。

 ゆっくりと開かれた碧い瞳は透き通っていて、快晴の空を思わせる。それと同時、吸い込まれる様な夜空の深遠さを感じさせた。

「……ベニー?」

 上目遣いに愛おしさを覚える。寝惚ねぼけまなこに、たどたどしい口元。庇護欲というヤツだろうか、妹が居たらこんな感じなのだろうか、などと。どうでもいい事を思考する。

「寝顔を見たのは、これで二度目だね」

 言うと、少女は僅かに間を置いて。

「そうね。おはよう」

 こぼれる様な笑みに、ベニーは面食らった。

 彼女との付き合いはそう長くない。聖都せいとを出立する日から始まって、数えられる程度の短い月日の中で、彼女は数えきれない笑顔を見せてきた。その中でもとびきりにほころんだ頬の赤みから、目が離せなくなる。

「どうしたの?」

 ベニーの様子に気付いて、フィーネは目を丸くする。

 小首を傾げる少女の仕草に、ずっと見ていたいとも思ったが、気を取り直して肩を離す。

「もしかして、どこか痛むの?」

「いや、大丈夫だよ。何でもない」

 確かに痛む。けれども、それは見当外れな心配だ。

 優しくフィーネに返し、立ち上がる。瞬間、鈍器で殴られたかの様な衝撃が頭の内側から響いた。

「お腹が空いたね、君は?」

 努めて平静を装い、少女の顔色をうかがう。

「ふふ、私も」

 微笑。立ち上がり、疑う素振り無くスカートの埃を払う少女の姿に安堵し、ベニーは胸を撫で下ろした。

 そうして、昨夜の事を思い出す。


———


 魔女のねぐらを後にして。

 ベニーは重い身体を引き摺って歩いていた。

  ふらついた足取りで。何処を歩いているのか、どれほど歩いたか。分からない。

 とにかく魔女から離れたい。独りになりたい。

 酒と薬、そして魔女の言葉によって掻き回された思考の中で唯一、方針付けられたのは、歩き続ける事。

 故に歩いた。身体がまるで自分の物ではないかのようで、意思に逆らって倒れようとする。かつて毒を盛られた事があったが、その時と似た感覚だ。

(嗚呼ああ……)

 沸いてくるのは自己嫌悪だった。

 浅はかな己を恥じる悔恨と自責の念。あの陰険な魔女の何処どこに、信じるに値する物があったのか。

 疑いはあった。警戒もしていた。けれど、足りなかった。

(くそ……)




 路上に倒れ込む。冷たい地面が容赦なく体温を奪い去る。徐々に視界の端がもやがかり、黒く上塗りされていく。

「ベニー!」

 ふと、誰かの声がした。うつぶせに倒れ込むベニーの身体を、声の主が抱き起こす。

「私が分かる? 声、聴こえる?」

「あぁ」

 耳元でささやく声は上擦うわずっている。慌てた様子で、けれどそれを見せないようにと落ち着き努めた声色だ。

「魔女は……」

「居ないわ。何処に行こうとしていたの?」

 問われ、ベニーは回らない思考で返答を探す。

「分からない」

「そう」

 頷き、少女はベニーの身体に腕を回し、ゆっくりと立ち上がらせた。ベニーの体重を支え、歩き出す。

「何処へ……?」

 今度はベニーが問う。

 なけなしの気力を振り絞って出した問に、少女が答えた。

「分からないわ」

「そう」

 ベニーは成されるがまま、その身を少女に預けた。

 靴先で地面を掻きながら歩く。何度もつまずき、その度に体勢を崩しかける。そしてその度、少女は立ち止まってその身体を支えた。

 何も言わず、ただ歩く。二人の呼吸音だけが暗闇に小さな残響を落とす。

「ねぇ、ベニー」

 不意に少女が口を開いた。

「私ね、思ったのだけれど」


———


 食後の礼拝を済ませ、二人は教会を後にした。

 木陰越しに入道雲の浮かぶ空を見上げ、ベニーは目を細めた。

 刹那、視界から色が消える。

 灰色の世界。

 瞬きをすると色彩は戻り、再び瞬きをすると灰色に。

 瞬き、色彩。灰色、色彩、灰色。

(……そうか、これが)

 これが死する者の見る景色か、と。ベニーはいつか語り聞かされた話を思い出した。

 死を間近にするという事は、魂を始祖へと還し、肉体を灰へと帰きする事である。その影響は五感に及び、聴覚ならば耳鳴り、嗅覚は常に自らが発する焦げた匂いを感じ取るようになる。

 そして、視覚は。

「どうかした?」

 我に返り、隣立つ少女を見る。不安げな表情を浮かべながら、気遣うようにこちらの様子を窺っていた。

「ねぇ、本当はどこか悪いんじゃ……」

「大丈夫」

 微笑み、一言で制す。

 本当は立っているだけで全身を蝕むような痛みが走る。だが、それを彼女に伝える気は無かった。

 伝えても意味は無いし、そもそもこの痛みは、彼女が懸念しているであろう魔女の仕業では無い。彼女と出会い、この都市まちを訪れるずっと前から抱えてきた物だ。

 今更、誰かに身を案じて欲しいとは微塵にも思わない。特に、彼女には同情して欲しくないと感じている。

「それより、行こう。のんびりしても良いけれど、時間は待ってくれないからね」


——————


「悪いけど、心当たりはないねぇ」

「そうですか」

 客引きが声を張り上げる北門付近の大通り。

 日除けの下に並んだ果実はどれもよく磨かれていて、二人の浮かない顔を映している。

 向かい合った痩身の商人は、旋毛つむじを掻きながら申し訳なさそうに首を振った。

 フィーネとベニーは人探しをしていた。露天商の男である。

 あの木漏れ日の小教会は、フィーネにとって「この街に来て良かった」と思える数少ない思い出の場所となっていた。

 けれど、案内してくれた彼の姿は何処を探しても見当たらず、知る者すら居ない。しばらく続けていた聞き込みだったが、何人に訊ねたか分からなくなってしまった辺りで、とうとう二人は諦めた。

「せめてお礼を言いたかったのだけれど」

 肩を落とす少女の背中に手を添え、店頭を後にする。

「もう都市まちを出てしまったのかもしれないね」

 言って、仕方ないさと励ますベニーにフィーネは苦笑で返す。気を取り直し、二人は街並みを見て回る事にした。

 けれども。

「おばあさん、こんにちは! 今日は良い天気ですね。ところでその荷物、重くない? どこまで行くんですか? 私、持ちます!」

「おや、お嬢ちゃん。どうも、そうだねぇ。今日は本当に気持ち良いくらい晴れているねぇ。これくらいの荷物はどうって事ないんだよ。でも……そうかい? 悪いねぇ、ありがとうねぇ」

 フィーネが大人しく観光を楽しむ様子は無かった。

 当人は「何かをしながらでも街並みを見て回る事は出来る」と言い訳をした。

 然り。確かにそれは可能ではある。だが、口振りとは矛盾して少女の人助けはいとまが無い。

 老人の荷物を持って同行する折にも、街を見るより老人の話に耳を傾けて相槌あいづちを打ちながら、視線は老体の覚束おぼつかない動作を注意深く見守っているのだった。

 それが済んだと思えば、今度は泣いている子供を目敏めざとく見つけ、駆け寄り膝を折る。

「こんにちは。私はフィーネ、貴方は? そう、よろしくね。どうして泣いていたの? そう、お母さんとはぐれてしまったのね? 大丈夫、一緒に探しましょう」

「……こんにちは。うん、うん。でも、いいの? うん……ありがとう」

 それが済めば、次は赤子をあやす夫人の隣で赤子に笑いかけた。

 それが済めば、険悪に睨み合う男達の間に割って入り仲裁をした。

 それが済めば、次。

 済んで、次は、次は、次。

「フィーネ」

 三度目の荷物運びで、ついにベニーは切り出した。

 片足に怪我を負った馬を乗せた小さな荷車を後ろから押しつつ、隣で汗を流す少女が「え?」と間抜けな返事をする。

「今日くらいは自分のやりたい事をしても良いんじゃないかい?」

 問われ、フィーネはぽかんとした様子で少年を見つめた。やがて、くすりと笑う。

「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫」

「そうは見えないけれど」

「これが私のやりたい事なの」

 そう言われてしまえば、後は何を言っても野暮だ。

 ベニーは溜息を吐きつつ、少女に付き合って荷車を押す。そんなベニーに、今度はフィーネが問う。

「ベニーこそ、私に付き合う必要は無いのよ? 後で何処かで待ち合わせても……」

 そんな事をしたら自分は待ちぼうけをする羽目になるだろう。そう思ったが敢えて口には出さず、「これが僕のやりたい事さ」と笑いかけた。

「ありがとう、ベニー」

「どういたしまして」

 陽光が形造る二人の影は昨日よりも近く、多く重なり合っている。


——————


「私、本当はね。がっかりしてたの」

 次に切り出したのはフィーネの方だった。

 南門に向かって大通りを往く。

 その前髪には、迷子の少女から渡された“お礼”が飾られていた。赤いブローチが鮮やかに、色づいた果実のように黄金の髪を色づかせている。

 都市を包む夕焼けの光に染められて尚、確かな彩りを主張する赤を確かめて、ベニーは口を噤んだ。

 次なる言葉が紡がれるのを黙して待つ。

「この都市に来てすぐに、色んな事があって。でも、嫌なことばかり色濃くて」

 語るフィーネの視線は迷わず前に向かっている。

 並び歩くベニーも又、前方へと視線を向ける。交互に視界に映る灰色と茜色。

「だけどやっぱり来て良かった。悪い人ばっかりじゃない、て思い出せたから」

「本当に?」

 問われ、刹那にフィーネは苦悶を浮かべた。

 慌てた風に俯き、すぐに顔を上げる。取り繕った笑みはぎこちなかった。端の下がった眉。くしゃりと歪んだ目元。口端が引きっている。

「いじわる言わないでよ」

 ベニーは己の失言を後悔した。

 彼女との付き合いはそう長くない。聖都を出立して、数えられる程度の短い月日の中で、彼女は数えきれない笑顔を見せてきた。

 けれどその笑顔は、今まで見たどんな表情よりも、寂しげで眩しかった。

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