19 カヌレを焼く幸せ

 カヌレは幸せの象徴だと思う。おばあさんから教わった焼き方を延々と続けているうちに気づけたことだ。町で丁寧に材料選びをして、大好きなハチミツとバターをケチらずに使うこともその幸せの一つ。専門店にはたくさんの材料が並んでいるけれど、使えるものはごくわずか。だから材料選びは慎重に行わなくてはならない。


 製菓材料専門店にはクリスマスケーキ用のドレンチェリーだとかアイシングの粉、板チョコレートなどが目立つところに並べられていて目を引く。女性客が多いけれど、男性パティシエもいてみんな楽しそうに材料選びしている。


 ドリュアデスはその店の奥の目立たない場所でハチミツ選びに迷っている。ハチミツは蜂の採取する花で味がまったく違うので変えればカヌレの風味ももちろん変わる。この間はサシャーダとリークの花のものを買った。結構高価なので一回に二瓶までしか買えない。何より重たいからそれくらいしか持って帰れない。


(うーん。どれにすべきか)


 誰に相談することもなく迷っていると店主が声をかけてきた。


「お嬢さん、しばらく来なかったね」


  髪で隠した耳をそばだてる。店主とは普段特に会話はしないけれど客としてちゃんと覚えてくれていたのだ。愛想よく返事するのは苦手なのでそっけなく応答した。


「カヌレが焼けなかったの」

「ほう、カヌレが焼けない」


 店主のおじさんは考えたように唸った。どこか響くものがあったのだろう。カヌレが焼けないとは、オーブンが壊れただとか材料が足りなかっただとか風邪をひいて体調が悪かっただとか言葉通りの意味ではない。それを察してくれたのだろう、おじさんはこういった。


「どこか精神的なものかい」

「そう」


 テオのこと、自身の生まれのこと、人間の生活を続けていること。色んなことが足かせとなって自身を苦しめていたのだ。今は抜けきっている、そう思う。だから町に来た。


「今は焼けるんだね」

「はい」


 そう返事するとおじさんはディアマンテの瓶を取ってこれがおすすめだよといった。ディアマンテは高地に咲く香り高い花だ。匂いも好きだが味もドリュアデスの好みだ。

 勧められた瓶ともう一つはサシャーダを一つ、二瓶購入すると会計の時に店主が「あなたのカヌレは好きだよ。とても美味しい」といってくれた。


 町中の公園のベンチに腰かけて考えていた。テオへのお土産のカヌレが六つバスケットのなかに入っている。本当なら荷物が増える前に行くべきだった。でもいざ町に来てみると渡しにいく勇気がない。やっぱり帰ってしまおうかと考えていると明るい調子の声がした。


「ドリュ!」


 テオだ。彼はこちらへ向かって歩いてきている。ドリュアデスは反射的に立ち上がり逃げようとしたがその手をテオにぐっとつかまれた。


「待って、真って。逃げないで」


 テオは息を切らしながら少し笑った。


「しばらく来なかったよね」

「それはテオが……」


 ドリュアデスの頭のなかには女子たちに囲まれたテオの姿があった。可愛い子たちばかりで鼻の下伸ばして嬉しそうだった。どうせわたしのカヌレなんかと考えてしまう。でもそんなことはいえない。


「この間のことは」


 と、テオがいいかけると黄色い声がした。


「テオ! 良かったここにいたのね。わたしずいぶん探して」


 ほらやっぱりこの間の子。ドリュアデスは身を翻して帰ろうとする。それをテオに手で制された。


「待って、ドリュ。ちゃんというから」


 ドリュアデスは口を閉じて立ちどまりテオの表情を見る。テオは彼女に向き直るとごめんといった。


「大切な友達なんだ。二人で話したいからまた今度」


 ドリュアデスの心臓がどきんと跳ね上がる。大切な友達って。いわれた女の子は少し残念そうにするとそう、じゃあまた今度ねといい置いて去っていった。テオはくるりと向き直るとこういい訳した。


「あの子たちは図書館の利用者なんだ。でも本当にそれだけで、ちょっと困ってて」


 テオはテレ隠しで頭を掻いたあとにドリュアデスに向き合うと何かをいいたそうにした。


「素敵な格好だね」


 テオはドリュアデスの格好を見るとそういった。今日の装いは古着屋で見つけた黒いバックベルトつきの厚手のお気に入りのコートだ。下はいつもの小花柄のワンピースだけれどこれ一つでシックになる。髪を上手に編みこんで尖った耳を隠していてどこからどう見ても人間にしか見えない、と思う。


「あの、その、これは」


 頬を染めながらあたふたしているとテオも照れたように「いや、本当に可愛いから」といった。


 二人でベンチに腰かけてクリスマスの飾りつけが終わった煌びやかな町並みを眺めながら色んなことを考えていた。恋人たちが行き交い商売人は楽しそうに接客している。親子連れの姿もあって、人間って何て楽しそうなんだと思った。子供が歩きながらマフィンをかじっているそうだ、忘れていたと左手にあるものを思い出した。


「あの、テオ。実はこれ」

「何?」


 ドリュアデスは紙箱ごとカヌレを渡した。今朝焼いたものが六つ。テオは開けて中身を確認すると一緒に食べようよと誘ってきた。ドリュアデスは言葉もなくうなづく。


 もちもちの触感を噛みしめながらたぶんこういうのが幸せねと思った。大好きなカヌレを大切な人と食べる。大切な友達と。するとテオも似たようなことをいった。


「ドリュのカヌレを食べていると幸せな気持ちになるね」

「え?」

「ハチミツ、ラム酒、いい小麦粉、それからバニラビーンズに。あとはよく分かんないけど愛情がたくさん詰まっている」

「愛情……」

「大好きって気持ちがお菓子を美味しくするんじゃないかな」


(大好き?)


 急に心臓が音を立てて高鳴り始めた。大好きという言葉を意識せずにはいられない。大好きって、大好きって。わたしはテオが、テオのことがだいす…………


「ドリュ、あのね。僕はドリュのことが」


(ダメ、ダメ! 絶対ダメ!)


 恥ずかしさに耐え切れず立ち上がるとカゴのなかに入れてあった図書館の本をテオの胸元に押し付けた。


「ごめん、ありがとう。返却日過ぎてるの、返しておいて」


 勢いよくそれだけいうとスカートを翻してその場を立ち去ってしまった。

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