18 ドリュアデスという名前

 樫の木が明滅を始めるとそれに共鳴したように葉がさざめき始めた。眠りから覚めたばかりの小さな木の葉同士は隣近所が顔見知りだったかのように会話を始める。


「ドリュアデスが知りたいんだ」

「紫のあの子でしょう」

「いいや、銀の髪のあの子だ」

「同じだよ」

「いいや、同じじゃない。少し違うんだ」

「ユニークだよね。可笑しいや」


 いっせいに木の葉がけたけたと笑う。何が面白かったのだろう。会話についていけずに立ち尽くしていると樫の木が大きな瞳をようやく開いてくつくつと笑った。


「それでは説明にならないよ。賢いものはいるかい」

「はい、ここに」


 小さな葉が凛としゃべり出すものだから滑稽だ。彼にも顔はない、どの葉にもひとつもだ。彼はピンと背筋を伸ばしたように語り出した。


「精霊は誰かの思いを受けてこの世に誕生することは知っていますか」


 言葉を発せずに考えていると木の葉がこほんと咳払いした。


「え、わたし?」


 指さして問いかけると「そうです、あなたです」と樫の木の葉は答えた。


「何となく」

「あなたを望んだのはドリュアデスではありません」


 きっぱりといわれてしまったものだから一瞬思考が停止する。わたしはドリュアデスに望まれて生まれてきたのではない、と。ドリュアデスであるにも関わらず?


「それってどういう」

「あなたを望んだのはです」

「……そんな」


 絶句していると樫の木がしわがれた声でしゃべり出した。


「記憶を映し出そう」


 ドリュアデスのなかに鮮明な記憶の潮流が沸き起こる。精霊しか存在しない森に突如迷いこんだのは人間の男だった。いたずら好きのコボルトのような顔をしている。男は樫の木の根元でうたた寝すると夢を見始めた。彼の妄想のなかには美しい紫の瞳の女がいて、髪はまっすぐで美しい銀色。彼は彼女とアバンチュールを過ごす不届きな夢を見ている。


 翌日、彼は何事もなく森の外へと去っていった。それだけのこと、たったそれだけのことだったのだ。


「わたしが生まれたのは彼が根元で夢を見たから?」

「そうだよ、彼は樫の木の根元で美しい女の夢を見た。それが現実になって生まれてきたのが君だよ、ドリュアデス」

「そんな」


 落胆していると緑のドリュアデスが肩を抱いた。


「生まれた理由は人それぞれさ。でもキミは樫の木から生まれ落ちたから誰が何といおうとドリュアデスなんだよ」

「ドリュアデス……本当にわたしはドリュアデス?」

「そうさ」


 緑の彼女はそういって微笑んだ。


 その晩、ドリュアデスは泉の畔で考え事をしていた。自分が半人前の精霊だったことに涙して泉を見つめていると透けるような精霊たちの囁きが聞こえる。この場所に住まうのは水の精霊ウンディーネだ。


「あなたの半分は人間で出来ている」

「半分は精霊よ」

「でも半分は人間」

「不完全とは思わないで。自分じゃない生き物何ていない」

「自分は自分。他の血が混ざろうとも見知らぬ誰かではない」


 優しく励ましたいのだろうか。荒んだ心にはそれすらも判別がつかない。ドリュアデスは心に鬱積していた思いを吐き出した。


「わたしには出来ないことが多すぎる。精霊に出来てしまうようなことが私には難しい。祈る力も弱い、恵みも与えられない、自分から離れて物を見ることさえ出来ない。出来るのは悲しい時にそっと姿を消すだけ」

「人間だから?」

「え?」

「あなたの半分は人間だからかしら?」


 目の前に姿を現していたのは魚の耳をした静かな生き物だった。


「わたしは他の精霊よりも劣っているのかもしれない」

「優れているとは思えないの?」


 どういう意味だろう、精霊としての仕事がほとんど出来ない自分が優れている何て考えたこともなかった。


「あなたには人間らしい感情がある。精霊が持ち得ないものよ。精霊は悲しいなんて涙しないの。わたしにはあなたが羨ましい」


 ウンディーネはそれだけいうと泉のなかへ姿を消した。

 ドリュアデスは月夜を見ながら考えていた。泣いて悲しむことを当たり前に思っていたけれど、普通の精霊はそんな感情を持ちえない。気づきもしなかったことだ。喜怒哀楽を持ちえたこと、わたしは特別。うつ伏せになって目を景色から逸らしながら特別なのよ、と心でつぶやいた。


 翌朝、ドリュアデスはフェルバリの森を出る決心をした。人間に会いに行くためだ。人間がどんな生き物か知りたかった。それを知ることで自分半身は精霊だと自覚したかった。仲間のドリュアデスたちに話すと彼女らは抱きしめて「幸せを探しにいくんだね」といってくれた。


 森の中心部にあるフェルバリの丘で最後の別れをした。紫色のルーマの花が咲き誇る美しい丘だ。ドリュアデスを囲って仲間のドリュアデスたちが見送りをしてくれる。髪の短い緑のドリュアデスが彼女らを代表して緑色の念糸で編んだ極上のドレスを渡してくれた。わざわざ仕立ててくれたものだ。


「今までありがとう、ドリュアデス」


 頬がぽうっと赤くなって隠れたくなる。でも逃げずに彼女らと向き合ってこう告げた。


「ありがとう、ドリュアデス」


 祈るように返事をすると緑色のドレスを身にまといフェルバリの森を出立した。




 それから世界各地を巡る旅に出て、見たこともない精霊にたくさん会って酸いも甘いも知り、苦楽を経験したけれどそれもいい思い出だ。初めて人間という生き物を見たときには興味津々だったし、自分はどうしようもなく耳が尖っていたけれども、それでも自分は人間に近いとも思えた。

 幸せのありかは自分で見つければいい、今はそう思う。


 旅の末におばあさんと出会ったのは空腹でさ迷い歩いていた森の中だ。カヌレをむしゃむしゃと食べていたところを見られてしまった……というのは昔々のお話で。




 昔の記憶を掘り返していた。緑色のドレスはおばあさんと暮らし始めたときに脱いだ。大切にクローゼットに閉まっておくと虫が来ないよ何ていったけれども精霊の念糸で編まれたドレスには縁のないことだった。もうフェルバリの精霊の森には戻らない、場所も忘れてしまった。

 仲間はどうしているだろうか、やっぱり不思議な森で暮らし続けているのか。気分屋さんがいたならきっと故郷を捨てたに違いない。


 深く考えこんでいたら急に感情が湧き出てきた。


「テオに会いたいな」


 自然な気持ちだったと思う。ドレスを一回抱きしめると目を閉じて離してまた元の場所に戻した。

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